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第二章
5. 出来る女
しおりを挟む「すっかり体調が良くなったと思ったら、今度は何をそんなに急いでるんだ?」
訓練も終わり戻って来たのは、執務室の手前にある控えの間。
そこで、日報を書きなぐっているエリックを見て、ダニエルが聞いてくる。
「えーっと……、野暮用ってやつで」
エリックは曖昧に答えた。
訊いて欲しいことは山ほどある。ダニエルの見立ては正しかったことや、クリスティーナがやる気を見せていること。しかし、この場で話す内容でもなければ、詳細を伝える時間もない。
「ちょっとばかし急ぐんで、エリックさん、引き継ぎお願いしてもいいっすか?」
「ああ」
「すんません、お願いします」
クリストフェルには常時護衛がつく。
ダニエルやエリックは、クリストフェルに合わせ昼夜問わず任務に当たることも多いが、何もない時は、勤務時間が決まっており定時で上がれる。
勤務が終われば、他にもいる日勤者の代表として、二人のうちのどちらかが次の護衛につく者達に引き継ぎをするのだが、今日は、この後の予定を速やかに実行すべく、ダニエルに頼んだ。
いつにも増して汚い字で日報を書きあげれば、クリストフェルを私室まで送り届けて本日の勤務は終了だ。
最後の任務をこなすため、クリストフェルを迎えにダニエルと二人、執務室の前に立つ。
ドアをノックし扉を開けて一礼したところで、
「うおっ!」
クリストフェルの焦ったような声が聞こえ、反射でエリック達は顔を上げた。
目の前に広がる光景を見た瞬間、エリックは絶句した。
自席で大袈裟なほど仰け反っているクリストフェル。その目は驚きで見開いている。
これが原因か、とクリストフェルの対面にいる人物の後ろ姿を見て思う。その人物の突然の登場で、クリストフェルは驚きの声を上げたに違いないと、嫌でも状況を把握した。
後ろ姿だけで分かる。それが誰なのか。
分かりたくもないのに分かってしまうエリックの手の平は、じんわりと汗が滲んだ。
ま、まさか、まさか、まさか。もう、腕の見せ所を発揮しにきたんじゃ……。
「驚かせてごめんなさいね。少しお邪魔するわね」
発せられた美声は、間違えようはずもない。エリックの予想通り、クリスティーナのものだ。
昼間もそうであったように、魔法でひとっ飛び、この部屋に突如として現れたのだろう。
「ティナ、突然、どうしたんだ?」
驚きから立て直したクリストフェルに、クリスティーナは朗らかに言った。
「直ぐにでもフェルに会いたくて急いで来てしまったの!」
クリストフェルの顔が仄かに色づいたのは気のせいか。
殿下、姫さんの言葉真に受けたら危険っす! ぬか喜びしないで下さい! と言えたらどんなに楽か。
クリストフェルの喜びは直ぐに突き落とされるだろうと、推測出来るただ一人のエリックは、予定を実行するために気も逸る思いでいたのに、全ては手遅れだと悟った。
「フェル、どうしたの? ボッーとして」
「……や、なんでもない」
「そう?」
会いたかったなんて言われて、ドキマギしているんすよ、と説明を挟めるはずもなく、クリスティーナは紙を一枚差し出した。
「ねぇ、これ見て! 早くフェルに見せたくて! 連休中に彼女が遊びに来られるんでしょ? ここに書いてある所なら、フェルの彼女にも喜んでもらえると思うの。連休は久しぶりの逢瀬を存分に楽しんできてね」
クリストフェルの口が、小さく『え?』と動き、表情が強張ったのが分かる。対してクリスティーナは屈託のない笑顔だ。
『終わった』と内心で嘆いたエリックは、その場にしゃがみこみ頭を抱えた。
「エリック、おまえが急いでた理由って、この状況と関係あるのか?」
周りには聞き取れないだろう小声が頭上から落ちてきた。ダニエルだ。
意外と察しが良いらしい。エリックが頭を抱えながら頷けば、小さな溜息も追加で落ちてくる。
続けて耳に入ってきたのは、クリストフェルの硬い声だった。
「……どうしてティナが知ってる?」
当然の疑問にクリスティーナは、
「盗み聞きよ」
清々しいまでに言ってのけた。
盗み聞きをここまで堂々と告白する人もいまい。
全ては俺の落ち度っす! 本当にすみません!
