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<葉月の実母の友人、春原十和子(すのはら とわこ)視点>

<葉月の実母の友人、春原十和子(すのはら とわこ)視点>

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<葉月の実母の友人、春原十和子(すのはら とわこ)視点>

 その男性が現れたのは三日前の昼下がりだった。

 私の身長は170㎝。女性にしては高身長の部類にはいる。
 おまけに、玄関には30センチもの段差があるというのに、玄関先に立った男性と私の視点の高さがほぼ同じだった。

 余りにも人相が悪く、すわ暴力団かと挨拶も忘れ呆然と言葉を失ってしまった。

 硬直して失礼な対応をした私に、スーツを来た男性は深々と頭を下げて自己紹介をした。

「先日ご連絡を差し上げました陸王です。お時間を作ってくださってありがとうございます」

 腹に響く低く重い声だ。
 だけど口調は意外なほどに優しく、見た目とは裏腹に誠実なのだろう彼の内面が垣間見えた。

「どうぞ、お入りください」
「お邪魔します」

 仏壇を置いた客間に陸王さんを通す。
 彼は仏壇に線香をあげると、掲げてある写真を見上げ、言った。

「あの方が里美さん――葉月君のお母さんですね」

 と。
 若い女性の写真は一枚しかないから、消去法でも容易く絞り込めるのだが、彼の口ぶりからすると別の理由がありそうだ。
「葉月君にそっくりなんです。いいえ、葉月君がそっくりだと言うべきですね」
「あら……、息子なのに、里美に似たのね。良かった」

 里美が残したたった一人の子供が憎いあの男に似なくて本当によかった。
 私は陸王さんが言葉を発する前に尋ねた。

「里美のことをお話しする前に、まず、葉月君のことを教えていただけませんか? あの子は元気にしていますか? もうすぐ19歳になるのよね。里美が、あの子を産んだ歳と同じ年になるのね……」

 そう考えるだけでも感慨深い。
 私はとうとう結婚とは縁が無いままに37になってしまったというのに、親友が残した子どもがもう19歳になるだなんて。

「残念ですが、元気にしているとは言い難い状態です」

 え。
 きっぱりと言い切られた言葉に呼吸が止まった。
 陸王さんは淡々と語った。

 葉月君が水無瀬の家で使用人以下のひどい扱いを受けていたこと。
 浮気女の汚れた血が流れていると言われ続け、自身を汚いと思い込んでいるということ。
 それを人に告白したショックで声を発せなくなってしまったのだという事――――!!!!

 私は腰を浮かせ、天然木の座卓を手のひらで打ち付けた。
 20キロはあるそれが跳ねあがるほどだった。
 怒りで目の前が真っ赤になるとはこのことか。
 打ち付けた手の痛みすらわからずに全身が震える。

「あの男……! 里美を孕ませた時に殺しておけばよかった……!!! 純粋な子を騙しただけじゃ飽き足らずに唯一残した息子にまで無体な仕打ちをしていたなんて……!!! 里美まで侮辱して……!! まさか、そんなことになってただなんて……!!!」

「教えてください。一体、18年前に何があったんですか?」

「里美は――――!」

 水無瀬葉月の母、雪村 里美(ゆきむら さとみ)は私の親友だった。
 誰もが振り返るぐらいに可愛いのに、地味で、控えめで、唯一の肉親であるおばあちゃんをとても大事にしていた良い子だった。

 高校卒業間近の2月。
 私は大学進学を決め、里美はおばあちゃんを助けるために仕事を決めていた。
 自宅でできる縫製の仕事だ。

 高校一年生の頃から細々と受けていた仕事を、卒業を期に本格的に始めるつもりでいたのだ。手先が器用な子だったので評判が良く、生活していくには充分な仕事を請け負うことになっていた。

 学校を卒業し、私は大阪の大学に進み、里美はこちらで仕事を始めた。その年の夏を待たずに、里美のおばあちゃんが亡くなってしまったのだ。

 たった一人の肉親を失った里美の落胆は見ていられないほどだった。

「里美のお婆さんははいくつか土地を持っていたので、遺産の整理が必要になったんです」
 その時に相談した弁護士の秘書が、水無瀬友夫だった。

 あの男は身寄りを無くしたった一人になった18歳の少女に目を付け、仕事を理由に甲斐甲斐しく里美の元に足を運んでいた。

 傷心した里美を篭絡するのは友夫にとって赤子の手をひねるより簡単だったに違いない。
 私は当時、大阪で一人暮らしをしていたので里美の傍にいてあげることができなかった。それを今も悔やんでいる。なぜ、あの時、休学してでも傍にいてやらなかったのかと。
 一年や二年ぐらいの留年ぐらい、里美を失うことに比べればなんということもなかったはずなのに。

