上 下
11 / 20
第一章

11. 夏の日の残像①

しおりを挟む

 『あなたがクリストフェルね。私はクリスティーナ、あなたより一歳だけ年下よ。私のことはティナって呼んでね!  私もフェルって呼んでもいい?』


 ──ああ、これは夢だ。


 もう手を伸ばしても届かないと思っていた、過ぎし日の夏の想い出。

 久しぶりにクリスティーナと会ったから、こんな夢を見るのだろうか。それとも願望がそうせさるのか。いずれにせよ、ずっと見ていたい。覚めないでほしい。

 微睡みの狭間に聞こえる舌ったらずな甘い声に誘われるように、クリストフェルの意識は、完全に夢の中へと落ちていった。

 もう一度、会いたい。十一年前の自分たちに────。


 *


 お人形さんみたいだ。いや、そこら辺のお人形さんなんかより、ずっとずっと可愛い。
 青みがかった綺麗なグリーンの瞳なんて、宝石のようにキラキラしていて、ずっと見ていても厭(あ)きないかもしれない。

 ヴァスミル国王陛下への緊張に包まれた挨拶も終わって、案内された部屋の中。具合が悪いのか、広いベッドに凭(もた)れるように座る王妃殿下の前に、その可愛い女の子はいた。

「ねぇねぇ、おーい。私の話聞いてる?」

 クリスティーナと名乗った女の子は、いつの間にか僕のそばにいて、目の前で手をヒラヒラさせていた。

 しまった。ついぼっーとしてしまった。こんなだから、いつも父上に叱られてしまうんだ。

 慌てて片膝を床につき、右手を胸に宛てがえ頭を垂れると、クリスティーナのクスクスと笑う声が聞こえてくる。

「し、失礼しました。アデイン国第三王子クリストフェルです。この度は、お招き頂きありがとうございます」

「よく来てくれたわね。会えるのをティナも私も楽しみにしていたのよ。さあ、堅苦しい挨拶は終わりにして、頭を上げて顔をよく見せてちょうだい?」

 優しく声をかけてくれたのは、王妃殿下だ。

「私もティナも、フェルって呼ばせてもらってもよいかしら?」

「はい」

「ヴァスミルで楽しい思い出を沢山作っていってね。子供はね、遊べる時は思い切り遊ばなくちゃ駄目なのよ?  フェルにとって、この夏が素敵なものになることを願っているわ」

「はい、ありがとうございます」

 柔らかく微笑む王妃殿下はとても綺麗で、クリスティーナの目元や口元は、王妃殿下にそっくりだ。クリスティーナの方が、ほっぺがぷっくらとしているから可愛いらしいけれど、大人になったら王妃殿下のように、美しい女の人になるのかもしれない。

 僕と王妃殿下のやり取りが終わると、付き添い役で一緒に来ている、セルとオルヴァーも続けて挨拶をした。

 王妃殿下は、この可愛い子が男の子みたいにとても活発だから、迷惑をかけるかもしれない。そんなことを二人に話している。

 こんな可愛い子が男の子みたい?  本当に?

 信じられなくてクリスティーナを見れば、ずっと僕を見ていたのか、大きな瞳とぶつかる。

「さあ、フェル。早速、私と遊びましょう! じいや、オルヴァー。フェルを連れてくわね」

 言うなりクリスティーナの手が僕の腕を掴んだ。

 え、いきなり何なの?  

 凄い力で引きずられ、助けを求めるようにセルやオルヴァーを振り返れば、二人とも口をあんぐりと開けているだけで、まるで役に立たない。

 というか、クリスティーナが言った『じいや』ってセルのこと?  確かにセルは、白髪頭で髭も真っ白のおじいちゃんだけど、君とは初対面でしょ?  なのに、いきなりの『じいや』呼び?

 そんなことを考えているうちに、僕は何故か森の中にいて、ポニーの上に乗せられていた。

 前に座らされた僕の背後から、腰に回されるクリスティーナの左手。右手は手綱を掴んでいて、これじゃ男の僕の方が守られているみたいで、屈辱的で格好悪い。

 ──常に男らしくいろ。死すらも恐れない強い男であれ。

 口癖のようにいう父上の声が聞こえたような気がして、後ろを向き抗議しようとした、その時。

「行くわよっ!」

 声高に叫ばれ、突如としてポニーが駆け出した。

 瞬く間にスピードが加速し、物凄い勢いで風を斬っていく。

 騎馬訓練を怠ったことはないけれど、そんなものとは比べられないほどの速さ。こんなポニーなんて知らない!

