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103. アイツと俺との離れた時間-1

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 マンションのエントランスを抜け外に出れば、今日も厳しい暑さを予感させる太陽と、

「おはようございます」
「おはようございます、専務」
「あぁ、おはよう」

 迎えの車から下り立つ運転手と秘書に出迎えられる。

 教師を辞めてから三度目の春が通り過ぎ、今は盆前の夏真っ盛り。
 クールビズ推奨の時代と言えども、完全な暑さからは逃れられず、汗を拭いながら通勤するサラリーマンからすれば、俺の出勤スタイルは羨ましいことこの上ないだろう。
 が、しかし。俺は、暑さからは逃れられても、時間からは逃れられない。
 上場企業の役員という立場上、安全面が考慮されての車通勤ではあるが、代わりに、こうして朝っぱらから逃げ道を塞がれ秘書達に拘束される。

「本日のスケジュールですが──」

 車が滑らかに走り出すと、秘書が手帳を開き今日の予定を読み上げていく。それを頭に刻みながら、車窓から覗く人の波を見て、俺もスーツを着込んで教師時代には徒歩通勤もしたっけ……と、もう遠い昔のようにも感じる当時を思い出す。
 そう懐かしめるのは、この生活にもいくらか余裕が持てるようになったからだ。
 正直、この約三年間は、仕事以外の思い出なんて記憶にないほど、仕事漬けの日々だった。
 しかも、人間業を遥かに超えた殺人的ハードスケジュール。子供の頃より跡取りとして帝王学など様々な知識は叩きこまれてはいたが、いざ会社に入れば半人前にも満たない、ただの若造で、重役の中には口調こそ穏やかだが、明らかに蔑んだ目で見る奴もいた。
 せめて、そんな目を払拭出来るだけの力をつけなければ。それもなるべく早く、最短距離で。そう考えれば、必然的にハードスケジュールになるのも致し方のないことで、一分一秒さえ惜しい俺は、執務室のソファーで寝る事もしばしばだった。
 たまにマンションに帰っても、一人の時間を楽しむ余裕なんてものはなく、疲れ切った身体を横たえるだけのもの。それも、数時間後には起きて出勤するという、実際には身体を休められたのかどうか疑わしさ満載の生活の繰り返しで、よくぞ過労死しなかったものだと我ながら思う。


 そんな生活がやっと実になり始めたのか、時間にも精神的にも、どうにかこうにか余裕を感じられるようになったのは、ここ半年ぐらいの話だ。
 だからこそ、今になって痛感する。
『こんな時間はずっと続かない』と、N.Y行きを決めた奈央が言った意味を。
 忙しさから逃れられない俺は、あのまま奈央との関係を変わらず継続していたとしたら、きっと何かを見失っていたかもしれない。
 奈央との時間を確保することさえ容易じゃない環境下で、俺も奈央も互いを気遣って、無理をして、疲弊して……。そして、一番望まない結果を招きかねなかったかもしれないと。
 そんな近未来を、誰よりもいち早く察知していたのが奈央だ。そうやって冷静に判断出来る奈央は、今更ながら凄い女なんだと思い知らされる。
 皮肉なことに、何よりも大事な奈央が傍にいなかったからこそ、俺は仕事だけに集中する事が出来たし、基礎を固める事も出来た。
 お陰で今は、俺に対する蔑む目は無くなりつつある。代わりに、俺の存在を疎ましく思う奴等は現れはしたが、それは力をつけたという何よりもの証拠だと思っている。
    そんな目がある以上、油断ならない緊張を強いられる日々であることには変わりはないのだが⋯⋯。

「───本日の予定は以上です」

 車内でのスケジュール確認と簡単な打ち合わせを終え、秘書が手帳をパタンと閉じると同時、辿り着いた自社ビルへと足を踏み入れる。

「おはようございます」

 受付で立ち上がり向けられる女の笑顔。油断出来ない日々の中で、今のところ唯一、心が休まる瞬間だ。この笑顔を見ると、充実感さえ感じられる。
 周りからの評判も上々で、隙なく作られた綺麗な笑顔は、頑張れ! と背中を押してくれているようで、自然と気が引き締まる。
 戦場とも言えるこの場所で、俺の味方であると分かるその笑顔。

 ───但しそれは、朝だけの事に限る。

 アイコンタクトで、おまえも頑張れよ! と、思いを乗せ笑みを返す。すぐさま戦闘態勢へと切り替え表情を険しくさせた俺は、しかし秘書から告げられたスケジュールを思い出して、受付を視界の端に置きながら、ふと考える。
 今夜は、こいつから連絡があるに違いないと……。





 分刻みで仕事をこなし、面倒でしかない顔繋ぎ的な夜の付き合いも今夜はなく、珍しく早く仕事が終わった夜の九時。それは、朝に予想した通りの展開となった。
 見計らったように、静かな執務室にスマホの呼び出し音が鳴る。確認するまでもない。相手は誰だか分かりきっている。
 スマホの画面をスワイプし耳にあてれば、『もしもし』さえも言わせぬ相手は、

「いつものところにいるから」

 用件だけを口にし、一方的に通話を遮断した。────毎度のことだ。

「一言ぐらい喋らせろ!」

 途切れたスマホに向かって俺が文句を吐くところまでがセットで、これまたいつものことだったりする。
 しかし、途端に俺は心が浮き立つ。頬は緩み、馬鹿みたいにはしゃぎたくなるほどに。
 朝の笑顔は、錯覚だったのかもしれないと思えてくるほど、就業時間が終わや否や愛想を消し去る女ではあるけれど。そいつと話す時間は、今の俺に最大限のパワーを与えてくれる源になっているのは間違いない。

「お疲れさまでした」

 秘書の言葉を背中に受けた俺は、労いもそこそこに急いで執務室を出て駆け出した。


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