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本編

38.叶わなかった願い

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 魔王ゲレオンは、先代魔王の息子だった。

 魔王は、魔族の中で最も強いものが就く。
 何で強さを示すのかといえば、単純な殺し合いだった。
 魔王に戦いを挑み、殺したものが次の魔王になる。負ければ、自分が死ぬ。
 そんな分かり易いシステムだった。

 ゲレオンは、魔王だった母が次代の魔王にするべく産み、育てた存在だった。
 強さを求める魔族にとって、親殺しの子供を持つことがもっとも名誉なこととされ、親殺しをした魔族は一目置かれる。

 生物は、よりよい個体を産むために交配する。
 魔族にとって、自分を殺すほどの子供が産まれれば、それが生物としての成功だった。
 しかし、未だに親殺しの魔王はいなかった。
 ゲレオンの母は、息子に、初の親殺しの魔王になって欲しかった。

 もともと、魔族は家族の情というものが薄い。
 ゲレオンは母に育てられ、強くなり、そして彼女が望んだとおり――そして強さを求める自分の本能に従って、母を殺した。


 ゲレオンには強さを求める欲求はあったが、他は魔族にしては薄かった。
 魔王になったところで特別やりたいことはなく、とりあえず魔王として、魔界のために働いた。

 人間界への扉が開けば、魔王として瘴気を生み出して送った。
 人間界の土地も、食物も、生物も、魔族にとって魅力的だ。
 扉を開け続ける方法がないかを探し、過去の魔王が編み出した眷属の呪いを知った。

 まずは向こうの動物に試して――そして、扉番に呪いをかけてみた。
 呪いが成功すれば、ゲレオンは鍵を扱えるようになる。
 失敗したら残念だが、今までと同じだ。
 現状維持。悪いことではない。

 そんな軽い気持ちで呪いをかけ……意識を飛ばそうとしてできなかったときに、ああやっぱり失敗か、と思った。

 それから、しばらくして。

「そういえば魔王様、眷属の呪いはどうでした?」

 眷属の呪いの文献を探し出してきた側近が言った。

「ああ、あれか……失敗だった」
「あなた様でも駄目でしたか……残念です」

 そう肩を落とされたのが、親殺しのくせに大したことないと思われたようで少し気になった。
 それで、もう一度試してみたのだ。



 すると、ゲレオンはまったく別の場所で目を覚ました。
 白い石造りの部屋に、女神像と祭壇がある。
 天井はステンドグラスがあり、明るい光が差し込んでいた。

 体を動かそうとしたが、指先がぴくりと動いただけで、上手くいかなかった。
 しかし、体の具合が悪いわけではない。
 おそらく、この体を動かすのに慣れていないだけだった。

「レオ?」

 名前を呼ばれて、ゲレオンは息を呑んだ。
 母を殺してから、もうずっと、自分の名前を呼ぶ存在はいなかったから。

 視線を向けると、ひとりのニンゲンの女がいた。
 食事をのせたワゴンを置いて、近づいてくる。

 菫色の長い髪と瞳に、白い肌。
 意思の強そうな大きな目に、ぷくりとやわらかそうな唇。
 そして、男なら目が向くであろう大きな胸。
 ニンゲンにあまり興味がないゲレオンでも、彼女が上玉であろうことは分かった。
 その纏う空気は清浄で、ゲレオンにとっては刺激が強いほどだ。

――ああ、聖女か。

「おはよう。どうしたの? まだ寝てるなんて珍しいわね」
「ああ……」

 ゲレオンが体を起こそうとしたとき、その腕が崩れた。
 ベッドに体が沈み、聖女が焦った声を上げる。

「だ、大丈夫!? どうしたの、体調悪い?」

 心配そうに眉を下げた聖女は、ゆっくりとゲレオンを仰向けにした。
 そして額に手を当て、うーん、と唸る。

「熱はなさそうなんだけどな……気分悪い?」
「いや……」
「そうなの……? でも、呪いのこともあるし……今日は大人しくしていましょう。いつもとなんか違うもの。無理は良くないわ」

 いつもと違うという言葉に少し焦ったが、聖女は別にゲレオンのことを見抜いたわけではないようで、その顔にはこの体を労わる色しかなかった。

「食欲は?」
「……ある」
「じゃあ、軽いものを、少しずつ食べましょう。起きれる?」

 聖女に支えられながら体を起こし、壁に背中を預けるようにしてベッドの上で座った。

「はい、これ」

 赤いスープが入った食器とスプーンを渡され、掬って飲もうとした。
 しかしまだ上手く動かせず、スプーンを落としてしまう。

「ああっ!」

 聖女がわたわたと零したスープを拭いて片付け、ワゴンから別のスプーンを持ってきた。

「また零すといけないから、はい」

 そして聖女が掬ったスプーンを口元に運ばれ、大人しく飲んだ。
 温かさと酸味が広がり、ゲレオンは、初めてものを食べておいしいと思った。

「これ、何なんだ?」
「ミネストローネよ。ここの、おいしいわよね」
「……ああ」

 またスプーンを運ばれ、口を開ける。
 それを何度か繰り返すと、聖女はくすくすと笑った。

「なんだか、昔やってた治癒師ごっこみたいね」

――この体と聖女は、昔からの知り合いなのか。

 魔王は、体の記憶を覗こうとした。
 そして、奇しくもこの扉番の名前の音は、ゲレオンの名前の一部と同じだと知った。
 しかし、聖女についての記憶だけは読み取れなかった。
 見ようとしても黒く塗り潰されていて、まるでこの体が自分から隠そうとしているようだった。
 なんて、そんなこと、あるはずもないのだが。


