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84. 見つめる未来-4

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 その日も学校が終わり家に帰れば、当然のように奈央がいた。
 二人で食事を摂り、食後の片付けが終われば、奈央はダイニングテーブルに参考書を並べる。
 俺は意味もなくPCを弄り時間をやり過ごして、適当な頃合いになると風呂に入った。
 風呂に入ったところで、たいして時間は流れない。基本、長風呂が出来ない俺は、どんなに頑張っても二十分が限界だ。
    風呂から上がり、冷蔵庫から缶ビールを取り出して、まだ勉強を続けている奈央の横を通ってソファーへと腰を下ろす。
 プルタブを開け、プシュッ、と弾ける音を鳴らす缶を口に付けて、体内へと一気に流し込む。

「ねぇ?」

 俺に背中を向ける形で勉強していた奈央が、振り返って声を掛けてきた。

「ん?」

 奈央に視線を合すと、奈央はスーッと立ち上がって近づき、俺の隣へと座った。

「敬介、最近お酒飲み過ぎ。あまり食べてもないのに、身体壊すよ?」

 ……誰のせいだと思ってんだよ。

 内に宿る思いを殺し、

「大丈夫だ。そんな飲んでねぇよ」 

 心配する奈央を無視して、残りのビールも流し込む。

「大丈夫じゃない。気付いてないとでも思った? 夜中に飲んでるのも知ってる。それが出来ないなら、せめてベッドで寝て。そんなんじゃ、疲れだって取れない」

 ここ数日は、奈央よりも先に目が覚めていた。
 ソファーでは寝付けないと言うより、悩める思考が眠りを浅くしているのか、自然と早くに目が覚めてしまう。
 だから、気付いていないと思っていた。
 ぐっすり寝ている奈央に悟られないよう、静かにベッドから出て、奈央が起きる前には空き缶を片付け、着替えも済ませ、ソファーに寝ていた形跡だって残してはいない。
 ただ単に、早起きしているくらいにしか認識していないだろうと踏んでいただけに、ソファーで寝ていることも飲んでいることも知っていた奈央に、少しだけ驚く。

 でも、だったら分かんだろ、って思う。分かんねぇはずないだろ、って。

「……寝れねぇんだよ」
「…………」
「留学の話訊いて普通にしてられるほど、俺は出来た人間じゃねぇからな」
「…………」
「そんな俺とこんな風に過ごして、何の意味がある? 俺は奈央みたいに振舞えねぇよ。失うのを分かっていながら、こんな風に過ごしたって、余計辛くなるだけだ」

 空になった缶を握り潰す。
 心は奈央を求めるのに、感情がそれだけじゃ許さない。
 傍にいて欲しいのに叶わないのなら、いっそ今から離れた方が良い。そんな考えに埋め尽くされる。
 でも結局、それさえも口に出来ずに、混乱の渦から抜け出せないでいる俺を、

「それでも私は大切にしたい。例え辛くても、敬介との今を大事にしたい」

 揺さぶるように、更に奈央が追い詰めていく。

 ……だったら、黙って傍にいろよっ! 簡単なことだろがっ!

 一気に昇りつめぜる感情。
 それだけに支配された俺は、奈央をソファーに押し倒し、片手で細い両手首を頭上で拘束すると、強引に唇を重ね合わせた。



 無理やり唇を奪ったのに、奈央は抵抗を見せずに微塵とも身体を動かさない。

「何で抵抗しねぇんだよ。嫌がれよ。嫌がんねぇなら、ずっと傍にいるって言えよ!」

 唇を離し、組み敷いたまま見下ろした奈央の目には、怒りどころか動揺の色すら浮かんでいない。
 動じない奈央を壊したくて、俺は右手で奈央の顎を掴み、噛みつくように再び唇を重ねた。
 それは、二人が過去に交わしたキスとは全く違う行為。
 舌をねじ込んで、強引に奈央のものを掬い取り絡み合わせる。奈央の全てを奪うように吸いつき、奈央が逃げれば歯列をなぞった。
 角度を変え、水音を響かせ、聴覚にも刺激を与えるように口内を攻め続ければ、息が上がったのか奈央の肩が揺れ、俺はやっと唇を離した。
 なまめかしく濡れる、赤く色づいた奈央の唇の隙間から零れた吐息。でもそれは、乱れて喘ぐ様とは程遠く、呼吸を整えるためだけでしかない。その余裕が余計に俺を煽る。

