発情薬

寺蔵

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<抑制剤がきかない>

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「だ――誰から、それを?」

「山城さんだよ。研究員の。お前が相談した相手なんだろ? ほら、たまにここに居た」
 火を付けてないタバコで喫煙所を指す。
「朝からその話題で持ちきりになってるぞ。新人が禁断の恋に走ったってな」
 ハハハ、と東野先輩が笑う。

 視界が、真っ暗になった。
 喫煙所のドアが魔界へ続く門に見えた。中で、得体の知れない化物達が蠢いている。
 やめてください。広めないでください。内緒にしててください。

 お願いするのは簡単だ。
 でも、いろんな部署の人が出入りしている場所で噂になってる。その言葉に何の意味がある?

「総務の既婚者っつったら松田さんか? それとも薫子ちゃん? まさか遠藤さんじゃねーだろーな。五十代はきっついよなー」
「内緒、です。結婚してる人に迷惑が掛かっちゃうんで」
 笑いながら唇の前に人差し指を立てる。
 自分で作った笑顔なのに顔が無くなったみたいな違和感があった。
 オレはちゃんと笑えてるのかな?

「なんだよケチくせーな。あ、判った、海老名さんだろ」
「絶対言いませんよー。ヒントも無しっす。そだ、赤坂先輩」
「あぁ?」

「今ので思い出したんですけど、オレ、治験の件で百瀬さんに呼び出しを受けてたんでした。時間掛かりそうなんで先にご飯食べてて下さい。すいません。失礼します!」

 赤坂先輩の言葉を待たずに走りながら、ポケットからスマホを取り出す。
 スマホってこんなに重かったっけ?
 力の入らない指を必死に動かして操作する。

 発信をタップしそうになってから慌てて指を止めた。
 無意識に叶さんに連絡しようとしていた。

 相手を選び直し、百瀬さんに連絡を繋いだ。

『どうかした?』
 百瀬さんはすぐに電話に出てくれた。

「いま、お時間ありますか? ふ――二人で話が、したいです」
『うん。いいよ六階の――』

 いきなり電話したのに、百瀬さんはすぐに臨時に使用しているという個室に招いてくれた。
 エレベータで六階に行き、ノックもせずに個室に飛び込んで百瀬さんにしがみ付く。

「ももせ、さん、――っ、」
「鈴森君?」

 安心する匂い。
 安らぐより先にオレの中で何かが弾け飛んだ。
 もうとっくに成人しているのにみっともなく涙が流れた。

「何があった?」
「――レ、オレ、のことが、うわさ、に……! きこんしゃを、――やましろさん、が、きつえんじょで、ひどい、オレ、」

 誰にも知られたくなかったのに!

「――!! なんてことを……」
 百瀬さんが怒りを露に吐き捨てた。

「ごめん……! 謝って済むことでもないけど謝罪させてほしい。本当に申し訳無い……!! 上司に報告して山城には然るべき処分をするから」

 既婚者に惹かれたなんて、誰にも知られたくなかった。
 抑制薬を飲んで、運命の人が見つからなかったフリをするつもりでいた。

 『運命の赤い糸プロジェクト』も治験も、今、社内で最も注目されている事柄だ。
 どんな小さな噂でもあっという間に広まる。


 叶さんの耳にも入ってしまう!

「ぁぐ……」
 涙が止まらない。

 辛い。苦しい。自分が気持ち悪い!!

 百瀬さんが背中を撫でてくれる。
 赤坂先輩とは違って気持ちいい。
 叶さんと会えない今、百瀬さんだけがオレの慰めだ。
 少しだけ高い位置にある肩に顔を埋めて優しい匂いを吸う。

(あ)

 涙で滲む視界に腕時計のベルトが目に入った。

 オレには勿体無いぐらいの高価な腕時計。就職祝いに叶さんにプレゼントしてもらった品だ。
 百瀬さんの首にしがみ付いていた腕を反転させ、時間を確認する。

 十二時三十分。お昼休みが終わってしまう。

 百瀬さんも休憩したいはずだ。
 ご飯を食べに行きたいはずだ。
 これ以上迷惑は掛けられない。

 でも、この部屋に居させて欲しいな。赤くなった目の腫れが引くまでは……。
 もう一人で大丈夫ですから休憩に行ってください。なんて言っても、百瀬さんは遠慮してしまうだろう。傍に居ると言ってくれるに違いない。

 オレ達の匂いはお互いを安心させるものだから。

 なら。

「……あの、お願いが、あるんです、しばらく一人にしてもらえませんか? 厚かましくてすいませんがこの部屋を貸してください。お願いします。頭の整理をしたくて」

 こういえば、オレに気兼ねせず食事に行けるはず。

 百瀬さんから離れたくなかった。

 オレを安心させてくれる匂いの傍に居たかったけど、無理やり自分を百瀬さんから引き剥がす。

「そんなことでいいならいくらでも。ゆっくり休んで」
 泣き顔を見られるのが恥ずかしいので俯いたまま離れる。
 ハンカチを取り出すより早く、百瀬さんが流れた涙を指先で拭ってくれた。

