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52. 感情の矛先-2

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 通勤には、その時の気分と時間によって徒歩か車かを選択しているが、今日は歩きだった。
 秋の夜長を、ゆったりとした足取りでマンション前まで帰り着けば、見知った姿が街灯に照らされていた。

「敬介!」
「……里美?」
「良かった!」

 マンションの近くには里美の愛車が停まっていて、その横に立っていた里美が、俺の姿を見つけるなり駆け寄ってきた。

「何だ、どうした?」
「ちょっと酷いんじゃないの?」

 いきなり睨まれても、何を責められているのかさっぱり分からない。

「何でここにいんだよ」
「私だって来たくて来た訳じゃないわよ。だけど、しょうがないじゃない? 電話したら解約されてるし。いつの間に変えたのよ、番号!」

 そうだった。去年のクリスマスイヴにスマホを無残に壊し、番号変更を伝えてもいなければ、そもそも教える気もなかった。
 里美も俺のスマホが変わったとは思ってもみなかったのだろう。前回、会った時も訊かれもしなかった。

「まったくもう! 変わったんなら、せめて里美さんくらいには教えなさいよ。薄情者」
「あー、でも、俺も連絡の取りようなかったし。スマホぶっ壊しちまったからな」
「はぁ?」

 呆れたように俺を見上げた里美だったが、すぐに何かを察したようで、

「凄い思い入れよう。女狐を全部切ったって訳ね……って事は私もか!」

 可笑しそうにぷっと噴き出した。

 ……うるせぇ。間違っちゃいねぇけど。

「で? 俺に何か用か?」
「あっ、そうそう。はいこれ。敬介のでしょ?」

 里美に渡されたのはA4サイズのマルタック封筒。

「昨日、またあの店に行ったのよ。そしたら、私達がいた席にこれがあったってマスターに言われてね。私のじゃないから敬介のかと思って。大事なものなら大変でしょう? だからこうして届けに来たわけ」

 手渡された茶封筒。確かに俺のだ。しかし……。

「里美、悪い。中身チラシ」
「はぁ~?」

 留めてあった玉ひもを解き、封筒から中身を取り出して、ヒラヒラさせながら里美に見せた。

「何よこれ。大事なものじゃなかったの?」
「まぁ……」
「敬介、いつから主夫になったのよ」

 ガックリと頭を垂らす里美。
 ヒラヒラさせたそれは、学校近辺のスーパーの折り込みチラシだった。
 文化祭で、やきそばの屋台を出すことになっている我がクラス。材料をどこで調達するか、その参考までに集めたものだと説明すると、

「生徒の個人情報でもあったら大変と思って、急いで来てあげたのに!」

 また睨まれる。

「悪いな。ポストにでも入れといてくれりゃ良かったのに」
「そうね。私もそう思ったわ。でもね、マンションは知ってても、上げても貰った事のない部屋の番号まで知らなくてねッ!」
「……」

 火に油。向けられている目が一段と細まり、余計に怒りを煽ってしまったらしい。

「わ、悪かったって」
「今日は旦那様と食事に行く約束してるのに、時間ない所わざわざ届けに来てあげたのよ。感謝しなさいよね」
「ホント、悪い」

 何とか穏便に済まそうと謝っていると、里美の背後に人の気配感じ目を向ける。

 アイツっ! 何で一人で帰らせてんだよ!

 距離と夜のせいで顔までははっきり見えなくても、間違えるはずがない。制服のままこちらに向って歩いて来るのは、誰も隣に置かず一人帰宅する奈央だった。

 寄り道でもしてたのか? 芹沢はどうしたんだよ?

 芹沢が送らなかったことに沸き立つ苛つきと、その理由について尋ねる事が出来ないもどかしさ。気にするなというのが無理な話で、俺は奈央が歩いてくる方に何度も目線をチラチラと飛ばす。
 そして、そんな俺に気付きもしない里美は、お構いなしに惚気トークに勝手に突入していた。

「今日はね、旦那の誕生日なのよ。お互いに仕事で遅くなっても、今日だけは一緒に食事しようってなってね。これからディナーを楽しむ予定なの」
「……良かったな」

 心此処にあらずで適当に相槌しても、気になるのは奈央の事ばかり。
 こんな所で里美といるところを見られたら、更に誤解の上塗りだろう。寧ろ、俺と里美の関係が間違いないものだと確信すら持つはずだ。