 いつもなら、里美はなんでも私に話してくれていた。
 だけど、友夫との付き合いだけは話してくれなかった。
 友夫は里美に口止めをさせたのだ。結婚するまでは他人には秘密にしていてほしい、と。
 人を疑うことを知らなかった里美は、言われるがままにそれを守り抜いた。

 騙されていたのだと里美が気が付いたのは、弁護士である湯川重蔵との些細な雑談からだ。
 友夫が既婚者で、子供までいるのだと聞かされたのだ。

 里美はすぐに別れを決意したのだが、すでにお腹の中には葉月君が居た。
 その段になりようやく里美から話を聞かされた私は、産むことに大反対した。
 もともと体が丈夫な子じゃない。出産に耐えられるか心配だった。
 結婚しているのだと隠し未成年に近づくような卑劣な男の子供のために命をかけてほしくなかった。

 でも、里美は困ったみたいに笑って言った。

「家族が欲しいから」――と。

 私はすぐに自分の言葉を恥じた。産むな、だなんて、何があっても言ってはいけなかったのだ。

 お詫びに、葉月君が産まれるまでの数か月間、私は、できるだけ里帰りをして里美を助けた。

「予定日が八月なんだ。だから、葉月って名づけるつもりなの」
 里美がお腹を手を当てて笑う。
「はづき……、うん、いい名前だね。葉月くんー、ママに似た可愛い男の子に育ちなさいよー」
「私に似たら困るなぁ。どんくさいのまでうつりそうで」
「それは諦めなさい。あんたの子だもん。どんくさいに決まってるじゃない」
「ひどいー。葉月君、十和子おばちゃんがママを虐めるよー」
「お、おばちゃ!? 19の女子にそれは酷くない!?」

 縫製の仕事をこなしながら、里美は大きくなるお腹を愛おしそうに摩っていた。

 8月3日。
 忘れもしない。

 夏にしては不思議なほどに涼しい日だった。

 破水し、病院へ搬送された里美は、そのまま帰らぬ人となった。
 日本では出産で亡くなる人はとても少ないのだと聞く。
 正確な数字はわからない。ただ、交通事故の方がよっぽど危ないという記事も読んだ記憶がある。

 私の親友、雪村里美は数少ないといわれる中の、一人になってしまった。

「すぐに弁護士の湯川が来て、葉月君を引き取ってしまいました。……私には、何も出来なかった。葉月君の為にも出生の秘密は漏らさないで欲しいと……本人にも養子であることを伝えず、実子として育てたいから会うこともしないで欲しいといわれ……」

「――――――そんなことが……」

 陸王さんは重々しく呟いた。

「信じてたのに……あのクソ男がああ……!!」

 湯川弁護士の娘が友夫の妻だった。自分の娘の婿が不倫で18の女の子騙して子供までこさえて娘がバカにされてるってのにプライドないんかあのジジィ!!!
 あああああもう、実子と分け隔てなく育てるなんて言葉を信じた私も大馬鹿だ!

「人の悪意を想像することは難しいものです。私も、一度は葉月を連れ戻されてしまいました。葉月の声が出なくなったのは私のせいでもあるんです」

 陸王さんが悔しそうに瞼を閉じた。

「葉月君に会わせてください。里美のことを話したい。それに…………一目、会いたい。親友が残したたった一人の子に……!」

「わかりました。時間はかかるかもしれませんが、必ず連れてくるとお約束します。貴方にお会いできてよかった。葉月が望まれて生まれたのだとわかっただけでも、とても、意義のあることでした」

 丁寧に頭を下げて、陸王さんは帰っていった。

 私は一つだけ意図して聞かなかったことがある。
 葉月君と彼との関係だ。

 暴力的な見た目とは違い誠実そうな男だった。

 葉月君の為に調査会社まで使い里美を見つけてくれた人だ。今度こそ裏切られることは無い、と、妙な確信を抱いていた。



☆☆☆



 葉月君が我が家を訪れてくれたのは、次の週の日曜日、だった。
 7月に入りうだるような暑い日が続いていたというのに、やたらと涼しい日だった。

 否が応にも里美を亡くした日を思い出してしまう。

 来客を告げるチャイムが鳴る。相手を確認するより先に引き戸の玄関を開いた。

 大柄な陸王さんと、その傍に立つ小柄な――――。

 想像よりもずっとずっと里美にそっくりな、子が。
 手にはスケッチブックとペンを握りしめていた。
 声が出ないと言っていたから筆談用だろう。けど、聞こえた気がした。

