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第二章
第七話 南由紀
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和寿と合わせたその日から、ワタルは大学で彼を見かけることが多くなった。ワタルからは声を掛けずに、ただ見ているだけだったが、彼がワタルに気が付くと必ず声を掛けてきた。それが、他の誰かと一緒にいる時でも、なのだ。
「あの、油利木くん。友達が待ってるみたいですけど。早く戻った方がいいのでは?」
思い切ってそう言ってみたが、和寿はあまり気にしている様子はなく、
「いいじゃん。それよりさ、今日仕事? またワタルのピアノ、聞きたいんだけど」
「えっと。今日は仕事です。来てくれるなら、何か希望の曲を弾きましょうか」
和寿は、ワタルの質問には答えず、
「いつまで敬語使うんだよ。それと、オレのこと、名前で呼べ。もう、名字で呼んでも返事しないからな」
急に何を言い出すんだろう。ワタルは、あまり砕けた話し方が得意ではない。名前の呼び捨てもあまりしたことがない。
「それは、たぶん無理です。油利木くんでいいじゃないですか」
「オレ、返事しないって言ったぞ。今から実行します」
和寿がワタルをじっと見る。呼んでほしいとの期待が込められた目をしていた。ワタルはあえて、「油利木くん」と呼んでみたが、予告していた通り返事をしない。さらに何回か呼んでみたが、やはり返事をしない。ワタルは息を吐き出すと、意を決して、
「和寿」
彼は笑顔になり、
「やっぱり名前で呼ばれる方がいいな。あとは、敬語をやめてくれたらいいんだけど」
「だから、それは難しいって言ってるんですけど」
「じゃあ、徐々に」
譲歩した。ワタルは頷き、
「あ、はい。努力します」
「よし。約束だぞ」
「はい」
和寿が笑い出したのにつられて、ワタルも笑った。少し距離が近づいたような気がして、嬉しかった。
その時、「和寿」と呼ぶ女性の声がした。二人でそちらを見た。和寿は複雑な表情になりながらも、その人に手を振った。
「あの人が、オレの彼女」
伴奏をしてくれているという、彼女。そういえば、何かの講義の時に見かけたことがある。ほっそりとした体形。涼やかな目元。黒くて長い髪。美人系の人だ。
彼女は和寿の傍らに立つと、ワタルに視線をよこした。ワタルは彼女に向かい、頭を下げた。和寿は彼女に目を向け、
「由紀。吉隅ワタルくん。由紀と同じ、ピアノ科」
「見かけたことはある。南由紀です。よろしくね」
よろしくね、とは言ってくれているが、目は笑っていない。
「あ、はい。よろしくお願いします」
空気が少し重い。和寿の顔つきも微妙なままだ。彼は隣に立つ由紀の目をとらえながら、「あのさ……」と切り出した。
「由紀。今まで伴奏やってくれてありがとう。でも……、ごめん。今日で終わりにしてくれ」
あの時、今日だけ、という約束をしたはずなのに、何を言い出すんだろう。
ワタルは、和寿の発言に鼓動が速くなっていた。
「このまえ、ファルファッラでワタルと一緒に演奏してさ。あ。ワタル、あそこでピアノ弾くバイトしてるんだよ。で、仕事が終わった後、やった。すごく……楽しくて。えっと……」
和寿が、言葉に詰まった。由紀が和寿にきつい目をして、
「なに、それ。よくわからないんだけど」
「オレもわからない。何でこんなにワタルと一緒にやりたいのか。でもさ……」
「嫌だって言ったらどうするのよ」
由紀が和寿の左腕を揺さぶりながら、強い口調で言った。左腕は、バイオリンを弾く人にとって、より大事な腕なのでは? あまり揺さぶらない方がいいのではないか、と思ったが、口にはしなかった。緊迫しており、よけいなことを言える、そんな雰囲気ではない。
「嫌だって言ったら……」
繰り返す由紀に、和寿は頭を下げた。
「ごめん。何回でもあやまる。だけど、オレはワタルとやっていきたい」
