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50. 終止符-3

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「誰かと違って、私、礼儀正しいから」

 俺に最後まで喋らせず、遮った林田の目は、その奥に怒りを宿しているようだった。

 ……そもそも、誰かって、誰を指してんだよ。それに、お前が礼儀正しいって、俺は今、初めて知ったぞ。

「愛想のない親友は、担任がいるのに気づいても、何も言わずに帰ったけどね」

 愛想のない親友って……まさか!

「いたのか? ここに奈央もいたのか?」

 この店にはもう来る事はないと思ってた奈央が、また此処に? どうして、何の理由でこの店に来る必要がある?

「アイツ、まさかまた馬鹿な真似……」

 林田が、不敵な笑みを作り俺を見る。

「心配? 安心してよ。話があって、無理やり私が呼び出しただけだから」

 昔のような真似はしてないんだな。

 焦りを感じた俺の心臓は、一先ず落着きを取り戻した。

「話があるなら、場所を選んで話せ」
「学校の奴等の目につきそうな場所じゃ、奈央が素を隠すじゃない。まぁ、人目のつかない所に来れば来るで、愛想なく無言のままだったけど。あっ、そう言えば、一言だけ喋ったっけ」

 意味あり気に溜めを作られれば、

「何だよ」

 先が気になり思わず促してしまう。

「あたしの話には、何も口を開かないって言うのに、あんた見て呟いてんの。『笑ってる』って。それから、抱き合ってるあんた達を見て、黙って静かに帰ってった」
「……」
「ホント奈央って愛想ないよね? 沢谷もそう思わない? 担任に言葉一つ掛けたっていいのにね?」

 挑戦的な嫌みの中で知る奈央の言葉に、反論する気は削がれた。
 奈央は里美と同じように、珍しいものを見たと思ったのだろう。
 奈央とこの店で会う以前から、奈央は何度となくこの場所で俺を見ていたはずだ。その頃の俺は、いつも満たされなくて、つまらない時間を繋ぐために酒を飲み、女と会って来た。この店で過ごした過去の中に、笑っていた俺なんて存在しない。そんな記憶は、手繰り寄せてもみつからないはずだ。
 それが皮肉にも、この場所で笑っていられたのは、奈央を脳裏に浮かべ想いを口にしていたからだなんて、バカ正直に言えるはずもなかった。

「挨拶も済んだんだ。林田もいい加減家に帰れ」
「沢谷はどうぞ彼女とお幸せに。それから今後、下手な同情で奈央には近づかないで」
「奈央なら、もう大丈夫だろ。林田もいるんだし、それに……芹沢がいる」

 辛い気持ちを封印し告げれば、怒りを露わにした林田は握りこぶしを作り、そのまま壁を叩いた。

「何も見ようともしないで、分かったような事言わないで!」
「……」

 ……見たから言ってんだよ。
    林田は、まだ奈央の中に芹沢に向ける憎しみがあると思ってるかもしれないけど、愛と憎しみは紙一重なんだって。

 そう思っても口に出すつもりのない押し黙ったままの俺に、最後まで鋭い眼差しを差し向け、林田は店を出て行った。



 林田が帰ってから一時間後。俺も里美と別れ店を出た。
 昼間に激しいほどの熱を落としていた太陽は、夜にまでその名残りを残していた夏のものとは違い、すり抜けていく風に、心なしか身に纏う上着にもの足りなさを感じる帰り道。酒のせいだけではないと分かる気だるい体にムチ打って歩く足音を、静かな暗闇に響かせていた。
 その足音がマンションが近くになるにつれ、自分のものだけではない事に気付く。
 徐々に大きく聞こえてくる、ヒールがアスファルトを刻む音。真っ直ぐ前を向けば、向かい合う形で逆の方向から歩いてくる姿が目に入る。

「……奈央」

 とっくに帰ったはずじゃなかったのか?

「こんな時間まで何やってんだよ」
「気晴らしに飲みに行ってた」

 いつもの調子で咄嗟に出てしまった説教じみた俺の問いに、サラリと悪びれた様子もなく答えた奈央は、足を止めるでもなくエントランスを潜って行く。
 後を追うように続いた俺は、ぐるぐると頭の中を駆け巡る思いを確かめたいのに、それを口に出せない。

 こんな夜中に一人でほっつき歩いて危ねぇだろうが! それとも、芹沢と一緒だった…とか? 何で飲みなんて行ってんだよ。今まで、そんな事なかったろ?

 言いたい事、聞きたい事があっても、教室で見た光景が邪魔をする。
 俺が入り込む事じゃないと自分に言い聞かせ、教師と言う立場で言えるものですら、俺は言葉を呑み込んだ。
 二人の間に残されたのは、気まずい沈黙。エレベータに一緒に乗り込んでも、お互い何も発しない僅かな時間は、やけに長く感じた。
 エレベータを降りれば、俺の部屋より手前にあるドアの前で立ち止まり、鍵を差し込む奈央。
 その後ろを通り過ぎ、

