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3. 日常-3

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「敬介、もう帰る?」
「ああ」

 ベッドから上半身を起こし、胸元をシーツで隠しながら話すのは、今夜相手した女、里美さとみだ。

 仕事が終わり一旦自宅に戻って着替えてから、俺は里美の家へと来ていた。
 里美とは、不特定多数の女の中でも一番付き合いが長い。大抵長く付き合うと、過度な期待を勝手に持たれ面倒になる。それを防ぐためにも、数回会うと連絡をしないのが常だ。
    しかし、この女だけは完全に割り切っていたし、計算を得意とする奴だから、お互い都合が良かった。実際、結婚を狙っている上場企業のエリートイケメン社員を本命として、ガッチリと捕まえている。

「ねぇ、今夜は泊まっていかない?」
「は? 何で?」

 朝まで一緒に過ごすなど、今の今まで一度もない。それは里美に限らずだ。隣に女がいたんじゃ落ち着いて寝られやしない。それを良く分かっている筈の里美からのこの誘いは意外だった。

「珍しい。恋人にばれんぞ?」
「うん、別れた」

 サイドボードにある煙草に手を伸ばしながら話す里美は、さしてショックを受けている様子もない。メンソールの煙草を一本取り出すと、慣れた手付きで火を点け言葉を続けた。

「恋人とは別れたけど、結婚することにしたんだ」
「もっと上の男が現れたのか」
「そう言うこと」

 清々しい程はっきりしている。思わずフッと、笑みさえ漏れ零れる。
 同時に、つくづく俺の職業が教師だとアピールしといて良かったと胸を撫で下ろした。
 私立で比較的給料が良いと言っても、その程度で里美は満足する女じゃない。だが、俺の実家の事を知ったら、間違いなくターゲットにされただろう。遊ぶのには良い女。でも本気で狙われたら……そう考えただけで身体が震えた。

 ジャケットに腕を通し身支度を済ませると、ソファーに座り俺も煙草に火を点けた。

「やっぱり帰る?」
「ああ。お前だって結婚すんなら、もっと注意しろよ。って言うか、もう終わりだろ」
「うん、だから最後ぐらいゆっくり話でもしようかと思って」

    ───ゆっくり話? 話と言われても、今更特別話す事もないだろ。

 今までだって、互いのことを話したと言えば、世の中全ては金だと言って疑わない里美の徹底した信条と、それに対して高校教師の給料はたかが知れているとアピールし捲くった自分。それ以上の突っ込んだ話なんてした覚えもない。
 どんなに記憶を手繰り寄せても、それらしきものは存在しなかった。
 どうせ別れるのに話しても無意味なだけで、そもそも初めから人の事など興味もない。

「今更話す事もないだろ?」
「ふふふ」

 吸っていた煙草を灰皿に押し付け、「いいから少し付き合いなさいって」と、笑って答えた里美は、床に落ちていたローブを拾って身に纏うと、俺の向かい側に腰を下ろした。

「結婚する相手。前の男より高学歴で高収入なの」
「そりゃ良かったな。で、お前のお望み通り顔もいいってわけか」
「それが、ぜ~んぜん! 敬介ほどカッコ良い男って言うのはなかなかいないわよ。でもね、なんか放っておけないんだよね」

 ────へぇー、里美がねぇ……。

 散々、高学歴・高収入に加え、見た目もいい男じゃないと認めない、と口癖のように言ってた奴の科白とは到底思えない。
 チラリと様子を探る俺に、不貞腐れ半分、ふざけ半分の眼つきで里美が睨む。

「何? 私が妥協するのが不思議?」
「そりゃそうだろ」
「まあね。私自身が一番驚いてるし」

 そう言うと、今度は何が楽しいんだか目を細め頬を緩ませクスクスと笑い出した。

 ────こんなに色んな表情が出来る奴だったか?

 長く付き合っていた割には、何も知らなかった初めて見る里美の表情を、ただ客観的に眺め見る。

「ねぇ、知ってた?」

 テーブルを挟んで座っている俺に向かって、里美が身を乗り出してくる。

「知らねぇ」
「ちょっと、まだ何も言ってないじゃないの! 私が言いたいのは、私が敬介のこと好きだって知ってた? って聞きたかったのよ」
「は?」

 ───里美が俺を好き? そんな素振り、一回だって見せなかったよな? 実際、本命を手放す事もしなかったくせに、何を今頃になって。

「私、騙すの上手いからね! 気付かなくて当然。知られてたら、私達の関係もこんなに続かなかった筈だし」

 そこまで言うと立ち上がり、冷蔵庫から缶ビールを二本取り出し戻って来ると、一本を俺に差し出して話を続けた。

「好きだったけど、敬介に妥協できなかったのは私。でもね、こんな関係でも、一緒にいる時は幸せだと思ったのも本当よ。人は一人じゃ生きていけない。誰かに傍にいて欲しいって……。敬介はそんな風に思ったことない?」
「ねぇな」
「嘘」

