Innocent

本宮瑚子

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Side-A イノセント<真実>

4.

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「確かにな? 七海が思い描くように、夜の世界は歪んだ世界だ。七海には見せたくないほど、欲に塗れた汚い部分も沢山ある」 

    でしょ? やっぱりそうでしょ? そう言いたい気持ちをグッと堪える。 
    もう怖い目ではなくなっているし、穏やかな口調ではあるけれども、さっき見たばかりの瞳を思えば、ここは大人しくしているしかない。 
    それでも理不尽さが消えないあたしは、せめてもの反抗とばかりに、大きくうんうんと大袈裟なまでに頷いて見せた。 

「金の為なら何でもやるヤツが溢れてる。その為なら、仲間だって思ってたヤツでさえ裏切るし、妬み嫉みは当たり前。足の引っ張り合いはザラだ。そんな何も信じられなくなる中で、唯一信じられんのは金だって、そう思うまでに、さして時間はかからなかった。また、そう思わなきゃ生きにくかった」  
「…………」 
「身体が弱くて入院がちな母親の為に稼ぎたくて飛び込んだ世界は、そんな醜い場所だった。だったら、その世界のやり方でのし上がるしかないだろ?」 

    いや、だろ? って、そんなことあたしに言われても……。 
    やっぱり怖い世界! としか思えないあたしは、同意なん出来やしない。 
    もっとも、本気であたしに意見も同意も求めていたわけではなかったらしい響ちゃんは、また取り出した煙草に火を点けるまでの、場繋ぎ的な感じで話を振っただけなのかもしれない。  
    その証拠に、あたしになんて見向きもせずに煙草を吹かす響ちゃんは、吐き出された白い煙を見つめている。儚く消える煙だけを見つめている。でもそれは、煙の向こうに、遠い過去を映しているようにも見えた。

「だから、何でもした」 

    あたしの答えを待つでもなく、そう漏らした響ちゃんの顔にはかげりが見えて、 

「七海になんて、ぜってぇ訊かせらんねぇこと、沢山した。母親の顔がチラついても振り払って、何でもな」 

    低く掠れた声は、懺悔でもしているように苦しそうだった。


    何も言わないで良かったと思った。同意なんて軽々しくしなくて良かったと思った。 
    きっと響ちゃんは苦しんできたこともあったんだと、その表情から垣間見える。そんな響ちゃんに何か言ってあげられるほど、あたしは大人じゃないし、その場しのぎで響ちゃんに同意してみたところで、それは偽りでしかない。
    夜の世界なんて怖くてズルくて、あたしには否定したいだけのものでしかないし、嫌悪する世界の住人だった響ちゃんにも、責めたくなる気持ちをくすぶってはいるけれど。でも、今はただ、 否定したい夜の世界を語る響ちゃんの話に、黙って耳を傾けるしか選択肢はなかった。 

「足を引っ張られんなら、先に蹴落としゃあいい。金がものを言う世界なら、どんどん巻き上がれてやれ、騙されんのが悪りぃんだってな。手段選ばず上を目指して、入店三か月足らずでNo.2」 
「…………」 
「けど、そこからが難しい。てっぺんがどうしても取れない」 
「…………」 
「そんな時だ。一華と出逢ったのは」

    いよいよ本題に突入するんだと、唾をゴクンと飲む。 
    夜の怖い話そのものを訊くより、よっぽど一華さん個人の話を訊く方が怖いと思うあたしは、自然と握った拳に力を込めていた。 
    そんな身構えるあたしに構わず、響ちゃんは話し続けた。そりゃもう丁寧過ぎるほど、人が黙ってるのをいいことに熱く語り続けた。



    別のお店のオーナーママさんに連れられ、響ちゃんのお店に来たらしい一華さん。恐らくホストには興味なかったろうけれど、同業の付き合いで来たらしい一華さんに、響ちゃんも他のホストさん達も指名を貰いたくて、浮き足立っていたらしい。 
    その界隈では、既にナンバーワンホステスとして有名だった一華さん。 
    その一華さんから指名をもらえれば、ステータスにもなるしナンバーにも影響を及ぼすかもしれない。だから、意気込む気持ちはみんな同じで……。 
    だけどそれは、一華さんの前では空回りに終わったと言う。
    圧倒的な美しさと、そこから滲み出るオーラ。何を言うでもなく柔らかく笑む一華さんを前にして、巧みに言葉を操れるホスト君はいなかった。 
    それは、響ちゃんにしても同じで……。 

「気の利いたこと一つも言えやしない。なのに、ラッキーな事に俺は指名を貰えた。最初に隣に座ったのが俺って理由だけで」 

    そう言って、響ちゃんは苦笑いする。 

「俺じゃなくても、他のヤツが最初に隣に座ってれば、そいつが指名貰ってただろうな」

    懐かしさを目一杯滲ませ苦笑している。
    響ちゃんを気に入っての指名ではなく、最初に隣に座った人なら誰でも良かったらしいのに、そんな失礼極まりない相手なのにも拘わらず、例え苦笑いでも口元を緩め続ける響ちゃんは、やっぱり未だに未練があるんだと思わせる。 
    失礼過ぎる女だと正体を知ったあたしが、白けた目を向けても、それには一切気付きもしないほど、口元には笑みを湛えている。 

「運が良かったとしか言えねぇよな。けど、運も実力の内だ。いずれ、時間かけて枕まで持って行きゃいいなんて考えてた」 

    うん?……ちょっと待って。枕ですと!?
    それって……一体?




