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「つかれた」

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「それで……君は何がしたいの?」

 ハッキリとしないような顔で塾の教師は向かいに座る僕をみた。僕はサッと目をそらす。教師は負けじと僕に話しかける。「えー……」と声を上げて僕は小さな声で答える。

「何も……ないです」

 現在は塾の懇談会。個別の塾なので塾長はコロコロ変わり、今日は顔も合わせたこともない知らない塾長との懇談会。大学付属の学校に通う僕は社会に出るまでの線路は引かれているがどの路線に乗って社会に出るかがわかっていない状態だった。

 塾の教師は僕のことを「要領が悪い」という。計画性を持って勉強することができていない、もっと考えれば成績を上げることはできる。僕はそのことをいう教師に対して一瞬、舌打ちをしそうになった。数値の話は今はいいんだよ、僕が聞きたいのは路線の選び方なんだよ。そもそもどの線路を通ればいいのか、僕自体は何がしたいのか……。そんなことを考えていると表情にそのことが出ていたのか、教師は僕の志望書を見ていた。

「法学部……に行きたいって書いてるけど……どうしてそれを書いたの?」

「……わからないです」

 僕はそれだけ答えた。どうして法学部なんて文系で一番賢い学部を志望していたのか。卒業すれば給料のいい仕事につけるなんて中途半端なことを考えていたからである。何がやりたいかじゃあない、何を目指すとかでもない、月給がいいか悪いかで職業の良し悪しを考えるという愚かな行為をしている僕がいた。

 そんなんで法学部に志望したなんてこの教師に言えることでもない、まだ対面して10分ほどなのに。信用しようと思い始めてたらその教師はもう僕が通う教室にはいない、これが個別の嫌なところだった。人見知りな僕はこの転勤のスピード感についていけない。

「わからないか……法学部にいって何が学びたかったの? 空っぽのまま書いたんじゃないよね?」

 それは違う。給与がよくて僕に合いそうな仕事はもう決めてたから。でも周りが希望に満ち溢れた目で「中学校社会科の先生になる」とか、「生き物と関わる仕事につきたい」と話してくる友人を見ていると見えないところで僕の志望理由を笑われてそうで……知らないところで僕は距離を置いていたんだ。

「……司法を学びたかったんですよ……。でもそれが本当にしたいことかって言われても……何にも答えられないです」

 小さな面談室の中は重苦しい空気感へと早変わり。息をするだけでも肺の中がゲッソリとしてしまうほどの重い空気。僕は俯いて何も答えることができなかった。

「まぁ、今は迷ってもいいよ。何かあったらいつでも相談にのるから」

 出たよ、お決まりの文句。「何かあったら相談にのるから」、それ言ってても僕の心のうちを本当に理解してるのか? まぁ……説明しろよって言われてもうまく伝えられないことだからこれ以上言うのはわがままと言うことになる。これは誰も悪くない。僕の問題さ……僕に眠る灰のようなかすれた心の。

 カバンを背負って塾を出る。教師の目が僕から離れた瞬間、僕は大きなため息を吐き出した。肺の中の荒んだ空気が一気に吐き出されて都会の空気に交換される。排ガスの混じった不味い空気。僕は俯いてから横断歩道を渡るために足を止める。そして一言、

「つかれた」

一言、本当に一言。心の中もこの「つかれた」という単語以外出てこなかった。色んな単語や文章が詰まったのが普通の心なのに、今の僕は一つの単語しか収納できないほど余裕がなかったんだ。

 自分の目の前ギリギリに自転車が横切って一歩間違えれば事故だったのに僕は何も感じなかった。むしろひいてくれたほうがよかったのになんて思ってしまう。ゆっくりと横断歩道を渡って駐輪場へ向かう。このまま家に帰るのもあれだから好きなエナジードリンクでもかって帰ろう。そう思いながら自転車に跨って漕ぎ出した。

 自転車を漕いでいると涼しい風が僕の首筋を凪いで行く。普通なら気持ちいいという単語が出てくるはずなのに僕は「つかれた」と呟いた。ペダルを踏むことにも疲れたし、信号を待つことも、自分の進路を考えることにも疲れた。

 だから今は無心で漕ぐ。かつての僕のような無邪気な小学生が隣に走っていても僕は「つかれた」と呟くだけで何にも感じなかった。世界を知らないから無邪気に入れるんだ。君たちだっていずれ僕みたいになるよ。

 そんなことを考えていると行きつけのドラッグストアに着く。冷房が効いた店内に入って奥のドリンク棚から好きなエナジードリンクとぶどう味のグミを取ってレジに出す。テキパキと仕事をするバイトらしき店員。将来性があるからバイトしてるんだろうなぁ……。と思いながら袋を受け取った。

 店から出ると冷房の代わりにムワッとした熱い空気が僕の首筋を撫でるように吹いた。もうリアクションすることにも疲れたので僕は自転車のカゴに袋を置いて家まで突っ走る。

「つかれた」

 家に入って親に簡単な報告を済ませると親は少し心配したような顔で僕を見た。具合が悪いの? と声をかけた親に僕は「つかれた」とだけ言って部屋を出ようとする。その時に親は、

「勉強とかの『つかれた』じゃあない気がするけど……」と呟いたのが聞こえて僕は舌打ちをして自分の部屋に向かった。無機質な勉強机に買ってきたものを置いて椅子に座る。ギィイイ……と音を立てる椅子に座った僕はさっきの母の言葉を思い出していた。

 僕って……何がしたいんだろう……。勝手に友人との距離を遠下げて、大した会話もせずに塾から帰ってきて、名前も知らない小学生を心の中でののしって。

 もう何に「つかれた」なのかもわからない。そもそもどんな経緯でこんな発想になったのかも……。僕自身が誰なのかも……。今は僕以外の誰かが僕を操っているようにも考えられた。

 答えの出ない問題に「つかれた」僕は袋からエナジードリンクを取り出して缶をプシュッと開ける。つい最近まではこの音を聴くと笑顔が溢れ出ていたのに……グビっと飲んだ僕にはお決まりの単語しか思い浮かばなくなっていた。

「つかれた」
 
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