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氷巌城突入篇
極光
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謎の凍結事件が起きた学園の聖堂前の現場にはその後、警察や消防などの人達が呼ばれて、何日かは物々しい雰囲気だった。白衣を着た、研究員みたいな人達の姿も見えた。
しかし人間というのは、どんな大事件も日常生活の中では、忘れないまでも関心は維持できないものである。
「百合香、デザインの課題終わった?」
登校した朝、教室に入って来るなり吉沢さんは百合香の所へやって来た。
「うん。もう提出した」
百合香は答える。
「うげー、さすが才媛だわ」
「その呼び方やめてくれる」
眉間にシワを寄せて百合香は言った。自分より学業の成績がいい生徒は何人もいる。どうにか優秀グループに属してはいるらしいが、べつにトップではない。
百合香がガドリエル女学園の普通科、キャリア・アスリートコースを選んだのは、小学校から続けてきたバスケットボールのためだった。ガドリエルは強豪の一角であり、かつてはオリンピック出場を果たした選手も輩出している。
中学ではチーム全体がやや弱かったせいで実力に見合う結果を出せなかったが、江藤百合香という少女の実力は教育の体育系界隈ではそこそこ知られていた。
入学して、予定調和のようにバスケットボール部の入部届にサインをすると、百合香はさっそくその実力を発揮した。ここ数年、地区大会で他校に遅れを取っていたガドリエルに「ガソリン」が注入された、とも評された。昨年は、1年生ながら上級生とともに県予選、ブロック大会に出場し、シューティングガード、そしてセンターを務め勝利し、相手校のコーチを驚かせた。
百合香は、決して驕る人間ではないが、私はこのままバスケットボールの道を駆け上がって行くのだ、という自信と目標を確固たるものにした。
今年、2年の春までは。
「特殊なウイルス性肺炎の後遺症によるものです」
ある日、病院の先生は、診察室で付き添いの母親と百合香にそう言った。
百合香は2年になってすぐの大会が終わったあと、感染症による肺炎に罹ったのだ。走ると呼吸が乱れ、すぐに息を切らして胸に激痛が走る。当然、部活には出ていない。
「普通に生活している分には、そこまで深刻な事はないでしょうが…」
先生は、そこで気まずそうに一旦言葉を切る。
「回復するまで、激しい運動は厳禁です」
その言葉は、百合香を奈落の底に突き落とすに十分すぎた。即座に先生に訊ねる。
「6月の大会は」
「駄目です。絶対に。そして、あなたには受け容れ難いとは思いますが、この肺炎の後遺症は、何年も続く例もあります」
私は、診察室に崩れ落ちた。つまり、もう高校でのバスケットボールは事実上、終わったも同然ということだ。脈を診る看護師の声が遠く聞こえた。
一生分と思える涙をその夜流し、そして朝を迎えると、それまで辿ってきた道の先が、突然崩落している事を改めて実感した。
これから、何をすればいいのだろう。
憧れていた南先輩が自分にかけてくれていた期待も、裏切る事になる。
存在する意味とは何だろう。
突然に襲ってきた虚無感に、百合香は戦慄した。
何とかという有名なタイトルの、そこらのスーパーで大根を選んでいそうなオバサンが表紙で微笑む、スピリチュアルの本を読んでみた。あなたはありのままで幸せなのです、とある。肺炎の後遺症を抱えている自分は幸せであるらしい。
自分に起きる出来事は全て自分自身が創造している、自分自身の責任だという人もいた。私はうっかり肺炎を創造したらしい。
ともかく、百合香には今の所、何もなくなった。だから、吉沢さんのように楽しそうに近寄ってくる人が不思議に思えた。成績がトップなわけでもないし、バスケットという活躍の場を失った自分に、何の用があるのだろう、と百合香は本気で思っていた。
その点、南先輩は容赦がないほど明快だ。治るかどうかわからない病気を治して、さっさとコートに戻れ、という。百合香は、南先輩の日本刀のような鋭さが好きだった。
「ねえ百合香さん、頼みがあるんだけど」
人が物思いにふけっている所に、吉沢さんもまた彼女なりに容赦なく踏み込んでくる。