 右へ左へと完璧な手綱捌きで木を避けるけれど、スピードは全く落ちない。どころか、また速くなったんじゃ……。

「っ!」

 体験したことのない危機感にせり上がりそうになる悲鳴を、寸でのところで歯を食いしばり堪える。

 一体、こんなのがいつまで続くのか。いつまで悲鳴を飲み込み堪えられるのか。いよいよ限界も近いと思った時、目の前の景色が突然開けたのが分かった。

 崖だ!

 この先に木がないのは当然だった。崖に切り取られたようにある森の終着点。そこにあるのは、どこまでも広がる空と、ここからは見えないけれど、覗けば遥か下に景色があるのだろうと想像できて、『このままだと落ちる』と堪らず僕は目を閉じた──。

 …………あれ。

 崖から落下していく感覚がない。
 斬るような風も止んでいる。撫でるような爽やかな風が通りすぎていくだけだ。

 恐る恐る目を開ければ、ビクリと体が跳ねた。
 真っ先に目に飛び込んできたのは、後ろから僕を覗きこむクリスティーナの顔で、真正面の景色は、切り取られた森があるだけの変わらないまま。広がる空も変わらない。ポニーの足元も確認すれば、崖の一歩手前で止まっていて、小石だけが崖を転げ落ちていく恐怖を誘う音が聞こえた。

 益々体に緊張が走った。少しでも動けば落下してしまいそうだ。

「うーん、駄目か」

 そんな恐怖と戦っている僕を見て、クリスティーナが唸っている。

「よし、次行こう!」

 何が駄目で、何が次なのか。それを訊く前に今度は山の斜面に立たされていた。緊張でガチガチになった体は、ポニーから降りることも出来なかったはずなのに。

「どうして、いつの間に……」
「私、魔法が得意なの」

 自覚はなく零れ落ちていたらしい言葉に、クリスティーナがウィンクをしてみせる。

 つまり、魔法が得意なクリスティーナに、瞬間移動させられたらしい、ということは分かった。多分、あのポニーの異常な速さも魔法だ。

 でも、それ以上を考える暇もなく、『次』はやってきて──。




「えー、まだ駄目!?」

 待ったなしで『次』に巻き込まれた僕の足は、地上に着いても踏ん張るのが精一杯で、力を抜けばへたりこみそうだった。

 クリスティーナの『次』は、山の中を、多分魔法で操っただろうロープで、木から木を渡るという大技だった。その内何回かは、地上が反転していたから空中回転していたのだと思う。

 こんな乱暴な遊びに付き合わされているというのに、『えー、まだ駄目!?』と言うクリスティーナは、僕が声を上げて怖がらないのが不服なのか、更に丘からシーツで駆け下りるという次の策に打って出た。

 だけど、立て続けの乱暴な遊びは流石に限界で、あり得ないスピードで斜面を駆け下り、更には大きなコブに乗り上げ、そのまま宙に放り出されたところで、僕の意識は一瞬途切れた。


「フェル?  フェル大丈夫?」

 誰かが呼ぶ声に目を開ければ、探るように僕を窺うクリスティーナの顔があって、ぼっーと見ていると、段々と視界が滲んでくる。

 もしかして泣いてるから?  だから、滲んで見えるの?

