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氷晶華繚乱篇
漆黒の人形
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その異様な姿は、紫色に広がる背景と相まって、いっそう不気味に見えた。リリィ=百合香とエレクトラ、それぞれと寸分たがわぬ姿をもち、しかし全身は黒曜石のように黒い煌めきをたたえた、漆黒のクローン。それが、紫色に光る瞳を、それぞれの分身に向けていた。
「なんなの、こいつら」
どう見ても味方には見えない相手に、百合香は本能的に剣を向けた。隣のエレクトラも同様だったが、一歩踏み出そうとした百合香をエレクトラは制した。
「落ち着け。こいつらは普通じゃない」
「氷巌城に、普通なんてないわよ。あなたも含めてね」
百合香の皮肉にエレクトラは不敵な笑みを浮かべたものの、眼前の漆黒の自分自身への警戒はそのままだった。百合香は突撃態勢をとる。
「さっさと叩き斬る。それが正解よ」
「落ち着け、と言っている。なぜ、こいつらは何も仕掛けてこないんだ」
エレクトラの冷静な観察に、百合香はハッとさせられた。そういえばそうだ。明らかに敵対する存在に見えるものの、斬りかかってくる様子がない。
「本物を目の前にして、怯んでるって事でしょ!」
しびれを切らした百合香は、エレクトラの制止も無視して”黒い百合香”に躍りかかる。エレクトラは舌打ちした。
「馬鹿が!」
エレクトラは動かない。剣は構えたまま、百合香と黒い百合香の様子を観察していた。
「でやぁーっ!」
大上段から百合香は斬りかかる。風圧を伴った重い一撃が、黒く煌めくもう一人の百合香に真っ正面から襲いかかった。
だが、茫漠たる空間に響いた音に、エレクトラは唸った。
「なにっ!」
黒い百合香は、百合香の剣をまともに受け止め、まったく動じなかった。つい先刻、百合香の剣を受け止めた時に、氷巌城上級幹部の水晶騎士にも匹敵するか、下手をすると上回る一撃に、エレクトラは戦慄を覚えたのだ。
「くっ…!」
驚愕したのは百合香本人も無論だった。おのれと全く変わらない敵に、百合香は恐怖よりも薄気味悪さを覚えた。
「このっ!」
とっさに一歩退いて、あらためて剣にエネルギーを込める。大股に踏み込むと、百合香は渾身の一撃を放った。
「ディヴァイン・プロミネンス!」
そのとき、百合香は何かとてつもない違和感を覚えた。そしてその違和感の正体がわかった。
「えっ!?」
いつもなら、剣から灼熱の炎が吹き出して相手を捉えるはずだった。だが、白銀と化した聖剣アグニシオンからは、火の粉ひとつ散るでもなかった。剣は先程と同じように、まったく同じ力で受け止められた。
「どっ、どういうこと…」
おかしい、と百合香は相手を睨みながら困惑した。そこでふと思い出した。そういえば、今の氷魔と区別がつかない姿になって以降、あの技を放った事は、なかったのではないか。
今の状況ももちろんだが、自らに起きた変化について、深く考えていなかったのではないか。この、真っ白な百合香は、以前の黄金の鎧をまとっていた百合香とは、何かが異なるのだ。それは、自分の動きが鈍いと感じた事と、無関係である筈がない。
そこで百合香は、その様子を黙って見ているエレクトラに気付いて悪態をついた。
「見てないで、あんたも戦いなさいよ!」
「何を勘違いしている。お前と私が敵どうしだという事実に変わりはない。せっかくだ、私はお前の戦いを観察して、この得体の知れない奴らへの対処法を分析させてもらう。せいぜい私のために働いてもらおう」
その、誤魔化す気が一切ない態度に百合香は憤慨した。
「覚えてなさい!」
「知らんな」
「この!」
百合香はエレクトラへの怒りをぶつけるように、剣を振り上げた。だが、一度完璧に受け止められた剣をまた振り下ろしても、同じ結果に終わるのではないか。だが百合香は、そこでようやく気付いた事があった。
「こいつ、私が動かない限りは決して動いて来ない」
百合香は横目に、エレクトラと対峙する黒いエレクトラを見た。向こうもまったく動く気配がない。