「何かしら」
「あのね、文芸部で今度、ミステリの短編をまとめた本を作るの。それでその前に、百合香さんに全員の作品を読んで欲しいのよね」
一見するとフワフワした印象の吉沢さんは、実のところ押しが強い。真綿を笑顔で押し付けてくるような怖さがある。
「…何作品あるの」
一応、そう訊ねる。吉沢さんは笑顔で答えた。
「えーとね、8作品ある」
そこそこ多い。
「トータル60万字くらいかな」
「多い!」
つい百合香もツッコミを入れざるを得ない。周りの生徒たちが何事かと二人を見る。
「…なんで私が」
「百合香さん、読書家でしょ?いつも難しそうな本、読んでるじゃない」
確かに、百合香は何かの合間に文庫本を開く事が多い。傍から見れば読書家なのかも知れないが、ミステリは実のところ、それほど読まないのだった。
「他にもっと適当な人がいるんじゃなくて」
それとなく断ってみるものの、吉沢さんは譲らない。
「百合香さんは何考えてるかわからないミステリアスな所がある。ミステリの感想を求めるにはピッタリでしょ」
その評価が正しいのかどうか、百合香にはわからない。ため息をついて、百合香は小さく笑った。
「わかったわ。原稿のデータがあるなら、私のスマホに送っておいて」
「やった!」
ウサギのように吉沢さんは小躍りして喜んだ。その時百合香は、人はそれぞれ情熱を燃やしている事があるのだな、と改めて実感したのだった。
どのみち、今はやる事がない。それなら、誰かの役に立つのも悪くはない、と百合香は思った。
その日は空気が乾いて、まるで秋のような日だった。ともすれば肌寒いほどで、蒸し暑い梅雨のあいだ稼働していた校内のエアコンも、久々の休息を許された。寒がりで有名な高齢の英語教師は、ベストを着込んで授業をしていた。
やがて放課後になると、百合香の机の周りにまたもクラスメイト達が、数名集まってきた。何やら、意を決したような表情である。
「江藤さん、失礼だけれど放課後、お暇?」
進み出たミディアムヘアの生徒の手には何か、小さなチケットが握られている。百合香は申し訳なさそうに答えた。
「えっと…ごめんなさい、今日は病院に行かなければならない日なの」
全員の顔を見渡して、百合香は答える。
「そっかー。残念」
「百合香さん、ライブハウスとか興味ないわよね」
そう訊かれて、百合香は訊き返す。
「ライブハウス?」
「女子高の軽音部が対バンするライブがあるの。その…百合香さん、意外にも海外のロックが好きって聞いたから」
百合香はぎくりと背筋を伸ばした。どこから洩れたのだ。特に理由はないが、吉沢さんとか、南先輩とか、ごく一部の親しい人にしか趣味の事は話していない。そういえばこの面子は、軽音楽部の人間たちだ。
「…誰に聞いたの」
「やっぱり、ホントなんだ!ねえ、何を聴くの?」
「秘密よ」
なんで秘密にしなくてはならないのか自分でもわからないが、百合香はスマホに入っている「Rock」というflacファイルのフォルダを開いてみせた。ちなみに、256GBのメモリーカードの半分以上がメタル、プログレで埋まっている。「渋すぎる」「やべえ」「ガチの玄人だ」と、軽音楽部の面子は口々に唸った。
部活を離れて、こうした予想外の方向からのコミュニケーションが起きることに百合香は軽く驚き、そして何となく居心地の良さも覚えていた。
そして、その居心地の良さにいつか慣れきってしまい、それまでの夢が薄れてしまうのではないか、とも。
そんな事を考えた時、百合香は不意に胸に痛みを覚えた。
「ごほん」
百合香が小さく咳き込むと、面々が焦ったようにどよめいた。
「江藤さん!」
「大丈夫」
背中を支え、擦ってくれる。しかし、この程度の事は時々あるのだ。
「ごめんなさい、ありがとう。どのみち今日は病院の日だから、そろそろ失礼するわね」
心配をかけないように、凛とした所作で立ち上がると、百合香は鞄を取って挨拶をした。
「それでは、ごきげんよう。また来週お会いしましょう」
才媛、で通っているらしい百合香は、その二つ名を裏切らないよう精一杯努めた。
だが、一礼して顔を上げたとき、百合香は一瞬硬直した。
教室の窓ガラスに、人影が映っている。自分とよく似たシルエットの少女だった。
