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八 尾張の悪ガキたち
十三
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「勝三郎、若殿から聞いたぞ。昨夜は熱田の遊郭に泊まったのだって?」
広間に、恒興が顔を出すと、河尻秀隆、毛利良勝が、両脇からガッチリ肩を組んで、そう耳打ちした。
「何もありませんよ。俺は、昨夜は、月の手も触れずに、さっさと帰りましたから」
「ほう、女の名は、月と申すのか」
しまった。思わず名前を口走ってしまった。
すると、良勝が、恒興の脇を肘ついて、
「嘘を申すな勝三郎。お主は独り身、女は遊女。家に嫁のいる俺でも、戦へ出て何日も女を抱けない日が続くと、『女の口を吸いたい。女を抱きたい。女が欲しい』と、渇望するのだ。それが、独り身のお主では尚更であろう。お主が、遊女を目の前にして抱かずにはおられまい」
無粋だ。この武闘派の二人は、愛だの恋だの繊細な夢見心地の話を『女は抱くもの』とまるで性のはけ口としか考えていない。こればかりは、今の恒興にはいただけない。
「秀隆、良勝。恒興をいじめるな。それぐらいでよさぬか」
信時が、機転を利かせて、助け舟を出した。
しかし、気の強い良勝が食ってかかった。
「いじめてなどおらん。俺と秀隆は、お前に女を奪われた勝三郎が、いつまでも傷心で立ち直れずにおるから、別の女でも当てがおうと心配いたしておるのだ」
解釈は正しいが、言動が間違っている。
いくら、仲間となり気心が知れた恒興であってもこの言葉は酷だ。所謂、傷口に塩を塗るとはこのことだ。
信時も、恒興が仲間になった頃、信長に申し入れて、お善との縁談を取りやめる機会を持ったことがある。信長もそれを承知して恒興に持ちかけたが、この男、それは一度決まったこととして頑として聞き入れなかった。
恒興の意固地だと思うがそうではない。
恒興とすれば、お善の心が一番大事なので、本人に尋ねたのだ。
「お善、お前の縁談だが、今なら取りやめることもできるぞ」
恒興は、申し訳なさもあって控えめに尋ねた。
「話は縁談にまで及んだのも喜蔵様とは、なにかの縁があるのでございましょう。私は、嫁に行きます」
恒興は、お善にキッパリと断られたのだ。
縁談を受けたのはお善の心だ。
お善がそうあっては、恒興が無理にやめさせることもない。
「ならば、俺も勝手な義理を通すまで、嫁をもらわぬ」
と、覚悟を決めた。
そこから、恒興は、秀隆や、良勝がどんなにすすめても固く勝手な義理を通している。
秀隆と良勝の責めに耐えられなくなった信時が、岩室重休に助けを求めた。
「おい、秀隆、良勝。嫁を貰わぬは恒興だけではないぞ。この俺も独り身だ」
今まで他人事として、静かに聞いていたこの男が立ち上がった。
勝ち気な良勝も、この男には頭があがらない。重休には戦場の作戦で何度命を救われたかわからない。
それに、この男の言葉はぐうの音がでないほど、いつも正しい。
「すまねぇ、勝三郎。俺たちの悪ふざけが過ぎた。許してくれ」
「いいや、今回は、恒興だけではないぞ、信時にも詫びるのだ」
「すまねぇ、信時。俺の口が過ぎた。許してくれ」
良勝は、素直に頭を下げた。この男も悪気がないのだが、少々、配慮が足りないのが玉にキズなのだ。
「おい、お前たち! オレに知恵を貸せ‼」
話をぶち破るように大広間に信長が入って来て、悪ガキ共の真ん中に陣取り、分厚い帳簿をドンと置いた。
悪ガキ共は、半時(およそ一時間)ほど、帳簿を手分けして熟読させられた。
槍を持たせれば信長親衛隊の中でも一、二を争う河尻秀隆も、毛利良勝も、さっきまで、恒興をいじめていた時の元気はない。
秀隆は、帳簿を広げ、目を白黒させながら、数字を指折り数え、良勝は、すでに、額に濡れ手拭いして頭を冷やして横になっている。
一方、信時と重休は、次々に帳簿を読みこなし、手代で筆を執り、なにやら覚書のような物を書いている。