「このまま放っておけば、害にはならないって事なのかな」
百合香の疑問に、エレクトラは剣を握ったまま無言だった。すぐに首肯はしかねるが、あながち間違ってはいないかも知れない、といった様子だ。
だが、エレクトラはふと足もとに目をやると、百合香に向かって言った。
「…違うぞ、リリィ」
それは明らかに警戒をともなう声色だった。
「この足もと漂っている、紫色に光る霧。これは、ただの霧ではなかったようだ」
「なんですって」
「お前の足もとを見ろ」
百合香は、前方の黒い百合香に注意しつつ、ゆっくりと自分の足もとを見た。そして、それを見たとき百合香は背筋に戦慄が走った。
「あっ!」
百合香は自身の脚、いや全身から、紫色を基調としたプリズム状のエネルギーが、間断なく紫の霧に流れ出ている事に気付いた。それだけではない。そのエネルギーは、霧を通じてもう一人の自分に吸い込まれて行くのがわかった。
そしてそれは、エレクトラも同様だった。エレクトラは、険しい表情で眼の前の黒い自分自身を睨む。
「リリィ、ひょっとしてお前には既視感がある光景なんじゃないのか」
「えっ?」
「お前が言った、礼拝堂の聖母像とかいうやつだ」
「あっ!」
百合香は、自分の観察力のなさを呪った。そう、それはあの礼拝堂の聖母像が、百合香やヒオウギのエネルギーを吸収する光景と酷似、というより同一だった。
「おっ、同じだ…あれと」
「つまり、どうなるんだ」
「わからない…うっ!?」
百合香は、自らに起きた異変に気付いた。左胸にわずかに痛みが走ったかと思うと、今度は全身の感覚がわずかに弱まるのを感じ、大きくふらついてしまう。
「なるほど、そういうことか」
態勢を立て直す百合香を横目に、エレクトラはもう一人の自分を睨む。
「こいつらは、私達の存在を吸い取っているんだ」
「存在、ですって」
「そうだ。思い出してみろ。私達が手合わせしたのと前後して、こいつらが現れた」
エレクトラは、日本刀のように湾曲した剣の切っ先を眼の前の複製に向けた。黒く煌めく複製もまた、同じくエレクトラに刃を向ける。百合香は、エレクトラの推測を受けて自分でも推測を立てた。
「私達がさっきエネルギーを発散した時に、こいつらは私達をコピーしたということ?」
「推測にすぎんが、おそらく当たっているだろうな」
「でも、なぜ?何のために?」
「知るか」
エレクトラは、鋭い視線を百合香に投げた。
「リリィ。お前は単独で私より大きく動いた。その結果、その黒いリリィにエネルギーを吸い取られた。仮に同じ強さを持った者どうしの、片方が疲労し、片方がエネルギーを吸収したとすれば、どうなる」
「…まさか」
「そうだ。こいつらが私達よりも有利になる。戦えば戦うほど、徐々にこいつらが有利になっていく」
つまり、いずれどこかの時点で決定的に彼我の差がつく。そうなれば、答えは明白だった。
「…力を失った方が負ける」
百合香の答えに、エレクトラは無言で頷いた。間違いない。この相手は、その時を待っているのだ。やがて、向こうが百合香達の全てを奪い取り、オリジナルに取って代わるつもりなのか、そこまではわからない。意図は不明だが、黙っていてもエネルギーを吸われるのは明白だった。
「どうする?」
「試したい事がある」
エレクトラは、ゆっくりとひとつの方向を指差した。百合香も一瞬考えてから、すぐにその意図を理解して頷く。
「いいわ」
「お前に合わせる」
「ええ。いち、にの…」
百合香とエレクトラは、膝に力を入れて互いのタイミングを計った。
「さん!」
二人は、猛然とその場をダッシュで駆け出した。百合香は、エレクトラの捷さに驚愕し、なおかつ自分の脚の遅さに愕然とした。
常人の人間からすれば、氷巌城で覚醒した百合香の速度には、オリンピックの選手も遥かに及ばない。だが、あの黄金の鎧をまとっていた時に比べると、いまの百合香は明らかに遅いのだった。
この緊急時に、百合香は今さら理解した。今の白い姿になったことで、パワーは格段に上がったものの、スピードは後退してしまったのだ。
「そんなものか!リベルタの方がまだ素早いな!」