それはすぐに動いて消えてしまったが、渡り廊下で感じた時と同じ人影だった。細かい顔立ちまではわからないが、まるで自分を見ているような不気味さがあった。
咄嗟に、その人影が見えた位置を振り返る。しかし、そこには誰もいなかった。
「どうしたの?」
軽音楽部の一人が怪訝そうに訊ねる。百合香はその場を取り繕うために、なんとか平静を保ってみせた。
「な…何でもないわ、気のせいだったみたい、ごきげんよう」
若干顔を引きつらせながら、百合香は教室を足早に立ち去った。
再びの出来事を気にしつつ昇降口を出ると、白衣を着た大学の研究チームといった風情の一団とすれ違った。よくわからない機材を抱えている人もいた。おそらく、例の凍結事件の現場を調査していたのだろう。
『マイクロバーストの一種でしょうか』
『いくら何でも局地的すぎる』
『詳しい解析はまだですが、地中深くに正体不明の低温反応が…』
『下水管か何かじゃないのか』
何やら専門的で、女子高生にはわからない会話が聞こえた。
そういえば、あの凍結していた生徒たちはどうなったのだろう。ひとまず命に別状はない、という話だった。ひょっとしたら、百合香が通う病院に入院しているかも知れない。
すると、白衣の人達が歩き去ったあとから、教師たちが数名歩いてきた。ボリュームがある天然パーマの男性数学教師が、腕組みしてしぶい顔をしている。
「何なんですか、あの人達。生徒が倒れたっていうのに」
「興味本位って感じですよね」
30代前半、前髪を2つにわけたミディアムショートの女性教師が同意する。顔は知っているが、接点が無いので名前を知らない。彼女の口ぶりからするとどうもあの調査チームは、調査の過程であまり感心できない態度だった、という事らしい。
女性教師は、ため息をついて何気なくあたりを見回した。百合香と一瞬目が合うと、何か意外そうな顔をする。
何だろう、と思っていると、すぐ顔をそむけて、何やら今後の対応を他の教師たちと話しながら歩いて行った。小さく「彼女ですよね、バスケ部の…」と聞こえる。百合香の事は、やはり教師陣の間でも話題になるらしかった。あまりいい気分ではない。
そして生徒の中には、百合香がバスケットボール部のヒーローの座から病で転落した事を喜び、嘲る者さえいる。才能、実力がある者には、必ず妬み、脚を引っ張る集団が現れるものである。実際、聞こえるように「いい気味だわ」と言われた事もある。
しかし百合香は元々、そんな器の小さな集団など歯牙にもかけない豪胆さを備えていた。身体を患ってもそれは変わらない。
百合香は校門を出ると、バス停に向かって歩き出した。ブラバンの演奏が聴こえる。体育館の方を見ないように、ゆるい坂を下った。
その時、百合香はまたも硬直して立ち止まった。
誰かの声が聞こえたのだ。
気のせいではない。百合香は再び周囲を見回したが、今度はガラス等は見当たらない。
すると。
『急いで』
百合香の脳裏に、女性の声が聞こえた。少し大人のような声色だ。
誰だろう、と周囲を見渡す。しかし、どこにも誰もいない。
そのとき、百合香はおかしな事に気が付いた。
いくら都市部から少し離れているとはいえ、あまりにも人や車の気配がなさすぎる。いちおうは政令指定都市である。
その時、またしても声が聞こえた。
『立ち止まっては駄目』
同じ女性の声だ。さすがに、これは「普通の声」ではない、と百合香も感じ始めた。だが、心霊現象は生まれてこの方体験した事がない。病気をきっかけにそういう能力に目覚める事もある、という話を雑誌で読んだ事はあるが。
言われなくても怖いので、百合香はバス停に人がいる事を信じて、その場を早足で立ち去った。
第二体育館では、8月の2回の大会に向けて、ガドリエル学園バスケットボール部が練習に励んでいた。
「ドリブル遅い!!」
榴ヶ岡南の甲高い声が、体育館の鉄骨に響く。
「西崎!パス迷いすぎ!」
次の大会で三年生は引退となる事もあり、南もつい指導に熱が入ってしまう。だが、理由がそれだけでない事は部員の誰もがわかっていた。
江藤百合香がいない。
病気で休養していなければ、すでに南の後を継いで、満場一致で百合香が部長に任命されている筈だった。
南が、百合香に並々ならない気持ちを寄せていた事は、誰の目にも明らかだった。その百合香と共に引退試合に臨めない南の心境は、誰にも推し量る事ができない。
