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八 尾張の悪ガキたち
五
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恒興は、生きた心地がしなかった。雪斎に見つめられながら酒を飲むと、喉を落ちる酒までその目で捉えられているように感じた。
今川の陣を離れた恒興は、一目散に駆け出し、すぐさま、信長にそう報告した。
「若殿、まずいことになりました。我らの策が、今川の軍師太原雪斎に見抜かれました」
「知恵比べは、俺たちの負けか」
信長は、子供のイタズラが大人にバレた時のように、がっかりした顔をした。
「若殿、申し訳ござらん」
策を看破された岩室重休が肩を落とした。
「構わんさ、相手はあの太原雪斎なのだ。今の小十蔵では敵わんよ。いずれ、あの男を越えればいいさ」
恒興は、大うつけ信長の器量を見誤っていた。この男はもしかすると、俺の器量では計れないだけで、もっと、ドデカい大器の器なのではないか。
「ならば、奇襲だ。恒興、今川の陣の様子はどうだった。戦支度は整っていたか?」
そういえば、今川の陣に入った恒興は、大浜砦の攻城の最中であるのに、どこか今川の兵は緊張感に欠けるように感じた。それは、大浜砦の兵数を圧倒する過信ではない。むしろ、総大将の今川義元の公家好みにあるのではないか。
陣中にありながら、義元は麻呂眉でのんびり構えている。それが全軍に伝わっているのだ。
「雪斎のいない、今川軍ならば……」
恒興は、状況分析とはとてもいえない直観のようなものを信長に伝えた。
「俺も、そう見る! 喜蔵、山へ登って、太原雪斎がいつ義元の陣を離れるかを逐一報告せよ。残った与四郎、新介は、それぞれ百を率いて兵を伏せ、俺の率いる六百が義元の横腹を着いたら四方から一気に食い破れ! 狙うは義元の首、ただ、一つ‼」
辰の刻になり松平広忠と太原雪斎は、義元の陣を離れた。
「信時から合図が来たぞ!」
見張り役の信時は、弓の腕が立つ。その兵、二十人の一隊には弓上手を集めている。山の斜面を等間隔に的を配置して、山の頂上から、順番に信長へ知らせる弓伝令を飛ばした。
もし、狼煙などを上げれば、あの太原雪斎のことだ。目ざとく感づくだろうし、大旗を振るとしても目立つ。
やはり、弓伝令だ。隠密神速を尊ぶ信長の柔軟な発想によるものだ。
「よし、皆の者つづけ!」
信長は、騎馬を駆り、水野元信の籠もる大浜砦を囲む今川義元の陣目掛けて先頭を走った。
信長に続くのは、右翼に河尻秀隆、左翼に毛利良勝。後続に続くのが、岩室重休と恒興の徒士だ。
精鋭部隊は、尾張を巡って評判の悪ガキを信長が自ら選んだ。その一人一人と拳を交えて、その目で力を確かめた。
仲間になってからは、寝食を共にし、四番家老の内藤勝介から武芸の稽古を日夜つけてもらった。鍛えて、鍛えて、鍛えぬいた。それが信長の精鋭部隊だ。
名前の残る武将に育つことになる恒興のような側近以外にも、吉兵衛、朝衛門、新九郎、田ノ助、松吉、五平、寅、牛、巳之助……信長は八百人の顔と名前を知っている。
「かかれ!」
信長は、鍛え上げた悪ガキたちと、一弓の矢の如く、今川の陣を貫いた。
「なにごとじゃ?」
「わかりません。正体不明の一軍が、突如、現れました」
今川義元は大浜砦に籠城を決め込む水野信元に、圧倒的多数の千九百で包囲している油断がある。
その油断は、あからさまな義元の行動に表れていた。こともあろうに義元は、口うるさい雪斎がいないことをいいことに、早急に風呂を作らせ、湯を沸かし、戦場で溜まりに溜まった垢を流していた。
風呂に浸かる義元は、雅に湯船に花びらを浮かべ、京都から取り寄せた桜色したせんべいをポリポリと齧り、食感を変えようと茶に沈めて濡れせんべいにして、舌鼓を打っていたのだ。その慢心の絶頂を信長は突いた。
