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<叶直樹の本性――叶の独白>
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彼女が出来たと告白された数日後に、凜を手に入れるための下準備に入った。
まずは営業企画の女と結婚を前提とした付き合いを始めた。
社内では服装も髪型も地味で真面目だと評される女だ。
同僚どころか上司までも「君ならもっと高望みできただろうに」と口さがなかったが、この女以上に結婚相手として適役はなかった。
福山愛華。
社内での評判は可も無く不可も無いものではある。が、彼女には裏の顔ともいうべき一面があった。ホスト通いに嵌り、閉店まで呑んでそのままホストを枕に連れ出すのだという。
バーでたまたま親しくなった男に聞かされた話だ。
さして興味も無く聞き流していたが、それが結婚相手として選んだきっかけだ。調査会社を使い軽く調べてみれば、たった一週間の間に二人の男とラブホテルに入る写真が手に入った。とても貞淑な妻になれるタイプではない、理想の結婚相手だ。
次の行動に入ったのは更に十ヶ月を経てからだ。
一番古い記憶にある優しい旋律の曲を口ずさみながら手にしたスプレー缶を振る。カンカンと小気味いい音が缶の中で響いた。
曲は、曲名どころか歌詞さえうろ覚えだ。
テレビで聞いたのか、それとも誰かが歌って聞かせてくれたのか、それさえ覚えていない。
髪に満遍なくスプレーを振り掛ける。
鏡の中で俺の重たい黒髪が灰色の混じったアッシュブラウンに塗り替えられていく。
充分に色を馴染ませてから普段は後ろに撫でつけている髪をワックスでかき回した。
毛先を跳ねさせ、まるで違う男を作る。
人の目とはいい加減なもので、髪を明るく染め、眼鏡を外し、普段の服装から印象を変えるだけで別人だと錯覚を起こす。
対面で話せば誤魔化しは利かないだろうが、夜の街ですれ違う程度では気が付かれもしなかった。
遊びの女と会うためだけの格好だ。
普段の神経質な顔とはまるで違う遊び慣れた男の顔になった自分に笑い、凜の言葉を反芻する。
『幸せな家庭を知ってる人です』
どうして凜は、俺が幸せな家庭を知っているだなんて思ったのだろうか。
そもそも結婚するつもりさえなかった。
家族の話は何ひとつしたことが無いはずだが、俺を特別視する余りに、俺の家族構成まで理想の物であるはずだと思いこんでしまっているのか。
とても、凜の理想になれるような家庭ではないのだが。
俺の母親は父親の判らない私生児として俺を産み、俺が二歳の頃に祖父に押し付けて失踪した。
祖父は俺が姿を見せても見せなくても激昂し、骨が折れる程に杖で殴りつけてきた時代錯誤な男で、幼少時代の俺はいつもどこかしらを骨折していた。しかもろくな治療さえ受けさせて貰えないままに放置された。
小学高学年になり理不尽な暴力に耐えかね反撃したら、二度とは殴ってこなくなったが。
今思い返すと、息子を捨てて失踪する母の親なだけあってただの矮小な老人だった。
その二人だけが俺の家族だ。
祖父は俺が中学生の頃に呆気なく死んだ。
億を軽く越える遺産があるのを知っていた母は、どこで聞きつけたのか、祖父が死ぬと同時に帰ってきた。
通常ならば孫に相続権は無い。母も当然、自分一人が全額を相続するものと考えていたようだが、俺は祖父の養子になっていた。
俺にも相続が発生し、その額は現金だけでも五千万を超えた。
それを知った母は狂ったように暴れた。が、当時の俺はすでに成長していた。
母の暴力に対抗する程度は簡単なことだった。母は、力で適わないと判ると次は媚びてきた。産んでやった私に感謝しなさい。親が全額管理するのが当然だ、と。
母との交渉を長引かせるつもりはなかった。