そして現実的な事を言うと、百合香の戦力を欠いたチームが、大会でどこまで行けるか、という不安もあった。
「百合香」
つい、その名を口にする自分を叱るように、南は頭を振った。
一人の戦力に頼らなくては勝てないようなチームでは、もし万が一にも百合香が復帰できた時に申し訳が立たない。百合香なしで、勝てる所まで勝つ。それが彼女への礼儀だと、南は思った。
それはそれとして、なんて寒い日だと南は思った。梅雨が去って湿気が後退したのはわかるが、この時期にこれほど気温は下がるものだろうか。
「集合―――」
南がコートに声をかける。汗を垂らした面々が、疲労した腕や脚を引きずって集まった。
「今日はこれで終わる。この低い気温で汗かいたら、体調を崩しかねないからね。明日明後日、大会前に最後の休養をしっかり取ること」
「は――い」
「帰る前に汗ちゃんと拭いてね。全員、万全の状態で大会に臨むこと。悔いなく――百合香のぶんまで、あたし達が戦うんだ。いいね。解散!」
ありがとうございました、と甲高い輪唱が響いて、面々は用具の片付けを始めた。
「百合香、百合香って」
呆れたように、黒いジャージを着た顧問の笹丘先生が南に歩み寄った。
「まあ、気持ちはわかるけど。みんな、あの子を主力だと思ってたからね」
「あたしも反省してます。一人に頼るようなチームじゃいけない」
ボールを拾いながら言う南に、笹丘先生は諭すように言った。
「気合い入れるのはいいけど、エンジンはオーバーヒートすれば止まるんだよ。タイヤに負荷をかければパンクする」
「車は詳しくありません」
「あっそ」
言っても無駄ね、と笹丘先生は笑ってその場を立ち去った。
「どうせ次で引退なんだ」
最後に全力を出して何が悪い。南は、睨むように窓の外を見た。
その時、南は空に異様なものを見た。
「!?」
それは、テレビや写真でしか見たことのない光景だった。虹色の光が、カーテンのように空を覆っていた。科学、物理は苦手な南でも、それが何なのかは知っている。
「オーロラだ…」
それが日本の本州で、しかも夏に現れる事はあるのだろうか。百合香は妙な雑学を知っているから、訊けばわかるだろうか。
自分の名前と同じ、南の空に浮かぶオーロラを驚愕の目で南は見た。
しかし人間というのは、どんな大事件も日常生活の中では、忘れないまでも関心は維持できないものである。
「百合香、デザインの課題終わった?」
登校した朝、教室に入って来るなり吉沢さんは百合香の所へやって来た。
「うん。もう提出した」
百合香は答える。
「うげー、さすが才媛だわ」
「その呼び方やめてくれる」
眉間にシワを寄せて百合香は言った。自分より学業の成績がいい生徒は何人もいる。どうにか優秀グループに属してはいるらしいが、べつにトップではない。
百合香がガドリエル女学園の普通科、キャリア・アスリートコースを選んだのは、小学校から続けてきたバスケットボールのためだった。ガドリエルは強豪の一角であり、かつてはオリンピック出場を果たした選手も輩出している。
中学ではチーム全体がやや弱かったせいで実力に見合う結果を出せなかったが、江藤百合香という少女の実力は教育の体育系界隈ではそこそこ知られていた。
入学して、予定調和のようにバスケットボール部の入部届にサインをすると、百合香はさっそくその実力を発揮した。ここ数年、地区大会で他校に遅れを取っていたガドリエルに「ガソリン」が注入された、とも評された。昨年は、1年生ながら上級生とともに県予選、ブロック大会に出場し、シューティングガード、そしてセンターを務め勝利し、相手校のコーチを驚かせた。
百合香は、決して驕る人間ではないが、私はこのままバスケットボールの道を駆け上がって行くのだ、という自信と目標を確固たるものにした。
今年、2年の春までは。
「特殊なウイルス性肺炎の後遺症によるものです」
ある日、病院の先生は、診察室で付き添いの母親と百合香にそう言った。
百合香は2年になってすぐの大会が終わったあと、感染症による肺炎に罹ったのだ。走ると呼吸が乱れ、すぐに息を切らして胸に激痛が走る。当然、部活には出ていない。
「普通に生活している分には、そこまで深刻な事はないでしょうが…」