「ええい! 麻呂は湯あみの最中だというに、無粋に乱入してくる狼藉物は誰じゃ! 誰か、スグに行って、その者を討ち取って参れ‼」
油断しきった千九百の今川軍に、弾丸のような信長の八百の精鋭が噛みついた。
今川の陣は、大混乱だ。
「お前たち、狙うは今川義元の首一つだ。他の小者は、打ち捨てて進め! 勝負は、雪斎が舞い戻るまでだ。さあ、者ども、かかれ‼」
信長は、自ら先頭に立ち槍を振るった。
さらに、右翼から河尻秀隆が食いついた。
「親分、自分一人で手柄を一人占めしようだなんて人が悪いぜ」
左翼から毛利良勝が切り裂く。
「若殿にだけかっこいい真似なんてさせねぇよ。俺だって尾張に戻ったら、女たちの黄色い声援を一人占めしたいのだ」
両翼の切り込み隊長、河尻秀隆と、毛利良勝がこの乱戦で、どれほど兜首を挙げたかはわからない。ただ、この二人の男が突き進んだ先には、幾十、幾百の死体が転がった。
そして、徒士を率いる岩室重休が、手足の如く兵を動かして、切り込み隊長が作った穴を織田の兵で塞いでゆく。
「見事だ。この男たちに敵う者などあるのだろうか」
重休の指揮で遊軍を動かす恒興は、感嘆の声を漏らした。
「あそこだ! 見つけたぞ! 今川義元だ‼」
信長が叫んだ。
信長に見つかった今川義元は、褌一丁の丸裸。今、風呂の縁を跨ぎ、抜け出そうとしている。
「ヒヒィ!」
義元は、明らかに狼狽の態を見せ、足を滑らせ転んだ。
「今だ! 勝三郎、義元の首を獲り手柄を立てろ‼」
信長が刀で指示したその先に、今まさに転んで起き上がろうとする今川義元の姿があった。
恒興と、今川義元を繋ぐ道がパックリと開けた。
恒興は、向かってくる敵兵を斬り倒し、義元へ真っすぐ進んでいった。
そして、褌一丁の転んだ義元を蹴り上げて、転がし、その首へ討ちかかった。
恒興の刀を、義元は必死で押し戻し抵抗する。が、普段から雅な暮らしだ。とても戦場を駆けまわる武人の敵ではない。
「今川義元殿、ご覚悟召されよ」
恒興は、せめてこの公家同然の時代錯誤な大名の首を獲るのに、古式の礼にかなった情けはかけた。
恒興が、義元の体に馬乗りになって、首を掻っ切ったその時だ。
今川の陣を離れた恒興は、一目散に駆け出し、すぐさま、信長にそう報告した。
「若殿、まずいことになりました。我らの策が、今川の軍師太原雪斎に見抜かれました」
「知恵比べは、俺たちの負けか」
信長は、子供のイタズラが大人にバレた時のように、がっかりした顔をした。
「若殿、申し訳ござらん」
策を看破された岩室重休が肩を落とした。
「構わんさ、相手はあの太原雪斎なのだ。今の小十蔵では敵わんよ。いずれ、あの男を越えればいいさ」
恒興は、大うつけ信長の器量を見誤っていた。この男はもしかすると、俺の器量では計れないだけで、もっと、ドデカい大器の器なのではないか。
「ならば、奇襲だ。恒興、今川の陣の様子はどうだった。戦支度は整っていたか?」
そういえば、今川の陣に入った恒興は、大浜砦の攻城の最中であるのに、どこか今川の兵は緊張感に欠けるように感じた。それは、大浜砦の兵数を圧倒する過信ではない。むしろ、総大将の今川義元の公家好みにあるのではないか。
陣中にありながら、義元は麻呂眉でのんびり構えている。それが全軍に伝わっているのだ。
「雪斎のいない、今川軍ならば……」
恒興は、状況分析とはとてもいえない直観のようなものを信長に伝えた。
「俺も、そう見る! 喜蔵、山へ登って、太原雪斎がいつ義元の陣を離れるかを逐一報告せよ。残った与四郎、新介は、それぞれ百を率いて兵を伏せ、俺の率いる六百が義元の横腹を着いたら四方から一気に食い破れ! 狙うは義元の首、ただ、一つ‼」
辰の刻になり松平広忠と太原雪斎は、義元の陣を離れた。
「信時から合図が来たぞ!」
見張り役の信時は、弓の腕が立つ。その兵、二十人の一隊には弓上手を集めている。山の斜面を等間隔に的を配置して、山の頂上から、順番に信長へ知らせる弓伝令を飛ばした。