 まだ状況が分からない中、涙を浮かべてしまっているのかもしれないと焦り、それだけは駄目だと急いで目尻を拳で拭った。

「フェル?  これは生理的な現象で涙が出ただけよ?  あれだけのスピードで駆け抜けたんだもの、目が乾くのを保護するために出た涙よ。だから泣いてもいいの。誰もフェルを叱ったりしないわ」

 僕は大きな木の下に座らされていて、合わせるようにしゃがみこんんでいるクリスティーナの顔は、今日初めて見る真剣な眼差しで、何だか口調も大人っぽかった。

「私もね、本当は泣いちゃいけないの」
「……どうして?」

 思っても見なかった話に、思わず聞き返してしまう。

「感情を乱すと魔力暴走するかもしれないから。でもね、我慢しなくていいのよって。泣きたい時は一杯泣きなさいって、そうしないと心が壊れちゃうんだって。お母様がそう言ってたわ。だからね、悲しい時は、結界と魔力を吸収する魔法がかけられている部屋で、一人で思い切り泣くの」

 僕よりも年下の女の子が、たった一人で?

「いっぱい泣いたあとはね、お腹が空くの。その後に食べる苺とケーキはとっても美味しいのよ?  それでね、また頑張ろうって思うんだぁ」

 だから、フェルも泣いていいのよ?  って続けたクリスティーナに、否定するように首を振る。

「僕は男だから、そんなことは許されない。父上に叱られる」

 自分の情けない声が嫌になる。そんな僕とは違って、クリスティーナが声を強めた。

「そんなもの、アデインの国王陛下が間違ってるわ!」

 驚いて目を見開く。いくら王女でも他国の国王を否定するのは危険なことだ。
 なのに、クリスティーナは止めようとはしなかった。

「絶対に間違ってる。フェルの心を守るのが一番大事だもの。きっと……お祖父様も心配してるわ」

 驚きで胸が詰まる。もしかして──もしかして知ってるの?

「誰も見てないわ。私にも見えない。だから泣いても大丈夫」

 そう言ったクリスティーナは、膝立ちになって僕の頭をお腹に抱え込んだ。

 柔らかくて温かくて、クリスティーナに包み込まれながら、『ああ、そうか』と思う。生理的な涙だって言ってたけど、わざとそう仕向けたのかもしれない。僕が泣けないから、それを知ってたから、だから僕が泣けるきっかけを作るために、あんな乱暴な遊びを……。

 そう思ったら我慢出来なかった。胸の奥が苦しくなって、今にも喉を突き破りそうだった。

 いつだって僕の頭のどこかには、父上の声がこだましている。

『おまえは、いざとなったら二人の兄の盾になれ。おまえの命を捨ててでも守れ』

『軟弱な男など必要ない』

 そして、そんな僕を守ってくれていたのが大好きなお祖父様だった。

『死ぬのを恐れぬのが強さじゃないぞ、フェルよ。おまえは心優しい良い子だ。心優しくいられるのも、人としての強さの一つだ。そんな優しいおまえが居なくなったら儂は悲しい』

 でも、僕がいなくなったら悲しんでくれるはずのお祖父様は、三ヶ月前に死んてしまった。

「……いないんだ、もう。僕が死んでも悲しんでくれる人は、もういない」

「じいややオルヴァーが悲しむわ。それに私も。悲しくて悲しくて場所も考えずに、きっと泣いちゃう。そんなことになったら、私の魔力暴走で、アデインなんて簡単に滅ぼしちゃうんだから」

 言ってることは過激なのに、僕の頭を撫でる小さな手は、堪らなく優しかった。

 かつて、何度も僕の頭を撫でてくれた、お祖父様の大きくてゴツゴツとした手。それとはまるで違う感触だけれど、そこから伝わってくるあったかいものは同じで……、僕は我慢出来ずに、お祖父様が亡くなってから初めて声を上げて泣いた。

 泣いて泣いて、声が枯れるまで泣いて。その間ずっと、小さな手が僕の頭から離れることはなかった。

しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

王子殿下の慕う人

夕香里
恋愛
エレーナ・ルイスは小さい頃から兄のように慕っていた王子殿下が好きだった。 しかし、ある噂と事実を聞いたことで恋心を捨てることにしたエレーナは、断ってきていた他の人との縁談を受けることにするのだが──? 「どうして!? 殿下には好きな人がいるはずなのに!!」 好きな人がいるはずの殿下が距離を縮めてくることに戸惑う彼女と、我慢をやめた王子のお話。 ※小説家になろうでも投稿してます