「これ以上、俺が何にもしないとでも思ってんのか!」

 責めるわけでもない奈央は、黙ってただ真っ直ぐに俺を見ている。

「何でそんなに余裕でいられんだよ!」

 声を張り上げた俺は感情に流されるまま、拘束していた奈央の手首を解放すると、両手で奈央のシャツを力任せに引き千切った。
 ボタンは弾け飛び、きめ細やかな綺麗な白い肌が晒される。ブラジャーに守られた二つの膨らみも露わになって、そして──────動きを止めた。






 動きを止めさせたのは、キラキラと輝く光。それは、俺が送ったダイヤのネックレスだった。
 白い肌の上で眩しく輝くこの石が、そこに託した自分の想いを呼び覚ます。
 俺の怒りは一瞬にして熱を冷まし、我に返ったように息を飲んだ。

「……敬介?」
「……」
「私は、実の父がいる世界を見てみたいと思った」

 俺の変化に気付いたのか、今まで閉ざしていた奈央が、俺を見つめたまま口を開く。

「向こうで最高峰の経営学を学んで、あの人のいる世界に近づきたい。家族を犠牲にしてまでも守らなきゃならなかった、あの人がいる世界に……」
「…………」
「私はもう、守られるだけの子供じゃない。歩み寄ろうと、理解しようとする力を持つ事が出来るはず。だから……、敬介に何て言われても、私は留学を諦めるわけにはいかない」

 意志の強さを含んだ瞳を、奈央は片時も逸らそうとはしない。
 でも、次の瞬間。

「留学の事は譲れない。でもね、敬介が望むなら好きにしていい。……抱いてもいいよ?」

 眉を下げ哀しげな色を纏った奈央は、ゆっくりと両手を伸ばし、

「だから、そんな辛そうな顔しないで。私は、どんな敬介でも受け入れるから」

 慈しむように、そっと俺の頬に触れた。
 小さな手の温もりが俺の怒りの熱を奪い、同時に後悔の波にさらわれ、心の中が荒れ狂う。

 咎めもせず、情ある眼差しで見ないでくれ。無理やり抱こうとした最低の男に、そんな目を向けるな。
 こんな風に抱きたかったわけじゃない。誰よりも何よりも大切にしたいと、初めて心から思った女だ。
 それが愛情で包んでやるどころか、愛憎のみに塗れて、自らの手で汚そうとしたなんて。
 思い通りにいかない苛立ちを消化する為だけに、浅ましくおぞましい行為に出た俺は…………、最低だ。

 自分の愚かさに、身体の力が奪われて行く。
 力を失った腕を振りしぼり、奈央の両手を退どけ、肌蹴たシャツを整える。

「悪い」

 一言だけ告げ、フラフラと立ち上がった俺は、見上げる奈央の顔をまともに見れず寝室へと逃げ込んだ。


『────そんな辛そうな顔しないで。私は、どんな敬介でも受け入れるから』


 一人籠った空間で、奈央の言葉がリフレインする。
 そう言った奈央の顔も辛そうで、哀しげで。その顔が脳裏から離れない俺は、拳を壁へ叩きつけた。

 ……どうしようもねぇな。

 拳が切れ、伝う一筋の赤い血。痛みなんて感じない。それよりも、悲鳴を上げるように、激しく鼓動する胸に宿る悲しみが辛かった。




「……何処……行くの?」

 寝室から出てきた俺が着替えてるのを見て、遠慮がちに問う奈央に

「…………頭、冷やしてくる」

 避けるように目を逸らす。

「敬介!」

 玄関へと向かう俺の背中を追うように届く奈央の声。
 それさえも無視した俺は、振り返りもせずに家を出た。

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