 ゲレオンはいずれ扉を開けるため、時折扉番の体に入った。
 本来はいつでも入れるはずなのに、なぜか夜中にしか入れない。
 ニンゲンだから、だろうか。
 ゲレオンは首を傾げながらも、体に慣れようとした。

 聖女は朝に必ず来て、ゲレオンの世話をした。

 魔族は、基本的に自分の欲求以外に興味がない。
 自分に尽くす配下はいるが、彼らだって出世欲とか、自分の側近であることの恩恵を受けたいとか、そういう感情から動いている。

 彼女の、この体を心から大切にしようとしている振る舞いは、新鮮で興味深かった。
 なるほど、ニンゲンにはまる魔族がいるというのも、頷ける。

「おはよう、レオ」
「今日は身体、大丈夫?」
「ごめんね。一応、熱とかないか確認するわね」
「好きなんだろうなって、結構持ってくるようにしてるのよ。感謝してよね」

 彼女が名前を呼ぶたびに、笑顔を見せるたびに、照れたように顔を赤くするたびに、ゲレオンは今まで経験したことのない感情に襲われた。
 そして次第に、もっと彼女が欲しくなった。
 この体にかけるような甘い声で、この体ではなく、本当の自分の名前を呼んで欲しい。
 笑いかけて、触れて、それから、もっと……。

 ゲレオンは今までつがいなんて興味がなかったのに、彼女がそれになってくれたら、どれだけ幸せなのだろうと、そう思うようになった。





 途中までは、良かった。
 扉番の体を使って、扉の鍵を開けて。
 そのまま、彼女を魔界につれていくつもりだった。

 故郷への哀愁に泣いている姿は可哀想だが、きっと慣れてくれる。
 彼女が自分にしてくれたように、献身的に接するつもりだった。

「お願い、レオ……」

 なのに彼女に潤んだ目で名前を呼ばれて口付けされてしまえば、我慢がきかなかった。
 彼女がゲレオンを呼んだわけではないことも、こんなことをすればまた扉番が騒ぐことも分かっていた。

 それでもゲレオンは、魔族らしく、自分の欲求を我慢できなくなった。



 そして体を扉番に取り戻され、本体で扉に向かった。

 聖女が女神に瘴気を浄化する力を授けられるのならば、魔王は瘴気を生み出す術を先代を殺した時に継承する。
 どんなものでも、力比べをすれば強い方が勝つ。

 彼女が張ったあの世界そのものを守る結界を破り、これで勝ちだと思った。
 あのニンゲンたちが死ぬのも、時間の問題だ。
 扉番は次が出てこないように捕獲して、牢にでもぶち込んでおけばいい。

 それなのに、そんな思惑は、また彼女自身によって打ち砕かれた。
 彼女を他の魔族から守りたくて、自分のものだと示したくて贈った指輪が、仇となった。

 扉がどんどん閉められていく。
 魔王は扉番に意識を移そうとしたが、彼女が傍にいるあいつにはじき出されてしまった。

 時間がない。
 魔王は瞬時に、聖女に向かって瘴気を放った。
 彼女を、眷属にしようとしたのだ。

 自分は魔王として、扉を出て人間界に残されるわけにはいかない。
 このまま扉を閉められたあと、また扉番に乗り移って同じことをしようとしても、彼女が向こうにいるのならば、その前に解呪されてしまうだろう。

 眷属にして、聖女を、浄化の力が使えないようにする。
 そして彼女の体を人質にとれば、あの扉番は言うことを聞くだろう。
 もちろん聖女が呪いに耐えられない可能性はあるが、元々瘴気に耐性のある体だ。
 もしかしたら、耐えるかもしれない。

 そして、もし駄目だったとしても今までと同じだ。
 現状維持。悪いことではない。

 そう、ゲレオンは魔王として判断を下したのだ。けれど。

「あ゛あ゛あ゛あ゛っ!!」

 痛みに苦しむ彼女を見て、ゲレオンの方が耐えられなかった。
 このまま彼女を失うかもしれないと思うと、恐ろしくなった。
 そうして瘴気を引いた瞬間に――扉が閉められた。



「…………ルーチェ……」

 ゲレオンは固く閉ざされた扉に手をあて、ぽつりとつぶやいた。

 結局自分に残されたのは、あの扉番が叫んでいた、彼女の名前だけだった。
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