52 / 103
<水無瀬葉月>
僕は、終わらせたかったんだ
しおりを挟む
「兄も弟も成績がいいのに、僕だけが勉強もできないできそこないで、親孝行なんて一つも、してない」
たぶん、あの時が僕が汚いのだと告げる最後のチャンスだったのだと思う。
――――――――――――――
「電池を買ってくるから留守番頼むな。すぐ戻ってくる」
「うん」
ウチから一番近いコンビニエンスストアで遼平さんは車を止めた。
僕が走るのと同じ速度の早足で電池を買いに行ってくれる。
その背中を見送ってから、僕は、ずりずりと広いシートに倒れこんだ。
疲れた。
疲れた。
疲れた。
家族の話をしたせいで倦怠感がひどい。家に帰って寝たい。
せっかくのバイキングなのに、せっかくのお泊りなのに。昨夜までは楽しみで眠れなかったのに。
海に行きたいなんていわなければよかった。
遼平さんの顔に真っ黒な穴が開いた悪夢を見たから、ほんとは海には行きたくないのに。
なのにどうしてだか、行きたい場所は無いかって聞かれて、真っ先に海って答えてしまった。
海に行って、「やっぱりあれは夢だった」と確認したかったのかもしれない。
『『葉月』』
ぴょん太が僕を呼んだ。
声は重たく僕を責めている。その声がのしかかって来たのか体がますます重たくなった。
「電池、切れてなかったんだね、ぴょん太」
『『結局言えなかったね。葉月の卑怯者。卑怯者! 卑怯者!!』』
狭い車内で声がワンワンと響く。
ぴょん太の姿が僕より大きく膨れ上がり、ωの形の口が目の前で大きく開いた。
フロントガラスを呑みこむほどに開いた口は動物の口ではなかった。人間の口だった。
口の中はぬらりと光り前歯と奥歯もある。喉の奥の暗がりから大勢の目が僕を見ていた。
その人たちが誰なのかはすぐにわかった。
横断歩道やホコホコ弁当で、僕に「汚い」って言った人だ。僕はその人たちの顔を見てないはずなのにどうしてだかすぐに分かった。
車の外から影が差しこむ。
「あ」
両親と兄弟の口が車を取り囲んでいた。泳ぐように行き来して口々に卑怯者とがなり立て始める。
脳みそをかき回されてるみたいな眩暈がする。足から力がぬける。
口だけの怪物たちは幻覚だ。
なら、この大きなぴょん太も幻覚? ぴょん太だと思ってた声も幻聴? ぴょん太の口の奥にいる人たちも幻覚? じゃあ、横断歩道やホコホコ弁当で聞いた声は幻聴?
あぁ、もう、こんがらかる。
どっちでもいいか。
僕にとっては幻聴だろうと実際に言われている声だろうと違いは無い。
僕が汚い卑怯者なのは事実なのだから。
『『卑怯者!!!!!』』
家族の話をするといつも疲れる。
「父は弁護士、母は友達の多い明るい人、兄と弟は成績優秀」
シートにぐったりしたまま口の中でボソボソと呟く。
そこまではいつでも口からすらりと出る。
先が難しい。
意味不明な数式を前に、無理にでも答えを出さなきゃならない気分。どこから手を付けていいのかさえわからない。
遼平さんは、僕が虐待されてたんじゃないかって疑ってた。
実は、疑われたのはこれが初めてじゃなかった。
幼稚園と小学校のころに数回、そして、中学のころにも一回だけ。
本当に辛かった。
僕が浮気相手の子供だってことを隠したままに家族を説明するのが難しくて。
目の前にパイプ椅子と長机の置かれた部屋が広がる。小学校の頃の相談室だ。
憂鬱で、言葉にするのも辛くて、誰かに僕が汚いのだと見破られたらどうしようと単語を発することさえ怖かった。
僕は自分の保身ばかりを考えてるな。
『『捨てられたくせに』』
「――――!!!!!」
一気にすべての幻覚が掻き消えた。
車の外をうろうろしてた口も、目の前に広がってた相談室も消えて無くなり、ぴょん太も普通のヌイグルミに戻っていた。
「そうだよ。僕は捨てられた」
本当のお母さんに。
お父さんの浮気相手。
僕を産んだ女の人。
僕は捨てられた。
捨てられたことは、昔は悲しかったけど今はそうでもない。
慣れたんだと思う。
会いたいとも思わない。
僕の本当のお母さんは、実の子を捨てることができる人だ。たぶん、会っても辛いことを一杯いわれるだけだ。