先生は、そこで気まずそうに一旦言葉を切る。
「回復するまで、激しい運動は厳禁です」
その言葉は、百合香を奈落の底に突き落とすに十分すぎた。即座に先生に訊ねる。
「6月の大会は」
「駄目です。絶対に。そして、あなたには受け容れ難いとは思いますが、この肺炎の後遺症は、何年も続く例もあります」
私は、診察室に崩れ落ちた。つまり、もう高校でのバスケットボールは事実上、終わったも同然ということだ。脈を診る看護師の声が遠く聞こえた。
一生分と思える涙をその夜流し、そして朝を迎えると、それまで辿ってきた道の先が、突然崩落している事を改めて実感した。
これから、何をすればいいのだろう。
憧れていた南先輩が自分にかけてくれていた期待も、裏切る事になる。
存在する意味とは何だろう。
突然に襲ってきた虚無感に、百合香は戦慄した。
何とかという有名なタイトルの、そこらのスーパーで大根を選んでいそうなオバサンが表紙で微笑む、スピリチュアルの本を読んでみた。あなたはありのままで幸せなのです、とある。肺炎の後遺症を抱えている自分は幸せであるらしい。
自分に起きる出来事は全て自分自身が創造している、自分自身の責任だという人もいた。私はうっかり肺炎を創造したらしい。
ともかく、百合香には今の所、何もなくなった。だから、吉沢さんのように楽しそうに近寄ってくる人が不思議に思えた。成績がトップなわけでもないし、バスケットという活躍の場を失った自分に、何の用があるのだろう、と百合香は本気で思っていた。
その点、南先輩は容赦がないほど明快だ。治るかどうかわからない病気を治して、さっさとコートに戻れ、という。百合香は、南先輩の日本刀のような鋭さが好きだった。
「ねえ百合香さん、頼みがあるんだけど」
人が物思いにふけっている所に、吉沢さんもまた彼女なりに容赦なく踏み込んでくる。
「何かしら」
「あのね、文芸部で今度、ミステリの短編をまとめた本を作るの。それでその前に、百合香さんに全員の作品を読んで欲しいのよね」
一見するとフワフワした印象の吉沢さんは、実のところ押しが強い。真綿を笑顔で押し付けてくるような怖さがある。
「…何作品あるの」
一応、そう訊ねる。吉沢さんは笑顔で答えた。
「えーとね、8作品ある」
そこそこ多い。
「トータル60万字くらいかな」
「多い!」
つい百合香もツッコミを入れざるを得ない。周りの生徒たちが何事かと二人を見る。
「…なんで私が」
「百合香さん、読書家でしょ?いつも難しそうな本、読んでるじゃない」
確かに、百合香は何かの合間に文庫本を開く事が多い。傍から見れば読書家なのかも知れないが、ミステリは実のところ、それほど読まないのだった。
「他にもっと適当な人がいるんじゃなくて」
それとなく断ってみるものの、吉沢さんは譲らない。
「百合香さんは何考えてるかわからないミステリアスな所がある。ミステリの感想を求めるにはピッタリでしょ」
その評価が正しいのかどうか、百合香にはわからない。ため息をついて、百合香は小さく笑った。
「わかったわ。原稿のデータがあるなら、私のスマホに送っておいて」
「やった!」
ウサギのように吉沢さんは小躍りして喜んだ。その時百合香は、人はそれぞれ情熱を燃やしている事があるのだな、と改めて実感したのだった。
どのみち、今はやる事がない。それなら、誰かの役に立つのも悪くはない、と百合香は思った。
その日は空気が乾いて、まるで秋のような日だった。ともすれば肌寒いほどで、蒸し暑い梅雨のあいだ稼働していた校内のエアコンも、久々の休息を許された。寒がりで有名な高齢の英語教師は、ベストを着込んで授業をしていた。
やがて放課後になると、百合香の机の周りにまたもクラスメイト達が、数名集まってきた。何やら、意を決したような表情である。
「江藤さん、失礼だけれど放課後、お暇?」
進み出たミディアムヘアの生徒の手には何か、小さなチケットが握られている。百合香は申し訳なさそうに答えた。
「えっと…ごめんなさい、今日は病院に行かなければならない日なの」
全員の顔を見渡して、百合香は答える。
「そっかー。残念」
「百合香さん、ライブハウスとか興味ないわよね」
そう訊かれて、百合香は訊き返す。
「ライブハウス?」
