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35. 儚き夏の日-4

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「もう! 顔にかかった!」

 しがみ付きながら文句を言う奈央を抱いたまま、波の高い浅瀬から、波が穏やかになる水位の高い場所へと移動する。

「ここなら大丈夫だろ」

 海面は揺ら揺らと穏やかに小波を立てるだけ。周りにいる人の数もまばらだ。

「でも降りられないじゃない」

 波の心配はなくても、俺の脇あたりにまである水位。俺と20cmほど差のある奈央の身長では、また顔に海水がついてしまう。

「落とされたくなかったら、大人しくしてるんだなぁ」

 ふざけ口調で言えば、ギロリと奈央の睨みが入った。

「たまには、太陽の日差しを浴びて外で遊ぶのもいいだろ。向こうじゃ、人の目もあるし、外では自由に遊べないもんな」

 奈央の睨みは無視して、水平線に目を向けながら話す。

「ねぇ、私が受験生だって忘れてない?」
「忘れてねーよ。これでも一応担任だし。でも忘れさせたいとは思う」

 奈央は意味を捉えきれない様子で、首を傾げたのが視界の端に映った。

「最近の奈央。普通じゃないって自分で気づいてるか?」
「……」

 それには答えず、奈央もまた、水平線の向こうへと目線を移す。

「海って落ち着かねぇか? 奈央みたいに波や水が怖いって奴はいるだろうけど、波の音をバックにしながら海を見るのを嫌いだって奴は、あんまりいねぇだろ。生き物は皆、この海から産まれてきたんだ。きっと、里帰りしてるような安心感があんのかもしんねぇな」
「……敬介、私に何が言いたいの?」

 要領を得ない俺の言葉に痺れを切らしたのか、奈央が静かに口を開いた。

「お前が何か思い悩んでるのは分かる」
「……気のせいよ」
「あんだけ一緒にいるんだぞ。誤魔化せるはずないだろ」

 少しだけ口調を強め奈央を窺えば、真を衝いたせいか、視線が絡むことはない。

「奈央が思い悩んでる理由が何なのか、言いたくないなら無理には聞かない。でも勉強だ、受験だって逃げるな。あんなやり方じゃダメだ。お前がボロボロになる」

 奈央からの反論はない。

「たまにはこうして息抜きもしないと、ストレス社会にいるんだから。体と心が悲鳴あげる前にな」

 何て言えばいいのか分からないでいるのだろう。口が重くなった奈央に、俺は一人勝手に話し続けた。

「な? 知ってるか? 怒った時や辛い時に流す涙って、交感神経が優位に刺激を受けて、ナトリウムが多いしょっぱい涙なんだってよ。逆にうれし涙は、副交感神経が優位になって、水っぽい涙が出るらしい」
「………」
「涙には快感物質が含まれているらしいから、泣くことで気分が落ち着くらしいぞ。涙は、生き物が生まれた海からの名残りだとも言われてる。知らず知らずのうちに、こうして海にいると落ち着くように、乱れた気持ちを治癒する力を与えられてんだな」
「……泣いたぐらいじゃ、楽にならない事もある」

 漸く紡がれた声には、強さがない。

「確かにな。でも感情を押し殺すよりはいいんだと思う。奈央も一人で溜め込むな。たまには自分を解放してやれよ」

 奈央は首に回していた腕を片方だけ放し、その手で海水をすくっては零れ行く水を眺めていた。

「……敬介は?」

 ふと投げかけられた質問の意味が分からず、覗き込むように奈央を見た。

「ん?」
「子供の頃、一人で寂しくなかった? チビ敬介は、この海で泣いたりしたの?」

 そう言うことか。

「……あったかもしんねぇーな」

 フッと笑み溢し、曖昧に答える。
 いくらガキの頃とは言え「あった」と、正直には言えなかった。
 海に来ている家族連れを見ては、浮き輪に掴まりながら涙を滲ませていたなんて、流石に照れが邪魔をする。
 そんな俺に何を言う訳でもなく、奈央からは、静かな視線だけが送られてくる。蔑みや怒りなどが含まれるのを常とするならば、それとは明らかに異なる、視線の運び。

「な、なんだよ」

 睨まれるのには免疫が出来ているものの、なぜ、そうやって黙って見ている?

 そんなに見つめられると正直どうして良いのか分からなくなる。

「んなに見んなよ」

 あまりに見られた気恥ずかしさで、手を奈央に向ってパッと開き、水滴を奈央の顔に飛ばした。

「信じらんない! 目に入ったじゃない!」

 片手で顔を拭った奈央からは、今まで大人しかった姿は消え、二倍返しの逆襲にあった。

「敬介?」
「うん?」

 柔らかい声で呼ばれ、素直に奈央を見たのが間違いだった。
 奈央は自分だけ顔を逸らし、水がかからないよう逃げの態勢をとると、片手を海水に突っ込み掬い上げ、容赦なしに俺の顔面へとぶつけてきた。

 俺は水滴を飛ばしただけだっつうのに!

