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八 尾張の悪ガキたち

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 平手政秀に先導される帰蝶の一団は、境川で見送りの堀田道空と別れて織田領内へ入った。
 一団は、庄内川しょうないがわの渡しに差しかかり、船の調達に入った。
「お~い、こちらの渡しに船をつけてくれ」
 と、平手政秀が、向こう岸の船頭、漁船を呼び集めた。
「へい!」
「今日は、幸いにも船が集まっておるのう。これはめでたい」
 四半時(およそ三十分)ほどすると庄内川のほぼすべての船が政秀の呼んだ岸に船をつけた。
「ご家老様、この人数では、皆を一斉には乗せられません。輿は一隻。一、二、三……、六十人。まずは、六、七人ずつ女子衆から向こう岸へ渡しましょうか」
 と、笠を目深に被った船頭のかしらが、帰蝶の輿は一隻、後の九隻に女を振り分けた。
「わかった、そう致そう」
 ニヤリ!
 平手政秀は、一瞬、船頭が笑ったように感じた。おそらく、光の加減で日に焼けた顔のシワがそう見えただけであろうと、お人好しに解釈した。
「女子衆の皆さま、一度、獲物は男衆に預けて人のみ運びましょう」
 誰も疑ってはいなかった。先導を織田家の家老、平手政秀が務めているのだ、尾張領内でのことでもあるし、帰蝶にしても、女たちにしても、疑いなどしない。
 それに船頭は、顔も陽に焼けて、庄内川の渡しの船頭も腰に魚籠をつけた漁師の身形みなりだ。 
 まさか、この男たちが、信長が女たちをかどわかすために化けた物だとは誰も思わなかった。
 先に、女たちを乗せた船は、静かに川をすべり向こう岸へ着いた。その時だ。土手の向こうに伏せていた百人ばかりの野盗が襲って来た。
 女たちは丸腰だ。力ではとても男に太刀打ちできない。
「これは、何事です!」
 帰蝶の御付きの腰元が、船頭を叱りつけた。
「なんだろうねぇ。おそらく女を狙った野盗か、落ち武者どもじゃねぇか」
「これ、船頭。早く船を岸から離すのじゃ!」
 腰元は、帰蝶を守ろうと顔色を変えて命じた。
「嫌だね」
「なんじゃと!」
「だって、俺は奴らの仲間なんでな」
 船頭は、笠を放り投げた。
「若殿!」
 平手政秀が気づいた時には遅かった。
「おい、お前たち、女は早い者勝ちだ。選んでねぇで直観で女房を決めて連れて行け!」
 まさに無法である。信長は、独身の子分たちに戦の乱取りのようなことを平然と命じた。
 信長に、乱取りを許された子分たちも、女たちの抵抗にあった。体術を扱う者、引っ掻き散らす者、金的を食らわす者様々だ。
 しかし、男の力には敵わない。女たちは、次々に強引に組み伏せられ、簀巻すまきにして肩に担がれた。
「乱暴は、おやめなさい!」
 と、帰蝶の乗る輿が開いた。
 輿から顔を見せた帰蝶は美しかった。子分をけしかけるときに、口裂け女――。そのようなことはまるでない。
 長く美しい黒髪が、丸く弧を描く輪郭を形作り、眉は意志強く通る。鼻筋は高く、口はぽってりとして、どこか色っぽい。
(あの若殿が、蝮の娘に見惚れている)
 信長の隣にいた恒興がそう感じるほど、帰蝶を見る信長の目が語っている。一目ぼれなのだ。
「このような乱暴狼藉を働くのは、何者じゃ正直に名を明かしなさい!」
 帰蝶が、きっぱりと、強い意志を示した。
「俺だ。織田信長だ!」
 信長は、燃える瞳で帰蝶を見つめた。
 すると帰蝶は、ツカツカと信長の前まで歩み寄ると、いきなり、
 パシンッ!
 信長の横っ面に平手打ちを喰らわせた。
 こんなのは初めてだ。女の力なんてたかが知れているが、実の母、土田御前からも赤児の頃に意地悪くつねられた記憶はあるが、それも早々に見捨てられた後にはない。
 乳母のお福が母親代わりに育てた信長だ。お福にはこっぴどく叱られたことはあっても、手を上げられたことなど一度もない。
 人生で初めて女に怒りをぶつけられたのだ。
 信長が、この衝撃に頭が混乱していると、もう一発、帰蝶の平手打ちが飛んできた。
 信長は、今度の一撃は、顔に当たる前に帰蝶の腕を掴んで防いだ。
「お前が、蝮の娘か?」
「そうです。織田信長、あなたを喰らいに来ました。恐れて追い返すなら今です!」
 帰蝶は、信長の気迫に一切負けない。真っすぐに、その熱い瞳で見つめ返した。
「そうか、おもしろい!」
 信長は、そう言うと、強引に力尽くで帰蝶を肩に担いだ。
「お前たち、俺は蝮の娘を嫁に貰う。お前たちも蝮の女たちを必ず女房にしろ! これで、俺の兵は精強になるぞ」
 信長は、満面の微笑みを称えている。
「若殿、平手様は、あのままでよろしいので?」 
 傍らの恒興が問うた。
「ああ、爺は、俺のいつものことだから、何とかしてくれるさ。それよりも勝三郎、お前はまた女を逃がしたな。次は、いつになるかわからんぞ。まだ、あのお善とかいう女に義理立てしておるのか。なんなら俺が信時に申して取り戻してやる」
「それには及びません。お善と信時の始まりは俺の不徳であっても、今の二人は上手くいっております。それに今から信時からお善を取り上げたら、それこそ義理が通りません」
 と、恒興は、極まりが悪そうに頭を掻いた。
「そうか、ならばよし。お前たち、蝮の女を連れて帰るぞ!」
 そういって信長は、美濃の蝮、斎藤道三の女たちを飲み込んだ。
 庄内川は、二月の光を浴びてキラキラと眩しいほどに輝いていた。

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