三千万と祖父が所有していたアパート、そして家と土地の権利を全て渡すので、二千万は自由に使わせろと申し出た。断るならば一切を渡さないと。
母はしぶしぶと首を縦に振った。全て終わったのは中学二年生の頃だ。自分で弁護士を探してきて手続きまで済ませた。
そもそも俺を置いて失踪した母親だ。親権停止の処置を受けるのも簡単だった。
二歳の頃から一度も会ったことのない母親にそれなりの夢を描いていたような記憶もあるが、とっくにその記憶は忘却の彼方に押しやられていた。
失踪して、姿を見せたかと思えば遺産に騒いだ母は、数年前の年の瀬に自宅で死んでいたと警察から連絡があった。アルコール依存症での死だった。
僅かに残っていた金と無駄に広かった家屋、土地、アパートは全て相続放棄し国に寄付した。
結局、母と会ったのは中学校の頃の一回きりだ。どうして俺に金が行くんだと喚き散らしていた顔しか覚えていない。
口ずさんでいた曲が終わる。準備が終わったのもほぼ同時だ。
この曲はひょっとしたら母が聞かせてくれたのかもしれない。
調べれば歌詞も曲名も判明するのだろうが、理由も無く調べないままだった。
今度は脳内で曲を流しながらマンションを出る。
凜とも待ち合わせした街の広間に、その女はすでに居た。
「あ! 達哉さん!」
俺の偽名を呼びながら走ってくる。
「待たせてごめんね」
「いいえ! 時間ぴったりでしたよー。アタシが早く来過ぎちゃっただけだもん」
「でも、待たせちゃったしね。お詫びに好きな物奢ってあげる。何が食べたい?」
「えー。じゃあフレンチがいいなぁ。今の彼氏貧乏だからパスタとかしか奢ってもらえないし」
「貧乏なんだ。可哀相に」
腰に手を回して引き寄せる。
「そんな男に美咲ちゃんは勿体無いな」
凜の彼女、相野美咲だ。
今回で二回目のデートとなる。
凜はどうやら女を見る目も無かったようで、美咲は予想以上に容易く釣れた。
俺が碌に返事をしなくても『顔は可愛いけど情け無い彼氏の愚痴』が湧くように出てくる。
あれほど俺との同居を嫌がった凛は、美咲と同棲を始めていた。
文句ばかりの美咲とは裏腹に、家族が出来たみたいで嬉しい、と、無邪気に報告してきた笑顔を思い出す。
食事の後、ホテルに連れ込み「今日の記念に一枚だけ撮りたい」と真っ最中の画像を一枚だけ撮影した。
俺のをくわえ込んで恥ずかしそうに笑う美咲の写真を。
美咲を一人暮らしのマンションまで送り、自室へ帰る。
閉じたドアに凭れ掛かりつつスマホを手にする。スマホは三台所持していた。一台は会社から支給されている仕事用。二台目はプライベート用。そして、これは、いつでも切り捨てられる遊び用の三台目だ。
届いていたメッセージを読む事さえしないままに、美咲との連絡用にしていたアプリをアンインストールする。
画像は、『顔は可愛いけど情け無い彼氏の愚痴』が詰まった音声ファイルと共に凜に送りつけた。
凜から連絡があったのは、ヘアカラーを落とし服を全て洗濯機に突っ込んで、美咲の匂いを完全に洗い流した頃だ。
『こんな時間にすいません……、い、今から……叶さんの家に行ってもいいですか……?』
「どうかしたのか? いや、話は会ってからでいい。そのまま待ってろ。俺が迎えに行く」
『ごめんなさい……、叶さん……』
唇の端に笑みを乗せたまま、通話を切る。
十か月も待っただけあって凛は美咲を「家族」とまで言うようになった。その女の裏切りは凛に深い傷を残すに違いない。
これで、違う女に告白をされることがあっても、俺から逃げるために告白を受けることも無くなる。
凛が居た場所まで、車で五分と掛からなかった。
公園の植え込みの陰に凜は蹲るように座りこんでいた。
「凛」
呼びかけると弾かれたように立ち上がり、助手席のドアから飛び込んできた。
「かのうさん……!」
「泣いているのか? 一体何があった?」
首にかじりつくように飛びかかってきた凜を抱き止める。
