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86. 見つめる未来-6

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 俺が沢谷として生きて行く道は、決して平坦なものじゃない。沢谷の一人息子だからというだけで、ふんぞり返っていられるほど甘くはない。

 それを良く知ってるのは…………そうだ、奈央だ。

 奈央の実の父親は、会社再建のために身を粉にしてきた。力をつける為に必死になって、その結果、守ろうとした家族を失った。
 勿論、奈央の父親と俺の立場には違いがある。でも、いつ何が起きるか分からない社会情勢を考えれば、危うい世界であるのは間違いない。
 これから激務になるだろう俺を予測し、負担になりたくない奈央は、だから足枷になるって言い方をしたんじゃないのか?
 どんな状況に陥ろうとも、奈央だけは守るという気持ちに揺るぎはないが、果たして、それを奈央に信じろと言えるだろうか。
 黙って傍にいろ、大丈夫だって、言い聞かせられるだろうか。
 奈央達を守り、迎えに行くと心に決めていた実の父親でさえ、厳しい世界に運命を翻弄され叶えられなかったのに……。
 ずっと信じていた奈央に待っていたのは、あるべきはず家族の形を失った、哀しい現実だ。
 そんな経験をした奈央が、それだけ過酷な世界だと身を以て知っている奈央が、俺の傍に黙っていられるはずはないんじゃないのか?

 だから奈央は……動き出した?

 待っているだけじゃなく、自らも知識を得るために、力をつけるために。

『私はもう、守られるだけの子供じゃない────』

 立てた予測を裏付けるように、奈央の放った言葉が蘇る。
 約束は不確かなものだと、待つだけしかできなかった悲しい過去に、奈央は嫌だっていうほど思い知らされている。
 それでも、その畏怖すら感じるだろうこの世界に飛び込もうとするのは、父親に歩み寄りを見せるだけじゃなく、もしかしたら、俺が描いたように、奈央も俺との未来を見据えていたからだとしたら?

『私は、敬介のことが良く分かるよ。私も同じ。私も敬介と同じように思ったの』

 蘇り続ける奈央の言葉。
 グラスを伝う水滴のように、俺の背中にも冷たい汗が滲む。
 この都合良くも思える考えが、もし本当だとすれば……。そう思うと愕然となった。
 目先ばかりに囚われていたのは、俺だ。
 奈央がいなくなると言う現実だけに恐れをなして、奈央の考えを理解しようともしなかった。
 出来る限りの言葉で奈央は伝えてくれていた。こんなにも同じだった。こんなにも想ってくれていた。

 そんな女に俺は一体何をした?

 無理やり押し倒しただけじゃない。勿論、それも最低な行為には違いないが、アイツが、奈央が、それよりも傷つくのは……。

 ─────背を向け、置き去りにされることじゃないのか?

 出逢った時、『行かないで……』と、熱に侵された身体で、うわ言のように眠りながら涙を流した姿が脳裏を掠める。
 立ち去る事しか出来なかった父親や裕樹の背中を見て来た奈央に、俺は同じようにして家を出てこなかったか?
 奈央の呼ぶ声に、振り向きもせずに……。




 バタンと椅子が倒れるのも構わず立ち上がり、周りの視線を浴びても気にも止めず出口へと向かう。
 会計する時間さえもどかしくて、釣りも貰わず店を出た。
 店を出れば急ぎたい俺を邪魔するように、タクシーは一台も流れてなく、絡みつく風を鬱陶しく感じながら、もつれる足に指令を出し走り出す。
 走っても走っても遠くに感じる道のり。それでも、ひたすらに走った。
 酒が沁み入った身体に感じる激しい動悸も無視して、奈央を置き去りにして来た家へと向かって……。



 鍵を差し込み開けた家の中は暗い。
 もしかして、自分の部屋に帰ってしまったのか。それとも、寝てしまっているだけか。リビングに居ないことを確認して、続けて寝室へと向かい、その扉のノブを静かに回す。
 ゆっくりと開く扉の隙間。その先にあったのは────月の淡い光だけが差し込むベッドの上で、膝を抱えうずくまる奈央の姿だった。

「奈央」
「…………敬介」

 顔を上げた奈央の元へと駆けより、ベッドに座る。

「奈央、知ってたのか? 俺が沢谷の人間として生きていくって」

 コクンと頷く奈央を抱きしめたくて、反射的に伸ばした手を慌てて空中で止めた。

「何にもしない。変な事はしねぇから、抱きしめてもいいか?」

 今夜、自分のしたことを思い、恐る恐る尋ねれば、

「……敬介が…………いなくなるかと思った」

 答える代わりに消え入りそうな声でそう言った奈央が、俺の胸に飛び込んでくる。
 首に巻きついてくる奈央の細い両腕。受け止めるように、俺も奈央の腰と頭に手を回し、二人の隙間を埋めるよう強く抱きしめる。

「ごめんな、奈央。ごめん」
「………」
「ちゃんと分かったから、分かったからな?」

 俺が言えば言うほどに、奈央のしがみつく腕には力がこめられた。
 その夜。俺達はきつく抱きしめ合いながら眠った。せめて今だけは離れることがないようにと、湧き溢れる熱い感情を胸に抱いて。





 それから一週間後。

「俺からのラブレターだ」

 誰もいなくなった教室で、俺はそれを奈央に手渡した。
 誰よりも奈央を理解し、想いを込めて書いた────推薦状を。

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