「女子高の軽音部が対バンするライブがあるの。その…百合香さん、意外にも海外のロックが好きって聞いたから」
百合香はぎくりと背筋を伸ばした。どこから洩れたのだ。特に理由はないが、吉沢さんとか、南先輩とか、ごく一部の親しい人にしか趣味の事は話していない。そういえばこの面子は、軽音楽部の人間たちだ。
「…誰に聞いたの」
「やっぱり、ホントなんだ!ねえ、何を聴くの?」
「秘密よ」
なんで秘密にしなくてはならないのか自分でもわからないが、百合香はスマホに入っている「Rock」というflacファイルのフォルダを開いてみせた。ちなみに、256GBのメモリーカードの半分以上がメタル、プログレで埋まっている。「渋すぎる」「やべえ」「ガチの玄人だ」と、軽音楽部の面子は口々に唸った。
部活を離れて、こうした予想外の方向からのコミュニケーションが起きることに百合香は軽く驚き、そして何となく居心地の良さも覚えていた。
そして、その居心地の良さにいつか慣れきってしまい、それまでの夢が薄れてしまうのではないか、とも。
そんな事を考えた時、百合香は不意に胸に痛みを覚えた。
「ごほん」
百合香が小さく咳き込むと、面々が焦ったようにどよめいた。
「江藤さん!」
「大丈夫」
背中を支え、擦ってくれる。しかし、この程度の事は時々あるのだ。
「ごめんなさい、ありがとう。どのみち今日は病院の日だから、そろそろ失礼するわね」
心配をかけないように、凛とした所作で立ち上がると、百合香は鞄を取って挨拶をした。
「それでは、ごきげんよう。また来週お会いしましょう」
才媛、で通っているらしい百合香は、その二つ名を裏切らないよう精一杯努めた。
だが、一礼して顔を上げたとき、百合香は一瞬硬直した。
教室の窓ガラスに、人影が映っている。自分とよく似たシルエットの少女だった。
それはすぐに動いて消えてしまったが、渡り廊下で感じた時と同じ人影だった。細かい顔立ちまではわからないが、まるで自分を見ているような不気味さがあった。
咄嗟に、その人影が見えた位置を振り返る。しかし、そこには誰もいなかった。
「どうしたの?」
軽音楽部の一人が怪訝そうに訊ねる。百合香はその場を取り繕うために、なんとか平静を保ってみせた。
「な…何でもないわ、気のせいだったみたい、ごきげんよう」
若干顔を引きつらせながら、百合香は教室を足早に立ち去った。
再びの出来事を気にしつつ昇降口を出ると、白衣を着た大学の研究チームといった風情の一団とすれ違った。よくわからない機材を抱えている人もいた。おそらく、例の凍結事件の現場を調査していたのだろう。
『マイクロバーストの一種でしょうか』
『いくら何でも局地的すぎる』
『詳しい解析はまだですが、地中深くに正体不明の低温反応が…』
『下水管か何かじゃないのか』
何やら専門的で、女子高生にはわからない会話が聞こえた。
そういえば、あの凍結していた生徒たちはどうなったのだろう。ひとまず命に別状はない、という話だった。ひょっとしたら、百合香が通う病院に入院しているかも知れない。
すると、白衣の人達が歩き去ったあとから、教師たちが数名歩いてきた。ボリュームがある天然パーマの男性数学教師が、腕組みしてしぶい顔をしている。
「何なんですか、あの人達。生徒が倒れたっていうのに」
「興味本位って感じですよね」
30代前半、前髪を2つにわけたミディアムショートの女性教師が同意する。顔は知っているが、接点が無いので名前を知らない。彼女の口ぶりからするとどうもあの調査チームは、調査の過程であまり感心できない態度だった、という事らしい。
女性教師は、ため息をついて何気なくあたりを見回した。百合香と一瞬目が合うと、何か意外そうな顔をする。
何だろう、と思っていると、すぐ顔をそむけて、何やら今後の対応を他の教師たちと話しながら歩いて行った。小さく「彼女ですよね、バスケ部の…」と聞こえる。百合香の事は、やはり教師陣の間でも話題になるらしかった。あまりいい気分ではない。
そして生徒の中には、百合香がバスケットボール部のヒーローの座から病で転落した事を喜び、嘲る者さえいる。才能、実力がある者には、必ず妬み、脚を引っ張る集団が現れるものである。実際、聞こえるように「いい気味だわ」と言われた事もある。