『十和子ちゃん、ただいま』
 そんな、里美の声が――――。

「里美…………!!」

 私はみっともなく玄関先で泣き出してしまった。

「ご、ごめんなさいね、いい年したおばちゃんがこんな、さ、入って頂戴」

 何とか二人を客間まで案内しお茶を出す。
 そして、あらかじめ用意してあったアルバムから、写真を抜き取って葉月君に差し出した。

「これを……渡したかったの」

 私と、お腹の大きな里美が写っているものだ。

「陸王さんから貴方がどんな扱いを受けていたのか聞きました。里美が侮辱されていたことも。あの子は不倫をするような子じゃない。とても素直で、純粋で……。友夫が結婚していることさえ知らなかったの。騙したのは貴方のお母さんじゃない。友夫のほうよ」

「………………」

 里美は――いいえ、葉月君は緊張を滲ませた固い表情をしていた。
 里美と同じ顔なのに、何を考えているのかが読み取れない。里美のことならなんでも分かっていたつもりだったのに。
 ……つもりでしかなかったのだが。

「お前の血が汚れているなんて、葉月の父親のでっちあげだったんだ。お前も、お母さんも、何も悪くなかったんだ」

 陸王さんも重ねて言うが、やはり葉月君の表情は変わらない。
 どう受け止めていいのかわかりかねているのだろうか。

 少しだけ我が家で休憩してから、二人を、雪村の墓へ案内した。
 里美が好きな花はチューリップだ。
 そう告げていたので、陸王さんは色とりどりのチューリップを準備してくれた。

 雪村の墓は共同墓地の一角にある。掘られた名前は祖母より先に亡くなった里美の両親の名前と、祖母、そして里美だ。
 雪村には親戚が無いので管理は私がしていた。

 墓を拭き、花を入れ替える陸王さんの横で、葉月君はやはりどこかぼんやりとしたままだった。

「よし、完成。お参りしなきゃな」
「………………」

 葉月君は促されるままに座る。
 真っ直ぐに、墓に視線を向けた。

「――ぁ、さん」

 声が。
 葉月君が初めて声を上げた。
 ひどく擦れて聞き取れなかった声が、すぐに懐かしい響きを含みだした。
 里美とよく似た声だった。

「お母さん……、誤解してて、ごめんなさい」

「葉月」

 厳つい陸王さんの表情に驚きの混じった喜びが走る。
 だが、それは一瞬だった。

「でも、僕は――お母さんが浮気してなかったって知っても、まだ、生まれてきてよかった、とは思えないんだ。産んで貰ったのに、恩知らずでごめんなさい。僕は、僕を産むぐらいならお母さんに生きてほしかった。お母さんが助からなかったなら、僕も一緒に死にたかった」

「――――!!」

 息を呑んだのは私か、陸王さんか。いや、両方か。

「水無瀬葉月には、お母さんの命と引き換えに産んで貰う価値なんてなかったよ」

 な――なんてことを……!!
 里美がどれだけ貴方が産まれることを切望していたか、家族ができて喜んでいたか、想像しようともしないで、よくもそんなことを!!
 激昂する私を陸王さんの視線が止めた。

 陸王さんは葉月君を後ろから強く抱きしめ、抱きしめる強さとは裏腹に、優しく、言った。

「じゃあ、俺が、葉月の変わりに葉月のお母さんに恩返しをしなきゃな」

 葉月くんが握りしめていた写真を小さな手の上から握りしめ、誓うように言う。

「里美さん。葉月を産んでくれて本当にありがとうございます。俺はこの子と家族になれて、この世で一番幸せな男です。葉月が『生まれてきてよかった』と心から言えるように俺が全力で幸せにしますので、どうか、見守ってあげてください」

 里美にそう誓って、葉月君の頭に額をあてた。

「可愛い子供が俺みたいなマフィア顔負けの人相悪い男に捕まってお母さんもさぞ心配だろうなあ」

 陸王さんが笑う。

 俯いた葉月君が握る写真に、ぽつ、ぽつ、と水滴が降った。
 葉月君の涙だった。




 …………里美。



















 貴方の忘れ形見は、きっと、これからたくさんたくさん幸せになっていくよ。
 見守ってあげようね。

 今度こそ、一緒に。

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