頭から両手を外したエリックは物音立てずに立ち上がると、姿勢を正してクリストフェル一筋に視線を送る。
直ぐにその視線に気がついたクリストフェルは、大凡の検討はついただろう。エリックが絡んでいるのだと。
目が合い一礼すれば、声には乗せずに口だけで謝罪の言葉を形取るエリックを見て、力なく笑った。
「ティナ、忙しいのに手間を取らせて悪かったな」
「そんなことないわ。フェルのためなら協力は惜しまないし、何だってするわ! お食事とかお茶をするお店も、彼女が気を張らずに過ごせるような場所を選んでみたから、気に入ってもらえると良いのだけれど」
クリストフェルを思えば、『悪かったな』なんて言わせてしまったことに遣る瀬なく、しかし、庶民出のシルビアを考慮し、店探しをしただろうクリスティーナを思えば、全てはクリストフェルのためだろうと、その本気度が窺えて、互いの思いやる気持ちに歯噛みしたくなる。
それだけ大切な相手なのに、どうして一つの想いに結びつかないのかと。
にしても姫さん、仕事早すぎっす。どんだけ出来る女なんすか!
そんな二人の会話に黙って耳を傾けていたところに、オルヴァーが口を挟んだ。
「姫様、お茶を淹れましたから、立ち話もなんですし、こちらへどうぞ。殿下もこちらへ」
ソファーへ二人を促すオルヴァーだが、いつの間にお茶なんて用意していたのか。クリストフェルとクリスティーだけに意識を奪われていたエリックは、オルヴァーの動きなど気にもしていなかった。
しかし、話の流れを断ち切るには、丁度良い。
偶然の振る舞いにせよ、『ナイスっす、オルヴァーさん!』とエリックは、心で拍手喝采した。
「日頃、お忙しいお二人ですからね、気を休める効果があります、カモミールティーをご用意致しました」
「ありがとう、オルヴァー。遠慮なく頂くわね」
ソファーに座るクリスティーナ。後に続いたクリストフェルは、微妙な距離間を開けて並びに座る。
「飲みやすくて、とても美味しいわ」
クリストフェルにこそ、がぶ飲みして欲しい、とエリックは願う。少しでも気が休まるのなら。
二人がお茶を一口味わったところで、傍らに立つオルヴァーが声をかけた。
「姫様、最近はかなりお忙しいようで、ご無理されているのでは?」
左手に持つソーサーにカップを乗せると、それをテーブルに置いたクリスティーナは、ニコリと微笑んだ。
「流石に疲れが溜まってはいたけれど、恋人達に相応しい店探しは、むしろ私が楽しんでしまったくらい良い気晴らしになったわ。
フェルの彼女が一般の方だと訊いて、友人にも色々と教えてもらったの。その友人も貴族の出ではないのだけど、とても気さくな良い子なのよ。その子が言うには、豪華過ぎるお店は、慣れていないだけに萎縮してしまうって言っていたから、貴族の方が立ち寄らないような気軽なお店にしてみたの。私も行ってみたいって思うお店ばかりなのよ。
それと、彼女にプレゼントを贈るなら、高価すぎないお洒落なお店も選んでおいたから、必要があれば参考にしてみてね」
「……あぁ」
お茶で一休憩でも挟めば、クリストフェルの恋人の話題も遠のくと思いきや、クリスティーナはまたも熱く語る。だが、オルヴァーは別のところに興味を持ったらしく、
「姫様には、素敵なご友人がおられるのですね。その方とは、バルドでお知り合いになられたのですか?」
幸いにもエリックの心配は、一先ず棚上げとなった。
「いいえ、ヴァスミルの子なのよ。私の研究仲間で、一緒にバルドに来たの」
「そうでしたか。その方も優秀なのですね」
「ええ。優秀な上に気さくで優しくて。そんな彼女だから、ヴァスミルの貴族の子息に見初められてね、目出度く婚約したの。貴族の子息らしからぬ相手ではあるけれど、身分違いでも二人は幸せそうにしているわ」
『身分違い』。そのキーワードに、また話が嫌な方向に流れるのではと警戒したが、その心配もオルヴァーが摘み取った。
「それはお目出度いことですね。ところで姫様は、何故、留学先がここバルドだったのでしょうか?」
「前に消えた星の文献が見つかったって話したでしょ? 文献を参考にした研究には、消えた星の言語が不可欠で、ここにはその第一人者がいるのよ。それで、こっちで研究した方が手っ取り早いってことになってね、それで」
ここにきて漸くエリックは、もしかして? と思い至った。
先程から何度もヒヤヒヤさせられているクリスティーナの発言。
クリスティーナの言動からは、クリストフェルに恋愛感情がないのは明白で、エリックの『勘』を前提とするならば、クリストフェルが失恋を実感するには充分だったはずだ。
これ以上、言葉の端々からダメージを受けるには忍びないと、ハラハラしながら見守っていたわけだが、全てオルヴァーが介入し、重ねて打ちのめされる事態には陥っていない。