そう嘲りながら追い抜いていくエレクトラの表情は、なぜか楽しそうに見えた。百合香は謎の相手の存在も忘れ、エレクトラを必死に追う。
こんなふうに全力で走ったのは、いつ以来だろう。そうだ、あの地底湖で、転がってくる巨大カタツムリの殻に追われた時だ。
何百メートル走ったかわからないが、エレクトラが立ち止まったのを見て、百合香
もわずかに遅れて膝をついた。その様子を見て、エレクトラは鼻で笑う。
「ふっ、そんなざまで城に楯突こうというのか。レジスタンスが聞いて呆れる」
「うっ、うるさい」
「お望みなら、この場でその首を叩き斬ってやってもいいんだぞ。疲れただろう」
エレクトラはわざとらしく剣を抜き放つと、百合香の鼻先に剣を突き付けた。百合香は怯みもせずに睨み返す。
「やるっていうなら、改めて相手になるわよ。ここまで散々な目に遭ってきたもの、今さらそんな虚仮おどしに怯んでいられないわ」
「惜しいな」
エレクトラは、わずかに切っ先を下げて苦い笑みを浮かべた。
「お前のような奴が、私の配下であればな。どうだ、先の見えぬレジスタンスなどに身を投じないで、我が主に仕えてみぬか」
「あなたの主?」
百合香は黙り込むと、拳を握りしめて立ち上がり、エレクトラの襟首を掴むと、噛み付かんばかりに凄んだ。
「ふざけないで!あなた達のおかげで、私の世界はめちゃくちゃになってしまった!それを、配下になれですって!?死んでもごめんだわ!」
突然の激昂に、エレクトラは驚きと困惑の両方を感じているようだった。まばたきをしつつ、百合香の目を覗き込む。
「――リリィ、お前…いったい何者だ」
それは、百合香の最大級の迂闊さだったかも知れない。ぎりぎりのところで、人間であるという正体こそ明言しなかったものの。
だが、エレクトラがそれ以上の追求をする事はなかった。
「リリィ、手をどけろ」
「今さらびびってるの?こっちは死に目を見ながらここまでやって来た。いいわ、決着をつけるというなら――」
「そんなものは、後でいくらでもつけてやる」
エレクトラの視線が百合香の後方に向けられている事に、百合香もようやく気付いた。エレクトラの襟首を締め上げる手を離し、ゆっくりと振り返る。すると、そこには全速力で置き去りにしてきたはずの、漆黒のクローンが不気味に立ち尽くしていた。
「うっ、嘘」
「嘘でも何でもない」
エレクトラは、いつの間にか音もなく移動してきた自らの複製を睨んだ。
「どうやら、こいつらに通常の物理法則は関係ないらしいな」
「もう、倒す以外にない。全力で叩き斬る」
百合香は聖剣アグニシオンを抜き放ち、漆黒の髪をなびかせる自分自身に刃を向けた。
「だが、また同じように受け止められたらどうする」
「知らないわよ!」
百合香は高く跳躍すると、全力で剣を振り下ろした。
「ゴッデス・エンフォースメント!」
暗闇をも揺るがす重力の刃が、複製に襲いかかる。だが、複製の百合香もまた、まったく同じように、漆黒のアグニシオンを百合香めがけて斬り上げてきた。暗黒の重力波が、空中で激突する。百合香はわずかに押し負けてしまった。
「うわあーっ!」
ダメージこそ軽微であったものの、跳躍したことが仇になった。足場のない百合香は、弾き飛ばされてそのまま地面に叩きつけられてしまう。
「馬鹿が!」
悪態をつきながらエレクトラはその隙に、漆黒の百合香に向かって剣から衝撃波を放った。百合香と対峙していたため、側面の胴はガラ空きだった。だが、エレクトラの放った技は、何かに阻まれてしまう。
「なに!」
エレクトラは瞬時に身構える。衝撃波をまったく同じ力で受け止めたのは、エレクトラの複製の黒い剣士だった。
「どういうことだ」
エレクトラは困惑した。まったく意志らしいものを持たないように視える黒曜石の人形達にも、仲間をかばう意識があったというのか。
「どけ!」
やむを得ず、エレクトラはそのまま自らの複製に斬りかかる。だが、自分自身と互角の速さで閃く黒い剣が、エレクトラの白刃を完全に受け止めた。エレクトラは唸る。
「薄気味の悪い!己と対峙するのが、これほど不快なものだとはな」