「いってぇーっ!」

 見事に海水は顔面命中。目の中にも勿論入った。

 ───加減しろ! 沁みて目が開けらんねぇだろうが! しかし、奈央ちゃん? 此処はどこだっけね?

「あー、痛ぇ。目が開かねぇ」

 大袈裟に騒ぎ、奈央を支えていたはずの両手を外して目を押えると、

「きゃ」

 貴重だとしか思えない、奈央の小さな悲鳴があがる。と、同時に両腕をしっかりと俺の首へと絡ませ、落ちないようにきつくしがみついてきた。先程まで以上の密着さだ。

「酷い事されたから、支えてやれねぇなー」

 余裕な態度で、優位になって苛めてやろうと思ったのに……。それは長くは続かなかった。
 どうやら俺は、自分で自分の首を絞めてしまったらしい。

「あ、あのさ。奈央、少し離れて?」
「まさか、海に落とす気じゃないでしょうね?」
「そうじゃねぇけど……でも出来れば、降りてくれると助かると言うか……」

 曖昧な答弁しか出来ない俺を、奈央が怪訝そうに見る。

「あれ~、もしかして……」

 と、言うなり小悪魔に変身した奈央。
 隙間なく寄せる身体を通して全てを悟ったらしい奈央は、赤く小さな唇を開きニヤッと意地悪く笑って見せた。

「う、うるせっ!」

 悲しきかな男のさが
 時と場所を選ばない不良息子を抱えているのは、なにも俺だけじゃねぇ! っつうか、日頃耐え忍んでいる結果だ! って言っても、奈央には通じねぇよな……。

「ふーん、ガキ相手にねぇ……」
「ば、馬鹿言うなっ! お前で反応したんじゃねーよ。お前の後ろにいる女にだな──」

    適当なターゲットを探そうと、奈央の後方を見るなり絶句した。

    し、しまった。誤魔化そうと思ったが、完全に選択ミスだ!

「後ろ?」

 ゆったりとした動きで振り返った奈央は、俺と向き直るなり、一段と意地悪そうに口角を上げた。

「敬介って、ストライクゾーン広いんだね?」

 奈央の背後には、巨漢のおばちゃんが浮き輪に窮屈そうに守られ、気持ち良さそうに寝ている。
 いや、窮屈なのは浮き輪の方か? どちらにせよ、パンパンとなってはち切れんばかりの共通点を持つ浮き輪とおばちゃんだけが、大海原にぽっかりと浮かび、辺りには他に誰もいなかった。


 それからも結局、俺から離れなかった奈央。
『変態』だの『エロ教師』だの、いつものように罵りながらも、海に一人立つよりは、そんな俺にでもしがみついていた方がマシだったらしい。

「ふやける」と言う奈央を、降ろしても平気そうなところまで抱きかかえ歩き「先に行ってろ」と、また一人海に浸かって、気持ちも体も落ち着かせた。
 だが、気を鎮めてから波打ち際まで来ると、足元にあった綺麗な貝殻を見つけ拾っている隙に、奈央の姿が見当たらない事に気づく。

 どこ行った!

 辺りを見回せば、海の家の前に立つ男二人の間から見覚えのある水着がちらりと見えて、足を取られる砂浜に苛つきながら奈央の元へと急ぐ。
 近付けば聞こえてくる耳障りな男の声。

「ねぇ、一緒に遊ばない? メチャ俺のタイプなんだけど」

 音があるとすれば、間違い無く俺の額からは、プチッと筋が切れる音がしたはずだ。

「気安く話掛けてんじゃねぇよ。邪魔だ、失せろ」

 低い声で威嚇し、二人の男の肩に手を置くと、乱暴に押しのけて奈央の前へと出る。

「クスッ、落ち着いた?」

 俺を見るなり、言う言葉がそれか?

 ナンパされていた状況にありながら、まるでその男達の存在を一切無視した奈央は「はい、コレ」と缶ビールを俺の頬に当てた。

「チッ、男連れかよ」

 睨んだ俺の目から逃れるように「行こうぜ」と、連れの男がもう一人を促し、俺達のところから離れて行った。

「一人でウロウロすんなっ。変な奴だっていんだから危ないだろ?」
「飲み物買ってただけじゃない。それに一番危険なのって、もしかして敬介だったりして」

 パラソルがある場所へと戻りながら、意味あり気に言う奈央に、今しがた犯した失態を思えば返す言葉はない。
 サマーベッドに辿り着き腰を下ろした奈央に、極まり悪そうにさっき拾った貝殻を見せ、何とか奈央の記憶を違うものへと逸らしにかかる。

「綺麗だね」

 表面は白く内側は淡いピンクの貝殻を手にすると、奈央は天にかざすようにそれを見ていた。

 だがしかし、その奈央の前に立ち尽くす人物が現れる。

 ムチムチで小麦色に焼けた肌。
    ラメの入ったピンクのビキニを見事に着こなしたそいつは、動く気配を見せずに黙って奈央を見下ろしていた。

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