『あんたの母親はねえ。あんたを捨てたのよ。あんたの母親はほんとに汚いわ。人の旦那の子を産むだけ産んで、あとは押し付けるなんて。あんたは捨てられたのよ。うちだって迷惑なのに学校にまで通わせてやってるんだから感謝しなさい』
お母さんの声。
『騙されたんだ。酒と変な薬を飲まされた。あいつはいつの間にかことに及んでいた。あの女は勝手に私の子を孕んだんだ。だが、一度でもことに及んだ以上浮気であることには変わりない。だが、お前は汚い犯罪者が産んだ子供だ!!』
お父さんの声。
捨てられた僕を育ててくれたお父さんとお母さんはとても優しい人だ。
でも、褒めてくれることは一度もなかった。
優しい人でさえ褒めてくれなかった。
僕を――自分の子供を捨てたお母さんはもっともっと冷たい人だろう。
人を殺せる殺人鬼のような、冷たい、冷たい人……。
僕を育ててくれた優しいお母さんとお父さんが言うんだから、間違いない。
お母さんとお父さんはいつも、正しい――――
――――正しい、と、知ってたはずなのに、僕は、期待してた。
いつか、本当のお母さんが迎えに来て、辛い日々が終わるんじゃないかって。
学校から出るたびに、本当のお母さんが校門の前に立ってて僕を抱きしめてくれるんじゃないか、と。
当然ながら18年間ずっと、そんな奇跡は起こらなかった。
息ができない。
『『奥さんの言葉は思い出した?』』
ぴょん太の問いかけに首を振る。
『『思い出せないんじゃない。思い出したくないだけだよ。よく考えろ、葉月』』
何を言ってたっけ?
奥さんは遼平さんの顔を見たら逃げ出してた。
遼平さんの話はほとんどしたことが無い。
あ。
そっか。
(思い出した)
奥さん、言ってた。
奥さんの言葉を思い出したと同時に、夢で見た真っ青な空と海が眼前に広がった。
優しい波の音がする。
あぁそうか、僕は、海に行って「悪夢はやっぱり夢でしかなかった」と確認したかったわけじゃないんだ。
僕は、僕は、
海に行って、遼平さんの顔が真っ黒に変わるのを確認して、早く、この、幸せな毎日を終わらせたかったんだ。
幸せは、長く続けば続くほど怖い。
寒いのと一緒だ。
ずっと寒い場所にいたら寒さがわからなくなる。
手がかじかみ、鼻の先も耳の先も痛くなる。
足の先まで冷たくなる。それでも、我慢してればいつかは慣れる。
慣れることができる。
でも、一旦、暖かい部屋に入ってしまうと駄目なんだ。
暖かい場所から寒い場所に行くと、慣れたはずの寒さが何倍も辛く感じる。
下手したら寒い場所に出られなくなる。
遼平さんと手を繋いだり、一緒の布団に転がって翌日のお出かけの話をしたり、腕枕してもらったり、ドライブしたり、怖い話で驚かされたり、一緒にご飯を食べたり、美味しいって笑ってもらったり――――。
そんな、たまらなく幸せで暖かい日常を。
僕は、遼平さんとの生活に慣れる前に終わらせたかったんだ。
たぶん、あの時が僕が汚いのだと告げる最後のチャンスだったのだと思う。
――――――――――――――
「電池を買ってくるから留守番頼むな。すぐ戻ってくる」
「うん」
ウチから一番近いコンビニエンスストアで遼平さんは車を止めた。
僕が走るのと同じ速度の早足で電池を買いに行ってくれる。
その背中を見送ってから、僕は、ずりずりと広いシートに倒れこんだ。
疲れた。
疲れた。
疲れた。
家族の話をしたせいで倦怠感がひどい。家に帰って寝たい。
せっかくのバイキングなのに、せっかくのお泊りなのに。昨夜までは楽しみで眠れなかったのに。
海に行きたいなんていわなければよかった。
遼平さんの顔に真っ黒な穴が開いた悪夢を見たから、ほんとは海には行きたくないのに。
なのにどうしてだか、行きたい場所は無いかって聞かれて、真っ先に海って答えてしまった。
海に行って、「やっぱりあれは夢だった」と確認したかったのかもしれない。
『『葉月』』
ぴょん太が僕を呼んだ。
声は重たく僕を責めている。その声がのしかかって来たのか体がますます重たくなった。
「電池、切れてなかったんだね、ぴょん太」
『『結局言えなかったね。葉月の卑怯者。卑怯者! 卑怯者!!』』
狭い車内で声がワンワンと響く。