恒興は、養父森寺秀勝に幼いころから読み書き算盤をある程度は習っている。
しかし、まだまだ、生半可に文字と数字が読めるだけ。秀隆や、良勝のように横にならずに踏み止まってはいるが、信時や重休のようにはいかない。
「わかったか、お前たち」
信長が催促した。大きな白紙を拡げ、口に墨汁の着いた筆を真一文字に咥えている。
「まずは、信時、熱田の経済を教えろ!」
熱田は、熱田神宮を中心にした町で、街道と水路を備え、商業が、尾張のどの城より発展していると評した。
他にも、魚市場が朝に、夕に、二度立ち、尾張の魚市場の総元締めであると解答した。
それ以外にも、帳簿を読み込んで「桑の荘園」と呼ばれる養蚕業、織機物が盛んであることも突き止めた。
「よし、次は重休、今川・松平の動向を教えろ!」
重休は、先年起こった織田と今川との戦、第二次小豆坂の戦いの戦果を報告した。
第二次小豆坂の戦いは、信長と美濃の帰蝶が結婚したことから、後方の憂いが消えた織田信秀が、三河岡崎へ四千の兵で攻めた侵攻作戦だ。
気負った信秀は、今川に手痛いしっぺ返しを食らうことになった。敵の総大将は、今川義元の名代として采配を振るう太原雪斎だった。信秀の作戦は、ことごとく看破され、あべこべに巧みな戦術で戦況をひっくり返された。
織田家の先鋒は、信長の腹違いの兄信広だ。雪斎の罠に嵌まって、信広は捕らえられた。
この戦の敗北で、信秀は手傷を負い、命からがら敗走したのだ。
そして、もう一つ波乱があった。今川軍の先鋒を務めた三河・岡崎城主松平広忠が、家来の岩松八弥によって暗殺されたのである。
戦に、敗北した織田家は信秀の求心力が急激に低下した。今川の先手として働き、不幸にも当主松平広忠を失った松平家は混乱した。
結果、今川家一者の勝利となった。今川家の太原雪斎は、ここぞとばかりに織田家へ使者を走らせ、捕らえた信広と熱田の加藤図書に預けている竹千代の人質交換を申し出た。
現在は、竹千代は熱田の加藤図書が預かっている。信秀は、信長に『熱田八ヵ村』の仕置きと、竹千代の身柄の裁きも含めて、織田家の命運を託したのだ。
広間に、恒興が顔を出すと、河尻秀隆、毛利良勝が、両脇からガッチリ肩を組んで、そう耳打ちした。
「何もありませんよ。俺は、昨夜は、月の手も触れずに、さっさと帰りましたから」
「ほう、女の名は、月と申すのか」
しまった。思わず名前を口走ってしまった。
すると、良勝が、恒興の脇を肘ついて、
「嘘を申すな勝三郎。お主は独り身、女は遊女。家に嫁のいる俺でも、戦へ出て何日も女を抱けない日が続くと、『女の口を吸いたい。女を抱きたい。女が欲しい』と、渇望するのだ。それが、独り身のお主では尚更であろう。お主が、遊女を目の前にして抱かずにはおられまい」
無粋だ。この武闘派の二人は、愛だの恋だの繊細な夢見心地の話を『女は抱くもの』とまるで性のはけ口としか考えていない。こればかりは、今の恒興にはいただけない。
「秀隆、良勝。恒興をいじめるな。それぐらいでよさぬか」
信時が、機転を利かせて、助け舟を出した。
しかし、気の強い良勝が食ってかかった。
「いじめてなどおらん。俺と秀隆は、お前に女を奪われた勝三郎が、いつまでも傷心で立ち直れずにおるから、別の女でも当てがおうと心配いたしておるのだ」
解釈は正しいが、言動が間違っている。
いくら、仲間となり気心が知れた恒興であってもこの言葉は酷だ。所謂、傷口に塩を塗るとはこのことだ。
信時も、恒興が仲間になった頃、信長に申し入れて、お善との縁談を取りやめる機会を持ったことがある。信長もそれを承知して恒興に持ちかけたが、この男、それは一度決まったこととして頑として聞き入れなかった。
恒興の意固地だと思うがそうではない。
恒興とすれば、お善の心が一番大事なので、本人に尋ねたのだ。
「お善、お前の縁談だが、今なら取りやめることもできるぞ」
恒興は、申し訳なさもあって控えめに尋ねた。
「話は縁談にまで及んだのも喜蔵様とは、なにかの縁があるのでございましょう。私は、嫁に行きます」