もし、狼煙などを上げれば、あの太原雪斎のことだ。目ざとく感づくだろうし、大旗を振るとしても目立つ。
やはり、弓伝令だ。隠密神速を尊ぶ信長の柔軟な発想によるものだ。
「よし、皆の者つづけ!」
信長は、騎馬を駆り、水野元信の籠もる大浜砦を囲む今川義元の陣目掛けて先頭を走った。
信長に続くのは、右翼に河尻秀隆、左翼に毛利良勝。後続に続くのが、岩室重休と恒興の徒士だ。
精鋭部隊は、尾張を巡って評判の悪ガキを信長が自ら選んだ。その一人一人と拳を交えて、その目で力を確かめた。
仲間になってからは、寝食を共にし、四番家老の内藤勝介から武芸の稽古を日夜つけてもらった。鍛えて、鍛えて、鍛えぬいた。それが信長の精鋭部隊だ。
名前の残る武将に育つことになる恒興のような側近以外にも、吉兵衛、朝衛門、新九郎、田ノ助、松吉、五平、寅、牛、巳之助……信長は八百人の顔と名前を知っている。
「かかれ!」
信長は、鍛え上げた悪ガキたちと、一弓の矢の如く、今川の陣を貫いた。
「なにごとじゃ?」
「わかりません。正体不明の一軍が、突如、現れました」
今川義元は大浜砦に籠城を決め込む水野信元に、圧倒的多数の千九百で包囲している油断がある。
その油断は、あからさまな義元の行動に表れていた。こともあろうに義元は、口うるさい雪斎がいないことをいいことに、早急に風呂を作らせ、湯を沸かし、戦場で溜まりに溜まった垢を流していた。
風呂に浸かる義元は、雅に湯船に花びらを浮かべ、京都から取り寄せた桜色したせんべいをポリポリと齧り、食感を変えようと茶に沈めて濡れせんべいにして、舌鼓を打っていたのだ。その慢心の絶頂を信長は突いた。
「ええい! 麻呂は湯あみの最中だというに、無粋に乱入してくる狼藉物は誰じゃ! 誰か、スグに行って、その者を討ち取って参れ‼」
油断しきった千九百の今川軍に、弾丸のような信長の八百の精鋭が噛みついた。
今川の陣は、大混乱だ。
「お前たち、狙うは今川義元の首一つだ。他の小者は、打ち捨てて進め! 勝負は、雪斎が舞い戻るまでだ。さあ、者ども、かかれ‼」
信長は、自ら先頭に立ち槍を振るった。
さらに、右翼から河尻秀隆が食いついた。
「親分、自分一人で手柄を一人占めしようだなんて人が悪いぜ」
左翼から毛利良勝が切り裂く。
「若殿にだけかっこいい真似なんてさせねぇよ。俺だって尾張に戻ったら、女たちの黄色い声援を一人占めしたいのだ」
両翼の切り込み隊長、河尻秀隆と、毛利良勝がこの乱戦で、どれほど兜首を挙げたかはわからない。ただ、この二人の男が突き進んだ先には、幾十、幾百の死体が転がった。
そして、徒士を率いる岩室重休が、手足の如く兵を動かして、切り込み隊長が作った穴を織田の兵で塞いでゆく。
「見事だ。この男たちに敵う者などあるのだろうか」
重休の指揮で遊軍を動かす恒興は、感嘆の声を漏らした。
「あそこだ! 見つけたぞ! 今川義元だ‼」
信長が叫んだ。
信長に見つかった今川義元は、褌一丁の丸裸。今、風呂の縁を跨ぎ、抜け出そうとしている。
「ヒヒィ!」
義元は、明らかに狼狽の態を見せ、足を滑らせ転んだ。
「今だ! 勝三郎、義元の首を獲り手柄を立てろ‼」
信長が刀で指示したその先に、今まさに転んで起き上がろうとする今川義元の姿があった。
恒興と、今川義元を繋ぐ道がパックリと開けた。
恒興は、向かってくる敵兵を斬り倒し、義元へ真っすぐ進んでいった。
そして、褌一丁の転んだ義元を蹴り上げて、転がし、その首へ討ちかかった。
恒興の刀を、義元は必死で押し戻し抵抗する。が、普段から雅な暮らしだ。とても戦場を駆けまわる武人の敵ではない。
「今川義元殿、ご覚悟召されよ」
恒興は、せめてこの公家同然の時代錯誤な大名の首を獲るのに、古式の礼にかなった情けはかけた。
恒興が、義元の体に馬乗りになって、首を掻っ切ったその時だ。
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