 本人が『ない』と言っているのに、お前がそれを否定するのはおかしいだろ。
 知った顔をする里美にイラつきを覚え、ビールを体内へ流し込む事でその苛立ちを抑え込んだ。

「敬介だって、寂しいから遊んでんじゃないの?」

 自分の考えを押し付けられても迷惑だ。

「残念ながら違うな。欲を満たす為ってのが理由だ」
「だったら、お金出してそう言う場所に行けば?」

 乗り出していた体を、今度はソファーの背に預け、ローブの隙間から見える白い足を組みながらサラッと言ってのける姿に余計腹が立つ。
 こういう関係にあった、当事者である女の言葉とは思えない。

「お前は何が言いたい?」
「本当に愛おしいって人の傍にいるのはいいものよ。私じゃ、それを敬介に教えてあげる事は出来なかったけど、早くそういう人、敬介も見つけられると良いわね」
「それは惚気か? それとも説教かよ」
「うーん、両方?」

 くだらない。自分が幸せ見つけ途端に世話好きになるとは……。

「そんな風に思えるのも妥協したのも、所詮、相手が金持ってるからだろ? 矛盾してんだよ、お前の言ってる事は」

 人間なんて欲の塊だ。それを汚いとどこかで思っているから、人はその姿を隠すんだ。
 顔がいいから、金があるからという理由で、自分を着飾って近付いて来る女狐共がいい例だ。そんな女、昔から腐るほど見てきた。里美だって、その中の一人にしか過ぎない。

「あら、お金は大事よ。好きって情熱だけで突っ走れるほど若くはないし、お金の苦労は子供の頃に経験済みだもの。あって無駄になるものではないでしょ。でもね……、」

 一旦、言葉を区切り、ビールを一口飲んで少し頬を染めた里美は、再び口を開いた。

「もし、彼がお金に困ったとしても、私が代わりに働けばいいだけって今は思ってる。こんな風に思えたのは彼が初めてよ。金の切れ目が縁の切れ目って思ってたから」

 話してる間、今までの里美からは考えられない発言に本人も照れたのか、俯いて視線が合う事はない。

「そんなに幸せなら、今日、俺とこうして会わなきゃ良かっただろ」
「彼は今まで私がどんな私生活を過ごしてきたか全部知ってるの。知ってる上で私を受け入れてくれた。流石に、今日敬介と会うとは伝えてないけど、今までの私も私だから。でもその自分とも今日で決別。やっぱり私、敬介じゃダメみたいって良く分かったし」
「なに、俺試されてたわけ?」
「まぁ、そんなとこ。これ位してもいいでしょ。1年以上も私の気持ちなんて気付いてもくれなかったんだから」

 やっと交わった視線の先には、穏やかに笑う里美がいる。俺の知っている里美は、どちらかと言えばクールな女だった。表情もあまりなく、ましてやこんな風に語ったりする事もないが、頭の回転だけは速い女だと感じていた。言わなくて良い事と、聞かなくて良い事のボーダーラインが分かる奴だと思っていたからだ。俺が大人の女と定義付けする、基準値にいる女だった。

「女って男で変わるんだな」

 別に里美に向けて言った訳じゃない。思ったままの言葉が無意識に口を付いて出ていた。

「変わったとこもあったと思う。でもそれ以前に、敬介は私の事を知らな過ぎたのよ。上辺だけしか見てなかったでしょ?」

 里美の言う通りだ。知ろうともしなかったし、その必要もないと思っていた。里美の気持ちにも気付かなくて当たり前、最低な男だという自覚はある。

「お前の体だけは、しっかり見てたけどな」
「それも怪しいもんだわ。他の女と区別がつくかどうか?」

 シラーっとした流し目で言われた言葉は、自信がないだけにぐうの音も出ない。

 ────ここは冗談で流しとけよ。

 残っていたビールを一気に流し込み、空になった缶を握り潰すと、誤魔化すように立ち上がった。

「帰る?」
「あぁ、もう充分話したろ。説教まで受けたしな」
「そうね……ねぇ、敬介?」

 玄関で靴を履く俺の前に、真面目な顔した里美が立つ。

「なに?」
「敬介にも、自分の居場所きっとあると思うよ。敬介をちゃんと見てくれて、敬介も放っておけなくなる子が、きっと何処かにいるはず」
「お前の持論を俺に押し付けるな。そんな付き合い面倒なだけだ」
「ま、その時が来たら敬介にも分かるわよ。その前に、あんた仮にも教師なんだから、いい加減遊ぶの止めなさいよね」

 ────何なんだよ、こいつは。別れるとなったら急に口喧しくなって。

「セーブしてんだろ。今じゃ、週末しか遊んでねぇよ」
「威張って言うな! それから、生徒にまで手を出すんじゃないわよ!」
「ガキは相手にしねぇって。里美、そんなに口煩いと男に逃げられるぞ」
「心配無用よ」

 そう言って微笑む里見は、やっぱり幸せそうな顔をしている。

     ────ホント、女って分かんねぇ。急にこんなに変わるもんなのか?

「じゃ、行くわ。お前はお前のやり方で幸せになれよ」
「うん! 敬介、今までお疲れ様!」

 ────お疲れ様って、他に言いようがあんだろ。体の関係だけとは言え、長く付き合ってきた女の言う台詞じゃないんじゃねぇのか?

 あまりにあっけらかんと笑顔で言われ、思わず俺も笑みが零れる。

「お疲れさん」

 アイツに合わせた言葉を返し、「本気で好きな子が出来たら教えてよね」と言う里美の声を背に受けながら、二度と来ることはないだろう部屋を後にした。
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