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

【完結】皇太子の愛人が懐妊した事を、お妃様は結婚式の一週間後に知りました。皇太子様はお妃様を愛するつもりは無いようです。

五月ふう
恋愛
 リックストン国皇太子ポール・リックストンの部屋。 「マティア。僕は一生、君を愛するつもりはない。」  今日は結婚式前夜。婚約者のポールの声が部屋に響き渡る。 「そう……。」  マティアは小さく笑みを浮かべ、ゆっくりとソファーに身を預けた。    明日、ポールの花嫁になるはずの彼女の名前はマティア・ドントール。ドントール国第一王女。21歳。  リッカルド国とドントール国の和平のために、マティアはこの国に嫁いできた。ポールとの結婚は政略的なもの。彼らの意志は一切介入していない。 「どんなことがあっても、僕は君を王妃とは認めない。」  ポールはマティアを憎しみを込めた目でマティアを見つめる。美しい黒髪に青い瞳。ドントール国の宝石と評されるマティア。 「私が……ずっと貴方を好きだったと知っても、妻として認めてくれないの……?」 「ちっ……」  ポールは顔をしかめて舌打ちをした。   「……だからどうした。幼いころのくだらない感情に……今更意味はない。」  ポールは険しい顔でマティアを睨みつける。銀色の髪に赤い瞳のポール。マティアにとってポールは大切な初恋の相手。 だが、ポールにはマティアを愛することはできない理由があった。 二人の結婚式が行われた一週間後、マティアは衝撃の事実を知ることになる。 「サラが懐妊したですって‥‥‥!?」

【完結】彼を幸せにする十の方法

玉響なつめ
恋愛
貴族令嬢のフィリアには婚約者がいる。 フィリアが望んで結ばれた婚約、その相手であるキリアンはいつだって冷静だ。 婚約者としての義務は果たしてくれるし常に彼女を尊重してくれる。 しかし、フィリアが望まなければキリアンは動かない。 婚約したのだからいつかは心を開いてくれて、距離も縮まる――そう信じていたフィリアの心は、とある夜会での事件でぽっきり折れてしまった。 婚約を解消することは難しいが、少なくともこれ以上迷惑をかけずに夫婦としてどうあるべきか……フィリアは悩みながらも、キリアンが一番幸せになれる方法を探すために行動を起こすのだった。 ※小説家になろう・カクヨムにも掲載しています。

【取り下げ予定】愛されない妃ですので。

ごろごろみかん。
恋愛
王妃になんて、望んでなったわけではない。 国王夫妻のリュシアンとミレーゼの関係は冷えきっていた。 「僕はきみを愛していない」 はっきりそう告げた彼は、ミレーゼ以外の女性を抱き、愛を囁いた。 『お飾り王妃』の名を戴くミレーゼだが、ある日彼女は側妃たちの諍いに巻き込まれ、命を落としてしまう。 (ああ、私の人生ってなんだったんだろう──?) そう思って人生に終止符を打ったミレーゼだったが、気がつくと結婚前に戻っていた。 しかも、別の人間になっている? なぜか見知らぬ伯爵令嬢になってしまったミレーゼだが、彼女は決意する。新たな人生、今度はリュシアンに関わることなく、平凡で優しい幸せを掴もう、と。 *年齢制限を18→15に変更しました。

皇太子夫妻の歪んだ結婚 

夕鈴
恋愛
皇太子妃リーンは夫の秘密に気付いてしまった。 その秘密はリーンにとって許せないものだった。結婚1日目にして離縁を決意したリーンの夫婦生活の始まりだった。 本編完結してます。 番外編を更新中です。

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

拝啓、許婚様。私は貴方のことが大嫌いでした

結城芙由奈@12/27電子書籍配信中
恋愛
【ある日僕の元に許婚から恋文ではなく、婚約破棄の手紙が届けられた】 僕には子供の頃から決められている許婚がいた。けれどお互い特に相手のことが好きと言うわけでもなく、月に2度の『デート』と言う名目の顔合わせをするだけの間柄だった。そんなある日僕の元に許婚から手紙が届いた。そこに記されていた内容は婚約破棄を告げる内容だった。あまりにも理不尽な内容に不服を抱いた僕は、逆に彼女を遣り込める計画を立てて許婚の元へ向かった――。 ※他サイトでも投稿中

処理中です...