紫の瞳を輝かせる不気味な相手は、まるで感情らしきものが見えない様子で、ただ無言でエレクトラの剣を受け止めていた。積極的にエレクトラを攻撃するでもなく、しかしエレクトラが動けば、互角の剣でそれを受け止める。いい加減うんざりした様子で、エレクトラは後方に飛び退った。その後ろで、よろよろと百合香が立ち上がる。
「どうやら、あなたでも自分自身には勝てないようね」
「ほざけ。自分のざまを見て言うんだな」
まったく生産性のない会話だった。どちらも、自分のコピーに打ち勝つ方法が見当たらない。現に、百合香の最大の技も同じように返されたのだ。決して自分からは打って来ないのに、確実にこちらが敗北に追い込まれつつある。それは、百合香がこれまで闘ってきた、どんな相手とも異質な恐怖だった。
「いったい、どうやって倒せばいいっていうの」
「さあな。打てば返され、逃げれば追ってくる。自分に勝つ事ができんとは」
エレクトラは、自嘲気味に唇をゆがめた。
「自分の持っている技は、どうやら全て把握されているらしい。そうなったら、もうお手上げだ」
「あんがい諦めが早いのね。それでよく、城を守れるつもりでいたものだわ」
「じゃあ、どうする!それともお前は、自分に打ち勝つ方法があるとでも言うのか!」
初めて、エレクトラが激昂するのを見た百合香は、他にどうしようもなく苦笑した。エレクトラの言うとおりだ。自身の最大の剣を弾かれた今、百合香にできる事があるのか。
だがそのとき、百合香にひとつの閃きがあった。
「…ちょっと待って」
百合香は、手元のアグニシオンを見つめて考えた。
「こいつらはそもそも、”どの時点”の私たちを複製したのかしら」
「…なに?」
怪訝そうにエレクトラは百合香を振り向く。
「そんなの、わかるか。…まあ、ふつうに考えるなら、この奇妙な世界に取り込まれた瞬間に、という事なのかも知れんが。だったら何だというんだ」
「…だったら」
百合香はアグニシオンを構えて。にじり寄るように慎重に歩を進めた。
「おい」
エレクトラは、制止するでもなく百合香の様子を見守る。だが百合香の手からは、突然アグニシオンが消え去ってしまった。いきなり武器を納めた百合香の行動に、いよいよエレクトラが声を上げる。
「何をしている!」
「教えてあげない」
「ふざけているのか!」
そうしている間にも、間断なく二人のエネルギーは、紫の霧を通じて相手に吸収されていった。エレクトラにも焦りの色が浮かぶ。百合香は、右手を左腰のあたりに、まるで剣を手にしているような姿勢で、自らの複製に接近した。
もう、相手のリーチに入っている。もし向こうが今剣を振るえば、丸腰の百合香は即座に首を切り落とされるだろう。だが、複製は決して、自分から動こうとはしなかった。
「行くわよ!」
百合香の掛け声は、自分自身に向けられていた。次の瞬間、百合香の手には一瞬で聖剣アグニシオンが現れる。だが、まだ剣が完全に顕現していない状態で、すでに百合香は右斜め上方向に剣を斬り上げていた。その、剣が完全に形を成すギリギリのタイミングを、百合香は測っていたのだ。
息をのむエレクトラの眼前で、驚くべきことが起きた。それまで、ただの一度も剣を浴びせられなかった漆黒のクローンの胴体に、百合香の剣が決まったのだ。
「なんだと!」
エレクトラが驚く暇もなく、百合香は斬り上げた剣を袈裟がけに振り下ろす。肩から大きく胴体にダメージが入ると、さらに剣を水平に薙ぎ払う。次の瞬間、黒い百合香の首は宙を舞い、艶やかな黒髪を流水のようになびかせながら、鈍い音を立てて地面に落ちた。首から下の本体は、糸の切れた人形のように、紫の霧の中に崩れ落ち消え去ってしまう。
「…どういうことだ」
「敵のあなたに教えてやる義理はないわね」
百合香は、わざとらしく勝ち誇ってみせた。
「貴様!」
本当に悔しそうな様子で、エレクトラは吐き捨てた。だが、すぐに冷静さを取り戻すと、自らも剣を構える。そこへ、百合香が付け加えた。
「まあ気に食わないけど、あなたにヒントをもらった以上は、教えないのはフェアじゃないわね」
「…なんだと」
