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十二恒興、闇に落ちる

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 那古野城の広間に、恒興が大の字に転がっている。傍らのお善が、恒興の腫れあがった顔を濡れ手拭いで冷やしている。
「ウッ、ウウッ……」
 恒興が目を開けた。
「よかった、勝三郎。気がついたわね」
 お善の声に、恒興が飛び起きた。
「お七! お七はどうなった‼」
 起き上がろうとする恒興を、お善は慌てて押しとどめた。
「心配ない。勝三郎、あなたの気持ちが殿に通じた。殿がお七の縁談を撤回こそしなかったものの先に延ばして下さったわ」
「お前たちはどうなのだ?」
「信時様も、私もお咎めなしよ」
「それはよかった」
 恒興は、安心して力が抜けたように横になった。
「でも、信時様が、末森へ逃れようとしたのは事実だから、この度の一件から、しばらく、私とお七は信時様と離れてお城で暮らすことになったわ」
「それでは人質ではないか!」
「そうね、それでも、お七は残ったし、私は帰蝶様の屋敷にお預けだから何も変わらない。信時様にも会いたいときに会えるし、文句はないわ」
「それでよいのか?」
「うん、それでいい……」
 お善は、手拭いの入った桶を小脇に抱えて立ち上がった。
「勝三郎、冷たい水に取り換えてくるわね。それに、お七にお乳をやる時間だからちょっと席を外すわよ」
 お善は、部屋を出て行った。
 ヒューッ!
 どこからともなく冷たい風が、恒興の腫れあがり熱を帯びた顔に当たった。
「なんだ、お前か」
「せっかく心配して、様子を見に来たのに、愛想のない挨拶ですね」
 般若介だ。
「俺は、お前が気に入らん。早く姿を消せ」
「おお、俺は、池田さんに随分と嫌われたようだ」
 般若介は、まるで嫌われるのが嬉しいように、仮面の下で笑い声をあげた。
「で、なんの用だ?」
「それなのですがね。近々、池田さんが下準備した。殿と美濃、斎藤道三の面会の日取りが決まりました」
 恒興は、目だけでジロリと般若介を見て、
「いつだ?」
「この月の末です」
 と、告げた。
 斎藤道三からの提案ではじまった信長との面会は、家老の佐久間信盛の命を帯びた恒興が、単身、美濃へ走り直接準備した。
 美濃で恒興は、愛する月を失った心の隙を突かれ、信長暗殺をそそのかされた。
 その時は、腐っても父も母も織田家に仕えた侍の矜持とでもいうのか、織田家の家臣であることにこだわって突っぱねたが、次第に、蝮の毒が体に回って来た。
 恒興の心を見透かしたように道三の間者、般若
介が耳打ちし揺さぶりをかけた。
「池田さん、さっきは惜しいことをしましたね。あの時、殿を刀で一突きすれば、美濃の主も喜んで池田さんを迎え入れたものですぞ」
 仮面の下で微笑んでいるに違いない。
「こいつ!」
 恒興は、頭に来た。起き上がって、般若介の仮面を叩き割ってやりたい。それに、こいつは、いつまでたっても仮面の下の素顔を見せない。まったく気に入らない。
 そうだ、こいつの顔を見てやろう。 
 恒興は、引き寄せられるように般若介の仮面に手を伸ばした。
「勝三郎!」
 お善が小脇に水と手拭いが入った桶を抱えて入って来た。桶には、月の墓を参った時に見た白百合を添えていた。
 恒興は、般若介の仮面に手を伸ばすのを止めた。
「それじゃあ、池田さん。斎藤山城守と殿の面会の話は、確かに伝えました。後は、よろしくお願いしますよ」
 と、般若介は、お善と入れ違いに部屋を後にした。
 恒興は、白百合に気付いて、
「それは?」
「さっきね、殿が余ったから下さったの」
「殿が?」
「そうよ。殿は、ときどきどこかへお出かけになって、帰りには決まって白百合を下さるの。ああ見えて本当はお優しい方なのね」
 恒興は、信長の白百合になにか勘働きのような物が閃いて、
「お善、その白百合をよく見せてくれ」
「あら、勝三郎。花に興味を持つようになったのね」
 と、お善から、白百合を受け取った。
「そんなじゃない。いいから見せてくれ」
 クンクン!
(この匂いは……)
「殿は、この白百合をどこで摘んだと申しておったのだ?」
 お善は首を捻って、
「わからないけど、そうね、大殿の祀られている萬松寺の帰りだってことだから、あのあたりの野辺のべの白百合じゃないかしら。きっと、殿はああ見えて花が好きなのね」
(そうか……殿が白百合を……)
 恒興は、飛び起きて立ち上がるなり、部屋を出た。

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