お茶を出したり、友人の話題にシフトしたり、留学先にまで話題を広げたり。
偶然も三度続けば、そこには何らかの意志が作用していると疑うべきだ。だとしたら、オルヴァーがスマートに話題の軌道修正を図っていると見た方がいい。
常に会話の主導はオルヴァーが握っているのだから。
もしかすると、オルヴァーもエリックの『勘』を抱く一人なんじゃないか。そんなことを考えている間にも、無言のクリストフェルを置き去りに、二人の会話は続いていた。
「連休中は姫様もお休みを取れそうですか?」
「そうね、多少の書類業務はあるかもしれないけれど、最終日にはヴァスミルに行くつもりよ」
「久々の帰省ですか」
「所要で行くだけだから、宮殿には顔は出さないけどね」
殺人的忙しさも連休までの辛抱ね、そうげんなりとした口調で付け足したクリスティーナは、お茶で喉を潤した。
「今度、ゆっくりお会い出来るのは、連休が明けてからになりそうですね」
オルヴァーがそう言うと、
「その前に仕事で会うことになるわ」
クリスティーナからは、意外な答えが返って来た。
「最後の合同訓練に私も顔を出す予定なの。部隊には魔術担当の者もいるから、少しばかりレクチャーをね」
最後の合同訓練とは、連休前日に行われるもので、その訓練をもって、今期の派遣部隊は解散となる。
「姫様は軍部の方にも拘わられているのですか?」
「必要な時だけね。三年前に、ここバルドで、近隣国とのトラブルがあったでしょ? その時から少しね」
クリスティーナはトラブルと言ったが、実際には、そんな生易しいものではなかった。
緊迫した状況で、あわや戦争か、と緊張を孕んだ事件の勃発。しかし、最終的には、友好国の力技を披露することで収束となったのだが……。
「まさか、」
それまで押し黙っていたクリストフェルが声を上げる。
「あの爆撃って、ティナだったのか?」
ここにいる八つの視線がクリスティーナに集まる。
「ええ。遠隔操作でね。失敗は許されないってことで、私が選ばれたの」
「ティナ一人でか?」
「ええ」
ことも無げに言うクリスティーナに全員が唖然とする。
力技、それこそが友好国が仕掛けた魔法による爆撃攻撃だった。
相手国に被害者を一人も出さないよう計画は綿密に練られ、選ばれた場所に寸分違わず放たれた攻撃。
攻撃後に出来たクレーターからもその威力のほどが窺われ、脅威を前に、相手国は引き下がらざるを得ない形で幕引きとなった。
だが、エリック達が驚いているのは、その攻撃はヴァスミルの魔術師数人が担当していたと訊いていたからだ。
まさかそれをクリスティーナが一人で仕掛けていたとは露知らず、明かされた真実に驚きで口がぽかんと開く。ましてや、遠隔操作だったとは……。
そんなエリック達にお構いなしに、
「まずいわ」
クリスティーナが困った顔をしながら言う。
「リリーのキンキン声と、アルクの、お転婆娘ー、って叫んでいる声が聞こえる気がする」
「もしや姫様、黙ってこちらに?」
否定はせず、ニッコリと笑って肯定するクリスティーナ。
「美味しいお茶をご馳走さまでした。私はこれで失礼するわね」
そう言って立ち上がったクリスティーナは、最後にクリストフェルをジッと見下ろした。
「やっぱり、元気がないわね、フェル。疲れが溜まっているのかしら……そうだ! 疲労回復に抜群の栄養飲料を今度届けるわ。私が実験に実験を重ねた特製飲料よ」
『研究』ではなく『実験』と言ったその飲み物は、果たして本当に飲めるものなのか。
些かの不安を覚えたのは、何もエリックだけではないと思う。
──翌朝。
クリストフェルを迎えに私室に入れば、テーブルの上に置かれた、飲み物が一つ。
流石は出来る女は仕事が早い、と感心するエリックが目を向けている飲み物は、朝早くからクリスティーナが届けたものに違いない。
容器は透明だろうに、中身の色は灰色がかった緑色だった。どう見ても味に期待を持てない色合いだ。
その飲み物を、ジッと見つめるクリストフェル。流石に直ぐ手に取る勇気はないらしい。
「殿下、無理して飲まなくても……」
見るに見かねてエリックが言えば、「いや」と、首を振ったクリストフェルが容器を手に取る。
「折角、クリスティーナが作ってくれたんだ。有り難く頂く」
どこまでも健気なクリストフェルが、意を決したように飲み物に口を付ければ、
「うっ」
うめき声と共に、その顔が途端に歪む。
不味さや苦さが伝染するかのように、見ているエリックまで顔を顰めた。
それでも最後の一滴まで飲みきったクリストフェルを眺めながら、
『失恋の味は苦いもの、って嫌な記憶として残っちまったりして』
と、懸念するエリックであった。
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