「それでね、」

 奈央を気に掛けながらも、わざわざ封筒を届けに来てくれた、嬉しそうに話す里美も邪険には出来ない。

「ああ、それで?」
「夜はスイートを予約してあるの」

 結婚してもまだ『恋してます』とでもいう風に、かつて俺の前では見せなかった、照れた顔で話す里美。

 ……アホらし。

 そう思っている間に、どんどん奈央と俺との物理的距離は縮まる。

「そりゃ良かったな。じゃ、早く行けよ。時間ないんだろ?」
「何か、素っ気なくない?」

 興味津々で聞く方が可笑しいだろ。

「もしかして、敬介ヤキモチ?」

 里美に対して、そんな感情を持ち合わせていないのを誰よりも知っていながら、ふざけた会話を続ける内に、奈央はすぐそこまでやって来ていた。

「馬鹿なこと言ってないでさっさと行けよ」

 何とか帰らせようと試みたが、事もあろうか、とんでもないタイミングで、とんでもない冗談を浮かれた里美が投下した。

「妬かない、妬かない! 敬介の方が上だから?」
「何が?」
「ベッドの上なら、敬介のテクニックの方が断然上っ……んっ!」

 何を言い出すんだッ!

 慌てて右手で里美の口を押えたものの、時既に遅し。奈央は里美のすぐ後ろにいて、何事もなかったように俺達の横を通り過ぎて行った。
 里美も人がいた為に口を塞がれたと認識したのだろう。抵抗もせずに、奈央がマンションに入って行く姿をずっと目で追いかけていた。

「ねぇ、今の女子高生。凄い綺麗な子じゃなかった? お人形さんみたいに何もかも整ってるって感じ!」

 奈央の姿が見えなくなると、押えていた俺の手を振り払い、口を開く里美。
 その目線は、奈央が消えて行ったマンションに向けられたままだ。

「ねぇ、今の話。絶対聞かれてたわよね?」

 あぁ、間違いなくな。よりによってお前、その時だけ声をでかくしてたしな。

「今の子って、みんなあんな感じなの?」

 視線を俺の元へ戻した里美が尋ねてくる。

「あんな感じって?」
「あの子、私の話聞いても全く動じないんだもの。慌てるとか照れるとかあってもよさそうなのに。ぜんぜん気にしてないみたいじゃない?」
「……」
「今の女子高生は、感情が乏しいのかしら?」

 そう言ってフッと笑った後で、里美は言葉を付け足した。

「まるで中身まで感情のないお人形さんみたい」

 ……アイツは人形なんかじゃねぇ。人を気遣う優しさだって持っている。苦しい事を苦しいと、辛い事を辛いと言えないだけだ。
 それに、楽しければ楽しいって、ちゃんと笑えるんだって俺は知っている。奈央は、人形なんかじゃねぇよ。

「どうしたの? 黙っちゃって。ヤダ、今の子が可愛いからって、オイタしようとか思ってないでしょうね。駄目よ、そんな事したら。仮にも敬介は教職者なんだから」

「……するかよ」
「ならいいけど。あっ、私そろそろ行かないと」

 里美は停めてあった車のドアを開けエンジンをかけると、

「じゃあね、敬介!」

 運転席へと乗り込んだ。

「あぁ。ありがとな」

 窓を開け手を上げた里美は、アクセルを踏み込み旦那の待つ温かい場所へと帰って行った。
 エンジンの音はあっという間に遠退き、静まり返った住宅街。一人立ち尽くした俺の頭の中は、里美の言葉が何度も蘇る。

『まるで中身まで感情のないお人形さんみたい』

 本当は、里美に言ってやりたかった。人形なんかじゃないと、直ぐに否定してやりたかった。しかし、それが出来なかったのは、俺の目にも、そう映ったからだ。
 大きな瞳は無機質にも見えガラス玉みたいだった。ピクリとも動かない仮面のような表情は、感情を知らない“人形”と言われても、否定出来るだけの温もりが見当たらなかった。
    挙げ句、歩くスピードも変えず、俺には一切意識を囚われず素通りして行った、更なるダメージの追い討ち。
 里美との関係を誤解される以前に、興味すら持たれていない空気のような扱いに打ちのめされる。
   
     ──アイツの中から、俺はもう排除されたのかもしれない。

 寂しさと悲しみ。様々な想いが去来していた。

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