    緩めた口元は喋りまでを滑らかにしたらしく、即座には理解不能な言葉を操る。 
    目を右上に向け、夜の世界に詳しくないあたしは考える。
    そんな考えあぐねるあたしに、やっと響ちゃんは気付いたようだ。 
    白けた目には気付かなかった癖に、『しまった』とでも言うように、決まり悪そうな顔をした響ちゃんは、どうやら言うつもりの無い事まで口走ったらしい。 
    だから、嫌でも分かった。賢いあたしには、よーく分かった。 
    絶対それは如何いかがわしいことで、不潔な事で。あたしには聞かせられない事の内の一つなんだろうと悟ってしまう。 
    その証拠に、再び白けた視線を送ってやれば、響ちゃんは分かり易いまでにあたしから目を反らして狼狽うろたえた。 

「え、いや、その、あのな。い、色んな営業法があんだよ。兎に角な? その日を境に、繋がりを途切れさせねぇよう、一華の店にもちょくちょく顔を出したわけだ。そうすれば、お礼返しで俺んとこにも来るしかねぇしな? そうやって行ったり来たりが一ヶ月続いたんだよ」 

    さっきとは比べものにならないくらいの早口で、話を先に進ませようという作戦に出た。 
    そんな見え透いた魂胆なんて丸分かりだ。だからこそ、『ふ~ん、それで?』 と、声には出さずとも、ゆったりとした頷きにたんまりと厭味を匂わせて、“枕”は追及しないであげた。


    本当なら、こんな話をあたしが訊いてあげる義理はない。こんなことまで喋ってくれとも頼んではいない。
    何が悔しくて、知らなくても良い汚れた世界の知識を授からなきゃならないのか、言えるもんならノンちゃんに告げ口したいくらいだ。 
    ノンちゃんに怒られてしまえば良いと思う。でも、それが出来ないのが悲しい。 
    いくら響ちゃんがホストをやっていたと知っていたとしても、改めてこんな話を訊かされるのは不幸だ。
    ノンちゃんが悲しむのが分かっていながら、あたしが言えるはずがない。響ちゃんも、それが分かるからこそ、安心してあたしに喋っているのかもしれない。 
    だからこそ訊いてやろうと、挑戦的な気持ちが高ぶってくる。どんだけ幻滅させる男なのか、あたしがしっかり見抜いてやろうと、正義感にも似た高揚を覚える。 
    ノンちゃんの目を盗んで、響ちゃんの店に通い続けていたあたしが言うのもなんだけど……。 それでも、失礼女一華さんを響ちゃんが守るなら、あたしは絶対にノンちゃんの味方でありたい。 
    その為には、最後まで訊かなくてはならないと覚悟が決まったあたしは、だからこうして、 『ふ~ん、それで?』 と、先を促す。 

「最初こそみっともねぇ有様だったけど、少しずつ俺のペースを掴んで、多少生意気な事言ったって、いつも一華はニコニコと俺の話を訊いてくれてた。 周りの奴らは、そんな俺を妬ましく思っただろうな」 

    あたしの覚悟にも気付かず、耳を傾ける姿勢に気を良くしたのか、或いは開き直ったのか、響ちゃんは話し続ける。 

「だから当然、足を引っ張ろうとする輩が現れた」 

    さっきまでの 『しまった』 って顔も忘れて、ベラベラと喋り続ける。 

「そいつは、俺が他の席周ってる間にヘルプに着いて、一華に暴露したんだよ。俺が枕でNo,2までのし上がったって」 

    ついには“枕”が禁句ワードだって事も忘れて、図々しくも話し捲る。

「俺が一華の席に戻った時のヘルプの得意気な顔見た瞬間。ヤラれたって直ぐに気付いた」 

    うん、そうだろうね。得意気にもなるだろうね。間違いなくあたしだって、“枕” って言葉を遣って、今この瞬間にでも告げ口してやりたいって衝動に駆られてるくらいだしね!


ベラベラ喋る響ちゃんより、ヘルプ君に胸の内で同意して、これから続けられるだろう、困った響ちゃんの結末を声高々に笑ってやろうと思う。 
    子供沁みたちっぽけな仕返しだけど、ここぞとばかりに笑ってやろうと思う。 
……そう思ってたのに、 

「けど、一華は言ったんだ。俺の隣に座る一華は、目の前のヘルプを真っ直ぐに見て、人の心配より、まず自分の心配をした方が良い、って」 

    あっさり笑うチャンスを奪われるどころか、

「枕だろうが結果残せるならそれはプロ。人の足を引っ張って醜態晒すより、よっぽど結果に繋がる。セミプロにすらなれないあなたは、悪いけどこの席にはいらないわ、って崩れねぇ笑顔でヘルプをあしらって、ヘルプは歯軋りしながら席を離れてったよ」 

    ヘルプ君並みに、歯軋りしたくなる悔しさに包まれる羽目になった。 

「正直、誰にでも嫌な顔を見せずに、いつも穏やかな一華がそんなこと言うなんて意外だった。でも俺を庇うほどまでには、こっちに気持ちが向かってんだって思うと、腹ン中でほくそ笑んでた」 

    更には、ヘルプ君とは対照的に、してやったり顔だったに違いない過去の響ちゃんを思い描き、 ベラベラ喋る今の響ちゃんを目に映して、地団駄さえ踏みたくなる。 

「そこまでして庇ってくれんなら、今夜は確実に俺のもんにしてやろうって企みながらな」

 ……最低。ホントに最低だっ!
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