「ありがとうございます」

 百瀬さんの背中を見送り、ソファに体を沈める。
 オレは、食欲なんてまるでなく、『食後』と書かれてる袋から抑制薬を取り出し、水も使わず二錠呑んだ。

 肘掛に膝を乗せ、寝転んで天井を眺める。

 いっそのこと、叶さんに連絡してしまおうか。
 運命の人を見つけたんですけど、結婚してる人でした。って。
 噂話を耳に入れるよりオレが直接伝えるのがマシかも知れない。

 覚悟を決めてスマホを手にメールを入力していく。
『治験で運命の人を見つけちゃいました! でも、なんと、けっこ』

(結婚)

 駄目だ。
 『結婚している人』がどうしても入力できなくて諦めた。


 ブブブブブブ。

「ッ!?」

 マナーモードにしていたスマホが振動した。

 不意だったので危うく取り落とす所だった。
 誰だろう?
 確認すると、表示された名前は「叶直樹」さん――――。

 すっと、全身が冷たくなった。

 いつも通りに、いつも通りに。
「あー。あー。はい、凜です」
 発声練習をしてから、通話を繋げる。

「はい、凜です!」
『今日は仕事終わりに時間を取れるか?』

 え?
 治験の話だとばかり思っていたから頭が空回りしてしまった。
 そうだ、昨日、叶さんからの誘いを断ったんだった。大学の友達と会うと嘘をついて。
 大事な話があるって言ってたっけ。
 どうしよう。
 今は叶さんと会いたくない。

「その、あの」
 また、友達と会うと嘘を付く?

 ――やめておこう。いい機会だから話してしまおう。

「あの、オレ、例の薬で、遺伝子的に合う人が見つかったんです。でも、相手が結婚してる人で」

 語尾が震えてしまった。スラックスからシャツを引き出し、わき腹に力一杯爪を立てた。しっかりしろオレ。泣くな。声を振るわせるな。

「ちょっと凹んでて……。しばらく一人で悩みたいんで時間をいただけませんか?」

『…………そうだったのか。一人で大丈夫か? 傍に居てやることぐらいはできるぞ』

「もー、またオレをガキ扱いして。オレももう立派に働いてる社会人っすよ。初めて会った時の叶さんよりも年上になったんです。自分の悩みぐらい自分で解決できます!」

 一気に捲くし立てる。
 叶さんからは沈黙が帰ってきた。

 お願いだから、何も聞かないで下さい。

『……そうだな。お前ももう二十三になるんだもんな。悪かった。だが、あまり一人で悩み過ぎるなよ。行き詰るぞ』

「はい。……話せるようになったら、絶対、相談しますんで聞いてください。また酔っ払っちゃいそうですけど」

『あぁ。いつでも連絡してこい』

 ありがとうございます。

 告げて、通話を切る。

 普通に話せたよね?
 オレ、変じゃなかったよね?

 ぐったりしてソファに倒れこむ。
 時間は十二時四十五分。
 そろそろ総務に戻ろう。
 重たい体を起こして部屋を出る。
 エレベーターで階を移動して見慣れたドアの前に立つ。

 この会社に勤めて初めて、総務部のオフィスに入るのが怖かった。

 覚悟を決め、セキュリティカードをカードリーダーに翳し重たいドアを開く。


 扉の先にぶわっと広いオフィスが現れた。

「お帰り、凜」
「ただいま戻りました!」
 挨拶をくれる先輩に答えつつ通路を進む。
 どうか、誰も噂を聞いてませんように。
 自分の席に座り中途半端で中断していた書類を仕上る。

 よし、できた。後はこれを次長にメールで送って……完了。
 早く資料室に行こう。一人になりたい。
 セキュリティカードを片手に席を立ち、金庫に向かう。

 キンコン。

 セキュリティ解除の音が鳴りドアが開いた。
 北村先輩が入ってくる。そして、笑いながら言った。

「おい、凜、聞いたぞ。運命の相手が既婚者だったんだって?」

 びくりと体が動いた。
 あぁ、やっぱり、誰も聞いてないなんて無理か。
 覚悟はしてたはずなのにショックが大きくて革靴の下の床が柔らかな素材に変わってしまったかのような錯覚がした。
 一斉にオレに視線が集まる。
 叶さんを欲しがってしまったオレを見ないでください。
 無意識にわき腹に爪を立てようとしてしまった。
 皆見ているのに何をしようとしているんだ。オレのバカ。

「えええ!? それほんと!? 誰だったの!?」
 恋子先輩が大きな声を出しながら立ち上がる。

「きゃー、禁断の恋に目覚めちゃったのね凜君。不倫なんて嫌って言ってたのに運命の人が既婚者だったなんて昼ドラみたい!」
「その歳で人妻好きかー。まぁ、ワンコならマダムに可愛がられるだろうな。若いツバメだな」
 真美先輩とゴロー先輩が笑う。

 眩暈がする。皆の顔と景色が交じりぐちゃぐちゃになってる。
 必死に平静を装いつつ声を振り絞る。

「相手なんて言えるわけないじゃないですか。ちゃーんと抑制剤も貰ってますし、薬の効き目が切れるまでこれで乗り切ります」
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