恒興は、お善にキッパリと断られたのだ。
縁談を受けたのはお善の心だ。
お善がそうあっては、恒興が無理にやめさせることもない。
「ならば、俺も勝手な義理を通すまで、嫁をもらわぬ」
と、覚悟を決めた。
そこから、恒興は、秀隆や、良勝がどんなにすすめても固く勝手な義理を通している。
秀隆と良勝の責めに耐えられなくなった信時が、岩室重休に助けを求めた。
「おい、秀隆、良勝。嫁を貰わぬは恒興だけではないぞ。この俺も独り身だ」
今まで他人事として、静かに聞いていたこの男が立ち上がった。
勝ち気な良勝も、この男には頭があがらない。重休には戦場の作戦で何度命を救われたかわからない。
それに、この男の言葉はぐうの音がでないほど、いつも正しい。
「すまねぇ、勝三郎。俺たちの悪ふざけが過ぎた。許してくれ」
「いいや、今回は、恒興だけではないぞ、信時にも詫びるのだ」
「すまねぇ、信時。俺の口が過ぎた。許してくれ」
良勝は、素直に頭を下げた。この男も悪気がないのだが、少々、配慮が足りないのが玉にキズなのだ。
「おい、お前たち! オレに知恵を貸せ‼」
話をぶち破るように大広間に信長が入って来て、悪ガキ共の真ん中に陣取り、分厚い帳簿をドンと置いた。
悪ガキ共は、半時(およそ一時間)ほど、帳簿を手分けして熟読させられた。
槍を持たせれば信長親衛隊の中でも一、二を争う河尻秀隆も、毛利良勝も、さっきまで、恒興をいじめていた時の元気はない。
秀隆は、帳簿を広げ、目を白黒させながら、数字を指折り数え、良勝は、すでに、額に濡れ手拭いして頭を冷やして横になっている。
一方、信時と重休は、次々に帳簿を読みこなし、手代で筆を執り、なにやら覚書のような物を書いている。
恒興は、養父森寺秀勝に幼いころから読み書き算盤をある程度は習っている。
しかし、まだまだ、生半可に文字と数字が読めるだけ。秀隆や、良勝のように横にならずに踏み止まってはいるが、信時や重休のようにはいかない。
「わかったか、お前たち」
信長が催促した。大きな白紙を拡げ、口に墨汁の着いた筆を真一文字に咥えている。
「まずは、信時、熱田の経済を教えろ!」
熱田は、熱田神宮を中心にした町で、街道と水路を備え、商業が、尾張のどの城より発展していると評した。
他にも、魚市場が朝に、夕に、二度立ち、尾張の魚市場の総元締めであると解答した。
それ以外にも、帳簿を読み込んで「桑の荘園」と呼ばれる養蚕業、織機物が盛んであることも突き止めた。
「よし、次は重休、今川・松平の動向を教えろ!」
重休は、先年起こった織田と今川との戦、第二次小豆坂の戦いの戦果を報告した。
第二次小豆坂の戦いは、信長と美濃の帰蝶が結婚したことから、後方の憂いが消えた織田信秀が、三河岡崎へ四千の兵で攻めた侵攻作戦だ。
気負った信秀は、今川に手痛いしっぺ返しを食らうことになった。敵の総大将は、今川義元の名代として采配を振るう太原雪斎だった。信秀の作戦は、ことごとく看破され、あべこべに巧みな戦術で戦況をひっくり返された。
織田家の先鋒は、信長の腹違いの兄信広だ。雪斎の罠に嵌まって、信広は捕らえられた。
この戦の敗北で、信秀は手傷を負い、命からがら敗走したのだ。
そして、もう一つ波乱があった。今川軍の先鋒を務めた三河・岡崎城主松平広忠が、家来の岩松八弥によって暗殺されたのである。
戦に、敗北した織田家は信秀の求心力が急激に低下した。今川の先手として働き、不幸にも当主松平広忠を失った松平家は混乱した。
結果、今川家一者の勝利となった。今川家の太原雪斎は、ここぞとばかりに織田家へ使者を走らせ、捕らえた信広と熱田の加藤図書に預けている竹千代の人質交換を申し出た。
現在は、竹千代は熱田の加藤図書が預かっている。信秀は、信長に『熱田八ヵ村』の仕置きと、竹千代の身柄の裁きも含めて、織田家の命運を託したのだ。
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