ぴょん太の姿が僕より大きく膨れ上がり、ωの形の口が目の前で大きく開いた。
フロントガラスを呑みこむほどに開いた口は動物の口ではなかった。人間の口だった。
口の中はぬらりと光り前歯と奥歯もある。喉の奥の暗がりから大勢の目が僕を見ていた。
その人たちが誰なのかはすぐにわかった。
横断歩道やホコホコ弁当で、僕に「汚い」って言った人だ。僕はその人たちの顔を見てないはずなのにどうしてだかすぐに分かった。
車の外から影が差しこむ。
「あ」
両親と兄弟の口が車を取り囲んでいた。泳ぐように行き来して口々に卑怯者とがなり立て始める。
脳みそをかき回されてるみたいな眩暈がする。足から力がぬける。
口だけの怪物たちは幻覚だ。
なら、この大きなぴょん太も幻覚? ぴょん太だと思ってた声も幻聴? ぴょん太の口の奥にいる人たちも幻覚? じゃあ、横断歩道やホコホコ弁当で聞いた声は幻聴?
あぁ、もう、こんがらかる。
どっちでもいいか。
僕にとっては幻聴だろうと実際に言われている声だろうと違いは無い。
僕が汚い卑怯者なのは事実なのだから。
『『卑怯者!!!!!』』
家族の話をするといつも疲れる。
「父は弁護士、母は友達の多い明るい人、兄と弟は成績優秀」
シートにぐったりしたまま口の中でボソボソと呟く。
そこまではいつでも口からすらりと出る。
先が難しい。
意味不明な数式を前に、無理にでも答えを出さなきゃならない気分。どこから手を付けていいのかさえわからない。
遼平さんは、僕が虐待されてたんじゃないかって疑ってた。
実は、疑われたのはこれが初めてじゃなかった。
幼稚園と小学校のころに数回、そして、中学のころにも一回だけ。
本当に辛かった。
僕が浮気相手の子供だってことを隠したままに家族を説明するのが難しくて。
目の前にパイプ椅子と長机の置かれた部屋が広がる。小学校の頃の相談室だ。
憂鬱で、言葉にするのも辛くて、誰かに僕が汚いのだと見破られたらどうしようと単語を発することさえ怖かった。
僕は自分の保身ばかりを考えてるな。
『『捨てられたくせに』』
「――――!!!!!」
一気にすべての幻覚が掻き消えた。
車の外をうろうろしてた口も、目の前に広がってた相談室も消えて無くなり、ぴょん太も普通のヌイグルミに戻っていた。
「そうだよ。僕は捨てられた」
本当のお母さんに。
お父さんの浮気相手。
僕を産んだ女の人。
僕は捨てられた。
捨てられたことは、昔は悲しかったけど今はそうでもない。
慣れたんだと思う。
会いたいとも思わない。
僕の本当のお母さんは、実の子を捨てることができる人だ。たぶん、会っても辛いことを一杯いわれるだけだ。
『あんたの母親はねえ。あんたを捨てたのよ。あんたの母親はほんとに汚いわ。人の旦那の子を産むだけ産んで、あとは押し付けるなんて。あんたは捨てられたのよ。うちだって迷惑なのに学校にまで通わせてやってるんだから感謝しなさい』
お母さんの声。
『騙されたんだ。酒と変な薬を飲まされた。あいつはいつの間にかことに及んでいた。あの女は勝手に私の子を孕んだんだ。だが、一度でもことに及んだ以上浮気であることには変わりない。だが、お前は汚い犯罪者が産んだ子供だ!!』
お父さんの声。
捨てられた僕を育ててくれたお父さんとお母さんはとても優しい人だ。
でも、褒めてくれることは一度もなかった。
優しい人でさえ褒めてくれなかった。
僕を――自分の子供を捨てたお母さんはもっともっと冷たい人だろう。
人を殺せる殺人鬼のような、冷たい、冷たい人……。
僕を育ててくれた優しいお母さんとお父さんが言うんだから、間違いない。
お母さんとお父さんはいつも、正しい――――
――――正しい、と、知ってたはずなのに、僕は、期待してた。
いつか、本当のお母さんが迎えに来て、辛い日々が終わるんじゃないかって。
学校から出るたびに、本当のお母さんが校門の前に立ってて僕を抱きしめてくれるんじゃないか、と。
当然ながら18年間ずっと、そんな奇跡は起こらなかった。
息ができない。
『『奥さんの言葉は思い出した?』』
ぴょん太の問いかけに首を振る。
『『思い出せないんじゃない。思い出したくないだけだよ。よく考えろ、葉月』』
何を言ってたっけ?