「ええ。ヒントはあなたが言った言葉の中にある。教えてあげてもいいけど、あなたプライド高いでしょ。3分だけ待ってあげる。それでわからなかったら、教える事にするわ」
まるで小馬鹿にしているような百合香の口ぶりに、エレクトラは唇の端をゆがめた。
「なんなの、こいつら」
どう見ても味方には見えない相手に、百合香は本能的に剣を向けた。隣のエレクトラも同様だったが、一歩踏み出そうとした百合香をエレクトラは制した。
「落ち着け。こいつらは普通じゃない」
「氷巌城に、普通なんてないわよ。あなたも含めてね」
百合香の皮肉にエレクトラは不敵な笑みを浮かべたものの、眼前の漆黒の自分自身への警戒はそのままだった。百合香は突撃態勢をとる。
「さっさと叩き斬る。それが正解よ」
「落ち着け、と言っている。なぜ、こいつらは何も仕掛けてこないんだ」
エレクトラの冷静な観察に、百合香はハッとさせられた。そういえばそうだ。明らかに敵対する存在に見えるものの、斬りかかってくる様子がない。
「本物を目の前にして、怯んでるって事でしょ!」
しびれを切らした百合香は、エレクトラの制止も無視して”黒い百合香”に躍りかかる。エレクトラは舌打ちした。
「馬鹿が!」
エレクトラは動かない。剣は構えたまま、百合香と黒い百合香の様子を観察していた。
「でやぁーっ!」
大上段から百合香は斬りかかる。風圧を伴った重い一撃が、黒く煌めくもう一人の百合香に真っ正面から襲いかかった。
だが、茫漠たる空間に響いた音に、エレクトラは唸った。
「なにっ!」
黒い百合香は、百合香の剣をまともに受け止め、まったく動じなかった。つい先刻、百合香の剣を受け止めた時に、氷巌城上級幹部の水晶騎士にも匹敵するか、下手をすると上回る一撃に、エレクトラは戦慄を覚えたのだ。
「くっ…!」
驚愕したのは百合香本人も無論だった。おのれと全く変わらない敵に、百合香は恐怖よりも薄気味悪さを覚えた。
「このっ!」
とっさに一歩退いて、あらためて剣にエネルギーを込める。大股に踏み込むと、百合香は渾身の一撃を放った。
「ディヴァイン・プロミネンス!」
そのとき、百合香は何かとてつもない違和感を覚えた。そしてその違和感の正体がわかった。
「えっ!?」
いつもなら、剣から灼熱の炎が吹き出して相手を捉えるはずだった。だが、白銀と化した聖剣アグニシオンからは、火の粉ひとつ散るでもなかった。剣は先程と同じように、まったく同じ力で受け止められた。
「どっ、どういうこと…」
おかしい、と百合香は相手を睨みながら困惑した。そこでふと思い出した。そういえば、今の氷魔と区別がつかない姿になって以降、あの技を放った事は、なかったのではないか。
今の状況ももちろんだが、自らに起きた変化について、深く考えていなかったのではないか。この、真っ白な百合香は、以前の黄金の鎧をまとっていた百合香とは、何かが異なるのだ。それは、自分の動きが鈍いと感じた事と、無関係である筈がない。
そこで百合香は、その様子を黙って見ているエレクトラに気付いて悪態をついた。
「見てないで、あんたも戦いなさいよ!」
「何を勘違いしている。お前と私が敵どうしだという事実に変わりはない。せっかくだ、私はお前の戦いを観察して、この得体の知れない奴らへの対処法を分析させてもらう。せいぜい私のために働いてもらおう」
その、誤魔化す気が一切ない態度に百合香は憤慨した。
「覚えてなさい!」
「知らんな」
「この!」
百合香はエレクトラへの怒りをぶつけるように、剣を振り上げた。だが、一度完璧に受け止められた剣をまた振り下ろしても、同じ結果に終わるのではないか。だが百合香は、そこでようやく気付いた事があった。
「こいつ、私が動かない限りは決して動いて来ない」
百合香は横目に、エレクトラと対峙する黒いエレクトラを見た。向こうもまったく動く気配がない。
「このまま放っておけば、害にはならないって事なのかな」
百合香の疑問に、エレクトラは剣を握ったまま無言だった。すぐに首肯はしかねるが、あながち間違ってはいないかも知れない、といった様子だ。
だが、エレクトラはふと足もとに目をやると、百合香に向かって言った。
「…違うぞ、リリィ」
それは明らかに警戒をともなう声色だった。
「この足もと漂っている、紫色に光る霧。これは、ただの霧ではなかったようだ」
「なんですって」
「お前の足もとを見ろ」
百合香は、前方の黒い百合香に注意しつつ、ゆっくりと自分の足もとを見た。そして、それを見たとき百合香は背筋に戦慄が走った。
「あっ!」
百合香は自身の脚、いや全身から、紫色を基調としたプリズム状のエネルギーが、間断なく紫の霧に流れ出ている事に気付いた。それだけではない。そのエネルギーは、霧を通じてもう一人の自分に吸い込まれて行くのがわかった。
そしてそれは、エレクトラも同様だった。エレクトラは、険しい表情で眼の前の黒い自分自身を睨む。
「リリィ、ひょっとしてお前には既視感がある光景なんじゃないのか」
「えっ?」
「お前が言った、礼拝堂の聖母像とかいうやつだ」
「あっ!」
百合香は、自分の観察力のなさを呪った。そう、それはあの礼拝堂の聖母像が、百合香やヒオウギのエネルギーを吸収する光景と酷似、というより同一だった。
「おっ、同じだ…あれと」
「つまり、どうなるんだ」
「わからない…うっ!?」
百合香は、自らに起きた異変に気付いた。左胸にわずかに痛みが走ったかと思うと、今度は全身の感覚がわずかに弱まるのを感じ、大きくふらついてしまう。
「なるほど、そういうことか」
態勢を立て直す百合香を横目に、エレクトラはもう一人の自分を睨む。
「こいつらは、私達の存在を吸い取っているんだ」
「存在、ですって」
「そうだ。思い出してみろ。私達が手合わせしたのと前後して、こいつらが現れた」
エレクトラは、日本刀のように湾曲した剣の切っ先を眼の前の複製に向けた。黒く煌めく複製もまた、同じくエレクトラに刃を向ける。百合香は、エレクトラの推測を受けて自分でも推測を立てた。
「私達がさっきエネルギーを発散した時に、こいつらは私達をコピーしたということ?」
「推測にすぎんが、おそらく当たっているだろうな」
「でも、なぜ?何のために?」
「知るか」
エレクトラは、鋭い視線を百合香に投げた。
「リリィ。お前は単独で私より大きく動いた。その結果、その黒いリリィにエネルギーを吸い取られた。仮に同じ強さを持った者どうしの、片方が疲労し、片方がエネルギーを吸収したとすれば、どうなる」
「…まさか」
「そうだ。こいつらが私達よりも有利になる。戦えば戦うほど、徐々にこいつらが有利になっていく」
つまり、いずれどこかの時点で決定的に彼我の差がつく。そうなれば、答えは明白だった。
「…力を失った方が負ける」
百合香の答えに、エレクトラは無言で頷いた。間違いない。この相手は、その時を待っているのだ。やがて、向こうが百合香達の全てを奪い取り、オリジナルに取って代わるつもりなのか、そこまではわからない。意図は不明だが、黙っていてもエネルギーを吸われるのは明白だった。
「どうする?」
「試したい事がある」
エレクトラは、ゆっくりとひとつの方向を指差した。百合香も一瞬考えてから、すぐにその意図を理解して頷く。
「いいわ」
「お前に合わせる」
「ええ。いち、にの…」
百合香とエレクトラは、膝に力を入れて互いのタイミングを計った。
「さん!」
二人は、猛然とその場をダッシュで駆け出した。百合香は、エレクトラの捷さに驚愕し、なおかつ自分の脚の遅さに愕然とした。
常人の人間からすれば、氷巌城で覚醒した百合香の速度には、オリンピックの選手も遥かに及ばない。だが、あの黄金の鎧をまとっていた時に比べると、いまの百合香は明らかに遅いのだった。
この緊急時に、百合香は今さら理解した。今の白い姿になったことで、パワーは格段に上がったものの、スピードは後退してしまったのだ。
「そんなものか!リベルタの方がまだ素早いな!」
そう嘲りながら追い抜いていくエレクトラの表情は、なぜか楽しそうに見えた。百合香は謎の相手の存在も忘れ、エレクトラを必死に追う。
こんなふうに全力で走ったのは、いつ以来だろう。そうだ、あの地底湖で、転がってくる巨大カタツムリの殻に追われた時だ。
何百メートル走ったかわからないが、エレクトラが立ち止まったのを見て、百合香
もわずかに遅れて膝をついた。その様子を見て、エレクトラは鼻で笑う。
「ふっ、そんなざまで城に楯突こうというのか。レジスタンスが聞いて呆れる」
「うっ、うるさい」
「お望みなら、この場でその首を叩き斬ってやってもいいんだぞ。疲れただろう」
エレクトラはわざとらしく剣を抜き放つと、百合香の鼻先に剣を突き付けた。百合香は怯みもせずに睨み返す。
「やるっていうなら、改めて相手になるわよ。ここまで散々な目に遭ってきたもの、今さらそんな虚仮おどしに怯んでいられないわ」
「惜しいな」
エレクトラは、わずかに切っ先を下げて苦い笑みを浮かべた。
「お前のような奴が、私の配下であればな。どうだ、先の見えぬレジスタンスなどに身を投じないで、我が主に仕えてみぬか」
「あなたの主?」
百合香は黙り込むと、拳を握りしめて立ち上がり、エレクトラの襟首を掴むと、噛み付かんばかりに凄んだ。
「ふざけないで!あなた達のおかげで、私の世界はめちゃくちゃになってしまった!それを、配下になれですって!?死んでもごめんだわ!」
突然の激昂に、エレクトラは驚きと困惑の両方を感じているようだった。まばたきをしつつ、百合香の目を覗き込む。
「――リリィ、お前…いったい何者だ」
それは、百合香の最大級の迂闊さだったかも知れない。ぎりぎりのところで、人間であるという正体こそ明言しなかったものの。
だが、エレクトラがそれ以上の追求をする事はなかった。
「リリィ、手をどけろ」
「今さらびびってるの?こっちは死に目を見ながらここまでやって来た。いいわ、決着をつけるというなら――」
「そんなものは、後でいくらでもつけてやる」
エレクトラの視線が百合香の後方に向けられている事に、百合香もようやく気付いた。エレクトラの襟首を締め上げる手を離し、ゆっくりと振り返る。すると、そこには全速力で置き去りにしてきたはずの、漆黒のクローンが不気味に立ち尽くしていた。
「うっ、嘘」
「嘘でも何でもない」
エレクトラは、いつの間にか音もなく移動してきた自らの複製を睨んだ。
「どうやら、こいつらに通常の物理法則は関係ないらしいな」
「もう、倒す以外にない。全力で叩き斬る」
百合香は聖剣アグニシオンを抜き放ち、漆黒の髪をなびかせる自分自身に刃を向けた。
「だが、また同じように受け止められたらどうする」
「知らないわよ!」
百合香は高く跳躍すると、全力で剣を振り下ろした。
「ゴッデス・エンフォースメント!」
暗闇をも揺るがす重力の刃が、複製に襲いかかる。だが、複製の百合香もまた、まったく同じように、漆黒のアグニシオンを百合香めがけて斬り上げてきた。暗黒の重力波が、空中で激突する。百合香はわずかに押し負けてしまった。
「うわあーっ!」
ダメージこそ軽微であったものの、跳躍したことが仇になった。足場のない百合香は、弾き飛ばされてそのまま地面に叩きつけられてしまう。
「馬鹿が!」
悪態をつきながらエレクトラはその隙に、漆黒の百合香に向かって剣から衝撃波を放った。百合香と対峙していたため、側面の胴はガラ空きだった。だが、エレクトラの放った技は、何かに阻まれてしまう。
「なに!」
エレクトラは瞬時に身構える。衝撃波をまったく同じ力で受け止めたのは、エレクトラの複製の黒い剣士だった。
「どういうことだ」
エレクトラは困惑した。まったく意志らしいものを持たないように視える黒曜石の人形達にも、仲間をかばう意識があったというのか。
「どけ!」
やむを得ず、エレクトラはそのまま自らの複製に斬りかかる。だが、自分自身と互角の速さで閃く黒い剣が、エレクトラの白刃を完全に受け止めた。エレクトラは唸る。
「薄気味の悪い!己と対峙するのが、これほど不快なものだとはな」
紫の瞳を輝かせる不気味な相手は、まるで感情らしきものが見えない様子で、ただ無言でエレクトラの剣を受け止めていた。積極的にエレクトラを攻撃するでもなく、しかしエレクトラが動けば、互角の剣でそれを受け止める。いい加減うんざりした様子で、エレクトラは後方に飛び退った。その後ろで、よろよろと百合香が立ち上がる。