「何でその人なのよ。私の何がそんなにいけないのか、言ってよ」
「ごめん」
繰り返す和寿。泣きながら訴える由紀。ワタルは、ただ二人を見ていることしか出来なかった。
「あの、油利木くん。友達が待ってるみたいですけど。早く戻った方がいいのでは?」
思い切ってそう言ってみたが、和寿はあまり気にしている様子はなく、
「いいじゃん。それよりさ、今日仕事? またワタルのピアノ、聞きたいんだけど」
「えっと。今日は仕事です。来てくれるなら、何か希望の曲を弾きましょうか」
和寿は、ワタルの質問には答えず、
「いつまで敬語使うんだよ。それと、オレのこと、名前で呼べ。もう、名字で呼んでも返事しないからな」
急に何を言い出すんだろう。ワタルは、あまり砕けた話し方が得意ではない。名前の呼び捨てもあまりしたことがない。
「それは、たぶん無理です。油利木くんでいいじゃないですか」
「オレ、返事しないって言ったぞ。今から実行します」
和寿がワタルをじっと見る。呼んでほしいとの期待が込められた目をしていた。ワタルはあえて、「油利木くん」と呼んでみたが、予告していた通り返事をしない。さらに何回か呼んでみたが、やはり返事をしない。ワタルは息を吐き出すと、意を決して、
「和寿」
彼は笑顔になり、
「やっぱり名前で呼ばれる方がいいな。あとは、敬語をやめてくれたらいいんだけど」
「だから、それは難しいって言ってるんですけど」
「じゃあ、徐々に」
譲歩した。ワタルは頷き、
「あ、はい。努力します」
「よし。約束だぞ」
「はい」
和寿が笑い出したのにつられて、ワタルも笑った。少し距離が近づいたような気がして、嬉しかった。
その時、「和寿」と呼ぶ女性の声がした。二人でそちらを見た。和寿は複雑な表情になりながらも、その人に手を振った。
「あの人が、オレの彼女」
伴奏をしてくれているという、彼女。そういえば、何かの講義の時に見かけたことがある。ほっそりとした体形。涼やかな目元。黒くて長い髪。美人系の人だ。
彼女は和寿の傍らに立つと、ワタルに視線をよこした。ワタルは彼女に向かい、頭を下げた。和寿は彼女に目を向け、
「由紀。吉隅ワタルくん。由紀と同じ、ピアノ科」
「見かけたことはある。南由紀です。よろしくね」
よろしくね、とは言ってくれているが、目は笑っていない。
「あ、はい。よろしくお願いします」
空気が少し重い。和寿の顔つきも微妙なままだ。彼は隣に立つ由紀の目をとらえながら、「あのさ……」と切り出した。
「由紀。今まで伴奏やってくれてありがとう。でも……、ごめん。今日で終わりにしてくれ」
あの時、今日だけ、という約束をしたはずなのに、何を言い出すんだろう。
ワタルは、和寿の発言に鼓動が速くなっていた。
「このまえ、ファルファッラでワタルと一緒に演奏してさ。あ。ワタル、あそこでピアノ弾くバイトしてるんだよ。で、仕事が終わった後、やった。すごく……楽しくて。えっと……」
和寿が、言葉に詰まった。由紀が和寿にきつい目をして、
「なに、それ。よくわからないんだけど」
「オレもわからない。何でこんなにワタルと一緒にやりたいのか。でもさ……」
「嫌だって言ったらどうするのよ」
由紀が和寿の左腕を揺さぶりながら、強い口調で言った。左腕は、バイオリンを弾く人にとって、より大事な腕なのでは? あまり揺さぶらない方がいいのではないか、と思ったが、口にはしなかった。緊迫しており、よけいなことを言える、そんな雰囲気ではない。
「嫌だって言ったら……」
繰り返す由紀に、和寿は頭を下げた。
「ごめん。何回でもあやまる。だけど、オレはワタルとやっていきたい」
「何でその人なのよ。私の何がそんなにいけないのか、言ってよ」
「ごめん」
繰り返す和寿。泣きながら訴える由紀。ワタルは、ただ二人を見ていることしか出来なかった。
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