「……おやすみ」

 辛うじて絞り出した掠れた俺の声に、奈央の手が止まる。

「仕事じゃなかったんだ」

 自分の部屋の前にまで来た俺もまた、奈央の言葉によって、取り出した鍵を持つ手の動きを止めた。

「……俺も……気晴らし」

 決して、晴れやしないけど。

「そう」

 体はドアに向けたまま、首だけ少し動かし奈央の様子を窺えば、表情一つ手の動き一つ変化はなく、瞬きすらしていない様に見えた。

 再び訪れた静寂。ジッとしているには、居心地の悪さを覚えるこの時を打ち破りたくて、鍵穴にキーを差し込もうとした時。

「敬介、話がある」

 いきなり奈央に話を切り出され、思わず気持ちが逃げ腰になる。

「あぁ……。でも、もう遅いし──」
「時間は取らせない」

 ……止めろって。

「敬介。私、ヒロと──」
「良かったな!」

 俺達以外いないフロア一杯に、自分が思っていた以上の大きい声が響きわたる。
 遮られ、遮り……。奈央の口からは聞きたくなくて、耳を塞ぐ代わりに自らの偽りの言葉で抑え込む。

「奈央と芹沢、お似合いじゃん!」

 ……俺、ちゃんと笑えてるか?

「奈央も素直になれよ」

 ……そんな驚いた顔すんな。

「今度こそ、幸せにして貰え。芹沢、本気で奈央の事好きだって目してるし。もう離れんなよ」

 一気にたたみ掛けても反応はない。

「ほら、あれだな。俺達の関係も誤解を受けるとまずいし……そろそろ区切りつけないとな?」
「……食事は?」
「え?」

 奈央の言葉は先を見越すのが難しい。
 目だけで、どう言う意味だ? と促すように奈央を見れば、その視線はフッと逸らされた。

「約束したから……」

 ドアを見据えたままの奈央の小さな声。

 ……約束?

 分からずにいる俺に、目を伏せた奈央がその答えを口にする。

「夕食、私が作るって約束したじゃない。作らなきゃ、どうせコンビニで済ますんでしょ?」

 そんな約束、好きでもない男に律義に守り通す必要ないだろ!

「そんなこと気にしてんのか? 俺は子供か? 俺が料理作れんの忘れてんだろ? それに、お前に心配されることじゃねぇよ」
「……そうだね。今度は彼女に心配して貰って」

 彼女って、里美のことか。奈央も、アイツが俺の女だって、そう思ったのか? 奈央の事を考えてた俺の顔は、おまえにはどう映った? そんなこと知ったら、お前はどうする?

 聞いても困らせるだけの問いは胸に沈め、敢えて里美の事は否定も肯定もしなかった。

「居たんだってな、あの店に。それより、お前の方こそ葉っぱばっか喰ってんじゃねぇぞ? 体調管理しっかりろよ」
「余計なお世話」

    平坦な声で撥ね付けられ、いつの間にか表情が無と化していた奈央は、鍵穴からぶら下がったキーケースを引き抜き指先で弄りだした。
 何か言葉を重ねるべきか。『じゃあな』と言って、このドアの向こうへ入るべきか。自分の足元を眺めながら考えていると、いつの間にか奈央の靴が視界に入る。
 顔をゆっくりと上げれば、

「はい」

 と、それは俺の前へ差し出された。

「特定の人が見つかるまでは、遊んであげるって言ったでしょ。だから、もうおしまい」

 俺が奈央だけに預けていた、目の前でゆらゆらと不安定に揺れるそれは──俺達を繋いでいた合鍵だった。

『特定の人が見つかるまでは、遊んであげる』確かに、そんなこと言ってたよな。

 蘇るその時の記憶。
 酔っぱらって、奈央の部屋に押し掛けたクリスマスイヴの翌日に奈央に言われた言葉だ。
 そう言えばあの時。奈央は恋人を作るとも言っていた。今思えば、あの時から芹沢を前提として口にしていたのかもしれない。
 そんな事を思いながら、目の前で揺れている鍵を手に取る前に、俺も奈央の部屋の鍵を取り出した。
 お互いに差し出し出す形となった、二つのキー。
 交換していた鍵は、それぞれの持ち主の手に握り締められる。手の平に収まった小さくて硬い鍵は、やけにひんやりと冷たく感じた。

「じゃあ」

 装飾のない簡単な一言で俺達の関係に終止符を打った奈央は、何の感情も滲ませない表情のまま背を向ける。

「奈央……幸せにな」

 その背中を追いかけるように放った言葉に、奈央の足は一瞬ピタリと止まる。しかし、止まったのは本当に一瞬で。奈央は振り向く事なく、また歩き出す。
 その背中を呼び止めたい。肩を掴んで振り向かせたい。馬鹿みたいに溢れてくる衝動を抑え込むように鍵を開け「おやすみ」と言葉を残すと、奈央より先に部屋の中へと逃げ込んだ。

 バタン、と急いで閉めた玄関のドアに脱力した体を預ければ、少し遅れて聞こえてきた、もう一つのドアが閉まる音。
 それはまるで、俺達の関係を遮断する音にも聞こえた。

 誰もいない部屋。間接照明の頼りない明かりだけが灯るリビングに足を踏み入れれば、

「っ!」

 テーブルの上にあるものを目にして、その場に力なくしゃがみ込んだ。

「何でだよ………心配なんか……してんじゃねぇよ」

 胸は苦しくなり目の奥が熱くなる。誰もいない薄暗い部屋で天井を見上げ、油断すると込み上げてきそうになるのを止めたくて、目元を腕で覆い隠す。 
    ──テーブルの上には、要らないと言ったはずの、俺の分の食事が用意されていた。

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