「どうやら、あなたでも自分自身には勝てないようね」
「ほざけ。自分のざまを見て言うんだな」
まったく生産性のない会話だった。どちらも、自分のコピーに打ち勝つ方法が見当たらない。現に、百合香の最大の技も同じように返されたのだ。決して自分からは打って来ないのに、確実にこちらが敗北に追い込まれつつある。それは、百合香がこれまで闘ってきた、どんな相手とも異質な恐怖だった。
「いったい、どうやって倒せばいいっていうの」
「さあな。打てば返され、逃げれば追ってくる。自分に勝つ事ができんとは」
エレクトラは、自嘲気味に唇をゆがめた。
「自分の持っている技は、どうやら全て把握されているらしい。そうなったら、もうお手上げだ」
「あんがい諦めが早いのね。それでよく、城を守れるつもりでいたものだわ」
「じゃあ、どうする!それともお前は、自分に打ち勝つ方法があるとでも言うのか!」
初めて、エレクトラが激昂するのを見た百合香は、他にどうしようもなく苦笑した。エレクトラの言うとおりだ。自身の最大の剣を弾かれた今、百合香にできる事があるのか。
だがそのとき、百合香にひとつの閃きがあった。
「…ちょっと待って」
百合香は、手元のアグニシオンを見つめて考えた。
「こいつらはそもそも、”どの時点”の私たちを複製したのかしら」
「…なに?」
怪訝そうにエレクトラは百合香を振り向く。
「そんなの、わかるか。…まあ、ふつうに考えるなら、この奇妙な世界に取り込まれた瞬間に、という事なのかも知れんが。だったら何だというんだ」
「…だったら」
百合香はアグニシオンを構えて。にじり寄るように慎重に歩を進めた。
「おい」
エレクトラは、制止するでもなく百合香の様子を見守る。だが百合香の手からは、突然アグニシオンが消え去ってしまった。いきなり武器を納めた百合香の行動に、いよいよエレクトラが声を上げる。
「何をしている!」
「教えてあげない」
「ふざけているのか!」
そうしている間にも、間断なく二人のエネルギーは、紫の霧を通じて相手に吸収されていった。エレクトラにも焦りの色が浮かぶ。百合香は、右手を左腰のあたりに、まるで剣を手にしているような姿勢で、自らの複製に接近した。
もう、相手のリーチに入っている。もし向こうが今剣を振るえば、丸腰の百合香は即座に首を切り落とされるだろう。だが、複製は決して、自分から動こうとはしなかった。
「行くわよ!」
百合香の掛け声は、自分自身に向けられていた。次の瞬間、百合香の手には一瞬で聖剣アグニシオンが現れる。だが、まだ剣が完全に顕現していない状態で、すでに百合香は右斜め上方向に剣を斬り上げていた。その、剣が完全に形を成すギリギリのタイミングを、百合香は測っていたのだ。
息をのむエレクトラの眼前で、驚くべきことが起きた。それまで、ただの一度も剣を浴びせられなかった漆黒のクローンの胴体に、百合香の剣が決まったのだ。
「なんだと!」
エレクトラが驚く暇もなく、百合香は斬り上げた剣を袈裟がけに振り下ろす。肩から大きく胴体にダメージが入ると、さらに剣を水平に薙ぎ払う。次の瞬間、黒い百合香の首は宙を舞い、艶やかな黒髪を流水のようになびかせながら、鈍い音を立てて地面に落ちた。首から下の本体は、糸の切れた人形のように、紫の霧の中に崩れ落ち消え去ってしまう。
「…どういうことだ」
「敵のあなたに教えてやる義理はないわね」
百合香は、わざとらしく勝ち誇ってみせた。
「貴様!」
本当に悔しそうな様子で、エレクトラは吐き捨てた。だが、すぐに冷静さを取り戻すと、自らも剣を構える。そこへ、百合香が付け加えた。
「まあ気に食わないけど、あなたにヒントをもらった以上は、教えないのはフェアじゃないわね」
「…なんだと」
「ええ。ヒントはあなたが言った言葉の中にある。教えてあげてもいいけど、あなたプライド高いでしょ。3分だけ待ってあげる。それでわからなかったら、教える事にするわ」
まるで小馬鹿にしているような百合香の口ぶりに、エレクトラは唇の端をゆがめた。
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