しかし百合香は元々、そんな器の小さな集団など歯牙にもかけない豪胆さを備えていた。身体を患ってもそれは変わらない。
百合香は校門を出ると、バス停に向かって歩き出した。ブラバンの演奏が聴こえる。体育館の方を見ないように、ゆるい坂を下った。
その時、百合香はまたも硬直して立ち止まった。
誰かの声が聞こえたのだ。
気のせいではない。百合香は再び周囲を見回したが、今度はガラス等は見当たらない。
すると。
『急いで』
百合香の脳裏に、女性の声が聞こえた。少し大人のような声色だ。
誰だろう、と周囲を見渡す。しかし、どこにも誰もいない。
そのとき、百合香はおかしな事に気が付いた。
いくら都市部から少し離れているとはいえ、あまりにも人や車の気配がなさすぎる。いちおうは政令指定都市である。
その時、またしても声が聞こえた。
『立ち止まっては駄目』
同じ女性の声だ。さすがに、これは「普通の声」ではない、と百合香も感じ始めた。だが、心霊現象は生まれてこの方体験した事がない。病気をきっかけにそういう能力に目覚める事もある、という話を雑誌で読んだ事はあるが。
言われなくても怖いので、百合香はバス停に人がいる事を信じて、その場を早足で立ち去った。
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「ドリブル遅い!!」
榴ヶ岡南の甲高い声が、体育館の鉄骨に響く。
「西崎!パス迷いすぎ!」
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江藤百合香がいない。
病気で休養していなければ、すでに南の後を継いで、満場一致で百合香が部長に任命されている筈だった。
南が、百合香に並々ならない気持ちを寄せていた事は、誰の目にも明らかだった。その百合香と共に引退試合に臨めない南の心境は、誰にも推し量る事ができない。
そして現実的な事を言うと、百合香の戦力を欠いたチームが、大会でどこまで行けるか、という不安もあった。
「百合香」
つい、その名を口にする自分を叱るように、南は頭を振った。
一人の戦力に頼らなくては勝てないようなチームでは、もし万が一にも百合香が復帰できた時に申し訳が立たない。百合香なしで、勝てる所まで勝つ。それが彼女への礼儀だと、南は思った。
それはそれとして、なんて寒い日だと南は思った。梅雨が去って湿気が後退したのはわかるが、この時期にこれほど気温は下がるものだろうか。
「集合―――」
南がコートに声をかける。汗を垂らした面々が、疲労した腕や脚を引きずって集まった。
「今日はこれで終わる。この低い気温で汗かいたら、体調を崩しかねないからね。明日明後日、大会前に最後の休養をしっかり取ること」
「は――い」
「帰る前に汗ちゃんと拭いてね。全員、万全の状態で大会に臨むこと。悔いなく――百合香のぶんまで、あたし達が戦うんだ。いいね。解散!」
ありがとうございました、と甲高い輪唱が響いて、面々は用具の片付けを始めた。
「百合香、百合香って」
呆れたように、黒いジャージを着た顧問の笹丘先生が南に歩み寄った。
「まあ、気持ちはわかるけど。みんな、あの子を主力だと思ってたからね」
「あたしも反省してます。一人に頼るようなチームじゃいけない」
ボールを拾いながら言う南に、笹丘先生は諭すように言った。
「気合い入れるのはいいけど、エンジンはオーバーヒートすれば止まるんだよ。タイヤに負荷をかければパンクする」
「車は詳しくありません」
「あっそ」
言っても無駄ね、と笹丘先生は笑ってその場を立ち去った。
「どうせ次で引退なんだ」
最後に全力を出して何が悪い。南は、睨むように窓の外を見た。
その時、南は空に異様なものを見た。
「!?」
それは、テレビや写真でしか見たことのない光景だった。虹色の光が、カーテンのように空を覆っていた。科学、物理は苦手な南でも、それが何なのかは知っている。
「オーロラだ…」
それが日本の本州で、しかも夏に現れる事はあるのだろうか。百合香は妙な雑学を知っているから、訊けばわかるだろうか。
自分の名前と同じ、南の空に浮かぶオーロラを驚愕の目で南は見た。
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