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十二恒興、闇に落ちる

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 日暮れた。恒興が、玄関口まで信時に見送られて、
「恒興、元気が出たようだな」
「ああ、お七は良い子だ」
「いつでも家を訪ねてくれ」
「ありがとう信時。お前たち家族は、俺の恩人だ」
 恒興は、お七との時間で、すっかり心を持ち直した。斎藤道三にそそのかされた信長暗殺の密
命も、お七の為にも思い止まるつもりだ。
 信時とお善の夫婦が、帰りには菓子折りを包み、帰ってからつまめるように、小魚を甘辛く煮た物を用意する念の入れようだ。
 この世界に、家族と呼べる者は、己一人だ。荒んでいた心も晴れ、気分良く門口を出た。
「池田様、ちょっと……」
 恒興が、荒尾家の屋敷を出ると、暗がりに般若介が待ち伏せしていた。
「なんだ般若介か、なにか用か?」
「池田様、斎藤山城守様のお約束、お忘れではございませんでしょうか?」
「わかっておる役目は果たす」
「それならば結構です。いつでも俺は、池田様のお心を見張っておりますからね」
 そう言って般若介は姿を消した。

 翌日、恒興は、久しぶりに那古野城へ出仕した。懐かしい広間に顔を出すと、
「おお、恒興ではないか、心配しておったぞ」
 仲間の河尻秀隆と毛利良勝が、肩を叩いて出迎えた。
「河尻さん、毛利さん、心配をおかけました」
「なにを言うんだ恒興、俺たちはガキの頃からの付き合いだ。お前が辛い顔をしていると、我が事のように悲しいぞ」
 ゴッホン!
 広間の隅で、柱に凭れ掛かる般若介が咳払いした。
 良勝が、般若介を睨んで、
「なんだ般若介。俺たちが旧交を深めることに文句でもあるのか! ハンッ?」
 と、喧嘩腰で凄んだ。
 般若介は、因縁をつける良勝には、関わらないようサッサと立ち上がって、
「池田さん、戻られたのですね。よかった」
 と、一言い残して部屋を出た。
 秀隆と良勝は、般若介を見送って、
「なんだあいつは、四六時中仮面を被りおって気に入らん」
 と、悪態をついた。

「それにしても恒興。俺たちとお前が初めて出会った喧嘩の日の事を憶えておるか?」 
 良勝が唐突に尋ねた。
「俺が、殿を殴り飛ばした日ですね」
「ああ、お前が殿を殴り飛ばした日だ」
 秀隆が加わる。
「そういえば、あの日、殿は生まれて初めて人に殴られたって言っていたな」
「ああ、そうだった。平手様は叩いて教える人じゃないし、大殿はずっと離れて暮らしておったからのう」
「そうだ。帰ってから、あの殿が腫れあがった顔を鏡に映して『この腫れは、本当に治るのか、大丈夫なのか』って、めずらしく狼狽ろうばいしておったからのう。何度も尋ねられて困った」
「そうだった。そうだった。殿は今まで散々、俺たちを殴り飛ばしていたのに、あの慌てぶりには笑ったな」
「なんの話だ?」
 と、そこへ丹羽長秀が現れた。
「おお、池田殿ではないですか、戻られたのですね」
 長秀は、恒興の抜けた穴を、信長の側近そばちかく仕え、護衛と助言の役目を担っていた。
「それはそうと、信時を見かけませんでしたか?」
「信時に何か用か?」
「殿が、信時に話があるようで探しているのです」
 信時が、役目の時間に遅れるのは珍しい。何かあるかも知れない。
「わかった。俺も探してみよう」

「信時、居らぬか?」
 恒興は、信時夫婦が仮住まいしている荒尾家を訪ねた。
 門がピシャリと閉ざされている。
(おかしい……)
「誰か、誰か居らぬか?」
 すると、スッと、勝手口が開いて、荒尾善次の嫡男小太郎が、少し顔を出し手招きして恒興を呼んだ。
「なんだって!」
 恒興は、小太郎から思いがけない話を聞いた。
 信時とお善の娘、お七を信長が養女に迎えるというのだ。
 そして、同じ織田一族の飯尾いいお尚清なおきよの嫡男茂助と縁談を進めているという。
「いくらなんでも早すぎる。お七はまだ二歳にもならぬ!」
「そうなのです池田さん、その話を信時義兄(あに)が聞いて、さすがに納得がいかないと、姉とお七を連れて行かれました」
「なんだと、どこへ向かったのだ?」
「末森の信行様のところだと申しておりました。我らは、義兄家族が逃れる間の時間稼ぎに門を閉ざしているのでございます」
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