背中を撫でてあやしつつ、触り慣れた髪や体の線を確かめて女の記憶に上書きする。
可愛い可愛い、俺の凜。
まずは営業企画の女と結婚を前提とした付き合いを始めた。
社内では服装も髪型も地味で真面目だと評される女だ。
同僚どころか上司までも「君ならもっと高望みできただろうに」と口さがなかったが、この女以上に結婚相手として適役はなかった。
福山愛華。
社内での評判は可も無く不可も無いものではある。が、彼女には裏の顔ともいうべき一面があった。ホスト通いに嵌り、閉店まで呑んでそのままホストを枕に連れ出すのだという。
バーでたまたま親しくなった男に聞かされた話だ。
さして興味も無く聞き流していたが、それが結婚相手として選んだきっかけだ。調査会社を使い軽く調べてみれば、たった一週間の間に二人の男とラブホテルに入る写真が手に入った。とても貞淑な妻になれるタイプではない、理想の結婚相手だ。
次の行動に入ったのは更に十ヶ月を経てからだ。
一番古い記憶にある優しい旋律の曲を口ずさみながら手にしたスプレー缶を振る。カンカンと小気味いい音が缶の中で響いた。
曲は、曲名どころか歌詞さえうろ覚えだ。
テレビで聞いたのか、それとも誰かが歌って聞かせてくれたのか、それさえ覚えていない。
髪に満遍なくスプレーを振り掛ける。
鏡の中で俺の重たい黒髪が灰色の混じったアッシュブラウンに塗り替えられていく。
充分に色を馴染ませてから普段は後ろに撫でつけている髪をワックスでかき回した。
毛先を跳ねさせ、まるで違う男を作る。
人の目とはいい加減なもので、髪を明るく染め、眼鏡を外し、普段の服装から印象を変えるだけで別人だと錯覚を起こす。
対面で話せば誤魔化しは利かないだろうが、夜の街ですれ違う程度では気が付かれもしなかった。
遊びの女と会うためだけの格好だ。
普段の神経質な顔とはまるで違う遊び慣れた男の顔になった自分に笑い、凜の言葉を反芻する。
『幸せな家庭を知ってる人です』
どうして凜は、俺が幸せな家庭を知っているだなんて思ったのだろうか。
そもそも結婚するつもりさえなかった。
家族の話は何ひとつしたことが無いはずだが、俺を特別視する余りに、俺の家族構成まで理想の物であるはずだと思いこんでしまっているのか。
とても、凜の理想になれるような家庭ではないのだが。
俺の母親は父親の判らない私生児として俺を産み、俺が二歳の頃に祖父に押し付けて失踪した。
祖父は俺が姿を見せても見せなくても激昂し、骨が折れる程に杖で殴りつけてきた時代錯誤な男で、幼少時代の俺はいつもどこかしらを骨折していた。しかもろくな治療さえ受けさせて貰えないままに放置された。
小学高学年になり理不尽な暴力に耐えかね反撃したら、二度とは殴ってこなくなったが。
今思い返すと、息子を捨てて失踪する母の親なだけあってただの矮小な老人だった。
その二人だけが俺の家族だ。
祖父は俺が中学生の頃に呆気なく死んだ。
億を軽く越える遺産があるのを知っていた母は、どこで聞きつけたのか、祖父が死ぬと同時に帰ってきた。
通常ならば孫に相続権は無い。母も当然、自分一人が全額を相続するものと考えていたようだが、俺は祖父の養子になっていた。
俺にも相続が発生し、その額は現金だけでも五千万を超えた。
それを知った母は狂ったように暴れた。が、当時の俺はすでに成長していた。
母の暴力に対抗する程度は簡単なことだった。母は、力で適わないと判ると次は媚びてきた。産んでやった私に感謝しなさい。親が全額管理するのが当然だ、と。
母との交渉を長引かせるつもりはなかった。
三千万と祖父が所有していたアパート、そして家と土地の権利を全て渡すので、二千万は自由に使わせろと申し出た。断るならば一切を渡さないと。
母はしぶしぶと首を縦に振った。全て終わったのは中学二年生の頃だ。自分で弁護士を探してきて手続きまで済ませた。
そもそも俺を置いて失踪した母親だ。親権停止の処置を受けるのも簡単だった。
二歳の頃から一度も会ったことのない母親にそれなりの夢を描いていたような記憶もあるが、とっくにその記憶は忘却の彼方に押しやられていた。
失踪して、姿を見せたかと思えば遺産に騒いだ母は、数年前の年の瀬に自宅で死んでいたと警察から連絡があった。アルコール依存症での死だった。
僅かに残っていた金と無駄に広かった家屋、土地、アパートは全て相続放棄し国に寄付した。
結局、母と会ったのは中学校の頃の一回きりだ。どうして俺に金が行くんだと喚き散らしていた顔しか覚えていない。
口ずさんでいた曲が終わる。準備が終わったのもほぼ同時だ。
この曲はひょっとしたら母が聞かせてくれたのかもしれない。
調べれば歌詞も曲名も判明するのだろうが、理由も無く調べないままだった。
今度は脳内で曲を流しながらマンションを出る。
凜とも待ち合わせした街の広間に、その女はすでに居た。
「あ! 達哉さん!」
俺の偽名を呼びながら走ってくる。
「待たせてごめんね」
「いいえ! 時間ぴったりでしたよー。アタシが早く来過ぎちゃっただけだもん」
「でも、待たせちゃったしね。お詫びに好きな物奢ってあげる。何が食べたい?」
「えー。じゃあフレンチがいいなぁ。今の彼氏貧乏だからパスタとかしか奢ってもらえないし」
「貧乏なんだ。可哀相に」
腰に手を回して引き寄せる。
「そんな男に美咲ちゃんは勿体無いな」
凜の彼女、相野美咲だ。
今回で二回目のデートとなる。
凜はどうやら女を見る目も無かったようで、美咲は予想以上に容易く釣れた。
俺が碌に返事をしなくても『顔は可愛いけど情け無い彼氏の愚痴』が湧くように出てくる。
あれほど俺との同居を嫌がった凛は、美咲と同棲を始めていた。
文句ばかりの美咲とは裏腹に、家族が出来たみたいで嬉しい、と、無邪気に報告してきた笑顔を思い出す。
食事の後、ホテルに連れ込み「今日の記念に一枚だけ撮りたい」と真っ最中の画像を一枚だけ撮影した。
俺のをくわえ込んで恥ずかしそうに笑う美咲の写真を。
美咲を一人暮らしのマンションまで送り、自室へ帰る。
閉じたドアに凭れ掛かりつつスマホを手にする。スマホは三台所持していた。一台は会社から支給されている仕事用。二台目はプライベート用。そして、これは、いつでも切り捨てられる遊び用の三台目だ。
届いていたメッセージを読む事さえしないままに、美咲との連絡用にしていたアプリをアンインストールする。
画像は、『顔は可愛いけど情け無い彼氏の愚痴』が詰まった音声ファイルと共に凜に送りつけた。
凜から連絡があったのは、ヘアカラーを落とし服を全て洗濯機に突っ込んで、美咲の匂いを完全に洗い流した頃だ。
『こんな時間にすいません……、い、今から……叶さんの家に行ってもいいですか……?』
「どうかしたのか? いや、話は会ってからでいい。そのまま待ってろ。俺が迎えに行く」
『ごめんなさい……、叶さん……』
唇の端に笑みを乗せたまま、通話を切る。
十か月も待っただけあって凛は美咲を「家族」とまで言うようになった。その女の裏切りは凛に深い傷を残すに違いない。
これで、違う女に告白をされることがあっても、俺から逃げるために告白を受けることも無くなる。
凛が居た場所まで、車で五分と掛からなかった。
公園の植え込みの陰に凜は蹲るように座りこんでいた。
「凛」
呼びかけると弾かれたように立ち上がり、助手席のドアから飛び込んできた。
「かのうさん……!」
「泣いているのか? 一体何があった?」
首にかじりつくように飛びかかってきた凜を抱き止める。
背中を撫でてあやしつつ、触り慣れた髪や体の線を確かめて女の記憶に上書きする。
可愛い可愛い、俺の凜。
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