奥さんは遼平さんの顔を見たら逃げ出してた。
遼平さんの話はほとんどしたことが無い。
あ。
そっか。
(思い出した)
奥さん、言ってた。
奥さんの言葉を思い出したと同時に、夢で見た真っ青な空と海が眼前に広がった。
優しい波の音がする。
あぁそうか、僕は、海に行って「悪夢はやっぱり夢でしかなかった」と確認したかったわけじゃないんだ。
僕は、僕は、
海に行って、遼平さんの顔が真っ黒に変わるのを確認して、早く、この、幸せな毎日を終わらせたかったんだ。
幸せは、長く続けば続くほど怖い。
寒いのと一緒だ。
ずっと寒い場所にいたら寒さがわからなくなる。
手がかじかみ、鼻の先も耳の先も痛くなる。
足の先まで冷たくなる。それでも、我慢してればいつかは慣れる。
慣れることができる。
でも、一旦、暖かい部屋に入ってしまうと駄目なんだ。
暖かい場所から寒い場所に行くと、慣れたはずの寒さが何倍も辛く感じる。
下手したら寒い場所に出られなくなる。
遼平さんと手を繋いだり、一緒の布団に転がって翌日のお出かけの話をしたり、腕枕してもらったり、ドライブしたり、怖い話で驚かされたり、一緒にご飯を食べたり、美味しいって笑ってもらったり――――。
そんな、たまらなく幸せで暖かい日常を。
僕は、遼平さんとの生活に慣れる前に終わらせたかったんだ。
39
お気に入りに追加
3,135
あなたにおすすめの小説
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
鬼上司と秘密の同居
なの
BL
恋人に裏切られ弱っていた会社員の小沢 海斗(おざわ かいと)25歳
幼馴染の悠人に助けられ馴染みのBARへ…
そのまま酔い潰れて目が覚めたら鬼上司と呼ばれている浅井 透(あさい とおる)32歳の部屋にいた…
いったい?…どうして?…こうなった?
「お前は俺のそばに居ろ。黙って愛されてればいい」
スパダリ、イケメン鬼上司×裏切られた傷心海斗は幸せを掴むことができるのか…
性描写には※を付けております。
身体検査
RIKUTO
BL
次世代優生保護法。この世界の日本は、最適な遺伝子を残し、日本民族の優秀さを維持するとの目的で、
選ばれた青少年たちの体を徹底的に検査する。厳正な検査だというが、異常なほどに性器と排泄器の検査をするのである。それに選ばれたとある少年の全記録。
性悪なお嬢様に命令されて泣く泣く恋敵を殺りにいったらヤられました
まりも13
BL
フワフワとした酩酊状態が薄れ、僕は気がつくとパンパンパン、ズチュッと卑猥な音をたてて激しく誰かと交わっていた。
性悪なお嬢様の命令で恋敵を泣く泣く殺りに行ったら逆にヤラれちゃった、ちょっとアホな子の話です。
(ムーンライトノベルにも掲載しています)
婚約者に会いに行ったらば
龍の御寮さん
BL
王都で暮らす婚約者レオンのもとへと会いに行ったミシェル。
そこで見たのは、レオンをお父さんと呼ぶ子供と仲良さそうに並ぶ女性の姿。
ショックでその場を逃げ出したミシェルは――
何とか弁解しようするレオンとなぜか記憶を失ったミシェル。
そこには何やら事件も絡んできて?
傷つけられたミシェルが幸せになるまでのお話です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる