紡ぐ 

孤独堂

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第一話

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                                       作 孤独堂
 

 丘の上に立ち並ぶ校舎群の前の、グラウンドを囲む様に立ち並ぶ桜の木は、その先の急斜面を崩さない様に深く太く根を広げているのだろう。
 だからそれらはたまに盛り上がって地表へとその姿を現しては、僕の押す車椅子を激しく揺さ振った。
 しかし車上の彼女はそんな事には怯まない。下唇をギュッと噛んで、体を強張らせては、黙ってそれに耐えている。昔からそんな子だった。

 中学は一年の頃から虐めの標的にされていた僕に、いつも優しく接してくれた彼女は、あの頃から強かった。
 そしてそんな彼女に対して僕は、卑屈になっていた。
『うるせーブス』『なんにも分かんない癖に』『近付くな!』
 虐められた後、笑いながら僕に近づき、優しい言葉をかける彼女に投げ捨てた僕の言葉の数々。
 あの頃は、心が荒れていたのだ。
 それに彼女は決してブスではなく、それどころかバスケ部に所属していいたくらいだから活発な明るい子で、僕とは正反対にクラスの男女共に人気があった。
 何故そんな子が?
 当時僕はそれすらも捻くれた発想しか出来ないでいた。

(どうせ人気取りだろう。本当は僕になんか興味もないくせに)

 しかし今に思えば、多分あの頃の僕は、既に彼女に好意を寄せていたのだ。
 そしてそれをそんな風に思っては押し殺し、彼女が僕に優しく接しようとするのを勘違いしないようにしていたのだ。

 だから半年前にボランティア活動でこの学園に来た時には驚いた。
 僕とは別の高校に進学した彼女が、一年後交通事故に遭ったという話は風の便りで聞いてはいたが、まさかこんな所で、こんな形で会うとは想像もしていなかったからだ。
 中一の一年間だけ。
 その一年間だけ僕に優しかった彼女。
 二年からはクラス替えで別々のクラスになり、同時に僕を虐めていた奴らも散り散りになった事で、虐めは止んだ。
 しかし僕はそれからの中学二年間は、彼女を避け続けた。
 だってそうだろう。みっともない虐められていた時の僕の姿を知っている彼女に、今は虐められていないからと言って、どう普通に、対等に話が出来る。

 そんな忘れていた昔話を、半年前この学園は僕に瞬時に思い出させた。
 そして何故か彼女にもそうであったのだろう。
 立場は一転していた。
 ホールに集められた懇親会の席、両膝から下を失っていた彼女は、車椅子の上、その部分を隠すように薄手のブランケットをそこに掛けては、両手でそれを強く握っていた。
 下唇を噛んで、俯き加減、僕の方を見ないように。
 そして僕はそんな彼女の方へと微笑みながら近づいて行く。
 何故ならば、あの日あの時、君が優しかったから。

 だからそれからの僕は、自分の高校からはバスで五つ程離れたこの丘の上の社会福祉法人の学園へと、放課後は足繁く通った。
 高校でボランティア部に所属する僕は、学園では歓迎される存在だったので、中に入り彼女に会う事は造作もない。
 ただ、彼女の方はそれを当初嫌った。
 無理もない。かつての自分を知る人には今や会いたくはなかっただろう。
 明るかった彼女は、見るも無残な程口数が少なく、ショートカットの髪形はあの頃のままだが、顔色も以前の健康的な小麦色の肌からは想像も出来ない程白くなっていた。まるで血管が透けて見えるのではないかと思える程に。
 そんなだから、この半年間、本当に色々あって、やっと今こうして二人で学園内だけれども桜の花を見に来る所まで来たのだ。

 一本の満開の桜の木の真下。
 僕は車椅子を押すのを止めた。
 彼女は僕を信用しているのかブレーキを掛けない。

「綺麗…」

「そうだね」

 仰ぎ上の桜の枝から細かく咲き誇る桜の花々を眺めながらそう呟く彼女の声を、僕はその背中越しから聞いてはそう答えた。
 生命の輝き、人生の旬を迎えたかの様な桜の花を眺めながら、とうにその瞬間を奪われ失った彼女は、何を思ってそう呟いたのか。彼女の後ろに立つ僕にその表情は見えない。
 だから今は、ただこうやって桜を見たいと言った彼女の思いだけを尊重して僕は暫くは黙って彼女の後ろに立っていた。そしてまた彼女も、その後は一言も口を開かなかった。
 そんな時間が、五分程あっただろうか。
 不意に彼女は車椅子を自分の手で僕の方へと反転させた。
 だから僕は思わずよろめいて、後ずさりをする。
 ブレーキの掛けていなかった車椅子のそれは、突然だったからだ。
 それから彼女は今度は僕の方を直視して口を開く。

「キスして」

 そしてそう言い終わるか終わらないかのうちに閉じられる瞳。

「えっ?」

 あまりにも急な出来事に思わず声を漏らす僕。
 しかしこれは、彼女には失礼な行為だったのかも知れない。
 一瞬そんな事を考えては、僕は彼女の瞳の閉じられたその顔をじっくりと眺めた。無論、リップも何も塗られていない剥き出しのその唇も。
 中学から今までの想い。
 当然あの時優しくして貰ったからだけではない。
 あの時には…あの時には立場的に口に出来なかった感情もある。
 だから僕は、車椅子にちょこんと座る細いその両肩に自分の手を添えると、ゆっくりと彼女の顔に自分の顔を重ねて行けると思っていた。が、しかし。
 しかし現実には僕の顔は微動だにも動かず、彼女の顔へと近づこうとはしなかった。
 ただ彼女の肩を抑えたまま動かない時間。
 その時僕は、彼女への想い以上に現実というものに目を向けてしまったのだ。

(果たして彼女は、本当に僕を好きでキスを求めたのか? もしかすると将来への保険が欲しかったのではないのか? かつてなら一人で何処へでも行き、どんな人生も夢見る事が出来たであろう彼女。しかしその彼女は今や後天性障害により一人で生きていく事もままならない。そんな彼女が半年程の二人の歩みでキスを望むのは…それはただのキスではないのかも知れない。これは普通の女の子との遊びや恋愛のキスとは違うのではないのか。これは彼女に対して責任を持つという事ではないのか。だとしたら僕は、彼女と一生添い遂げて、彼女を守る覚悟はあるのか。いやいや待てよ、そうは言ってももしかしたらそんなに大袈裟な話ではないのかも知れない。彼女は本当にただ深い意味もなくキスを求めているだけなのかも知れない。)

 そんな事が頭をもたげて体が動かないのはきっと、僕がまだ高校生だからなのだろう。
 僕は本当に自分が彼女の事を好きなのか。彼女は本当に僕の事を好きなのか。
 自問し続けていた。

 その内に彼女の肩を押さえていた僕の両手も徐々に熱を帯び、力が入っていたのだろう。
 彼女の肩が強張るのを感じたのと同時に、それまで閉じていた瞳を彼女は開けると、顔を横に向けて俯いた。

「もういい…」

 それはきっと彼女にとって精一杯の言葉だったのだろう。
 今にも消え入りそうな何処か恥ずかしそうな声。

(ああ僕は、考え過ぎて時間をかけてしまったのだ)

 悔いる気持ちとその後の気まずい空気。
 しかしそれは、きっと僕よりも彼女の方が感じるところは大きかったに違いない。
 何故ならばこんな出来事の後でも、彼女は僕に車椅子を押されなければ、学園の方向に戻る事も出来ないからだ。
 だから、彼女に恥をかかせたという思いが僕の中に重くのしかかる。
 負い目を、感じさせてはいけない負い目を僕はきっと彼女に感じさせたのだ。

 僕らの関係は普通の人とは違う。
 普通のカップルとかとは違うのだ。
 だからいつも二人の間には寂しさが付きまとう。すっきりとした青空はなかなか顔を見せない。
 いつだって、彼女と会っている時は切ない気持ちになってしまう。
 それが僕と彼女の物語なのだ…


「戻ろうか」

 暫くしてそう言った僕の言葉以外、帰り道はお互いに、一言も口にしなかった。
 だから僕はいつだって彼女の本当の気持ちは分からない。

 ただ、行きで通って揺れたのと同じ様に、帰りもまた桜の木の地表に出た根に、車椅子が揺らされ、僕とは違う制服を着た彼女は、また唇を噛み締めているだけ…




、               つづく
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