抗え!ティーチャー

やすり屋

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第一章

古本屋にて

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やってきました休日、そしてサヨナラモーニング。



昨晩セットしたハズの目覚まし時計は既に仕事を果たしていたらしく、アラームは確実に鳴っていた。その証拠に、喧騒を一刀両断するために叩きつけて真っ赤に腫れた掌が、その凄惨さを強く物語っている。時刻は既に昼過ぎ、スマートフォンの画面はブルーライトを放ちながら、午後の一時半を指し示していた。



「ミカミちゃん、朝ですよぉ……」



「まじぃ………?」



「まじー」



思い切りに寝過ごした。貴重な休日の半分を、睡魔が大半食い尽くしてしまっていた。彼女のむっちり腹が引き起こした昨夜の事件。互いにもみくちゃになって戯れ合い、ただでさえ少ない体力を使い果たしたせいで起こった今日の悲劇。自業自得、自縄自縛である。



冷静になって考えると、昨日は完全に距離感がおかしくなっていた。既に手遅れであっても、一成人男性として異性との適切な距離感を教えなくてはならないのに、その本人の振る舞いが反面教師なのだから本末転倒である。それを不自然に思わなくなっていたのも、この世界に働く不思議な力のせいなのかもしれない。責任転嫁はお手の物である。



むくりと上体を起こし、目頭を擦る。寝過ごしたせいでやけに冴えた思考、脳味噌がフルスロットル。余計なことを考えてしまうのは自明の理であった。



―――――あの日以降、彼女との間で話題にも出されない僕の責任問題。



正直、僕にとっては非常に好都合である。しかし、いつかは白黒はっきりさせておかなければならない話題だというのも純然たる事実。



「……まあ、いっか」



彼女の問題、世界の問題。考えていると二日酔いでも無いのに頭が割れるように痛くなる。どうせ近日中には触れるのだ、ここ数日は黙っていよう。人間誰しも、触れられたくない側面は持に合わせているものである。









ベランダに並べられた外履きに足を通す。山が笑い飽きた後には、桜も疾うに散り終わっていた。側溝にへばりついた花びらは半身ほど削られ、例年より早い春の終わりを告げていた。今年の桜も入学式には間に合わなそうだ。これからは夏と冬のニ強である。



寝間着から着替え、部屋の照明をつける。蛍光灯の丸型カバーの裏側にはぽつりぽつりと小さな点が写り込んでおり、少々億劫な気持ちになった。網目状の洗濯カゴに自分の抜け殻を投げ入れ、少しばかり晴れやかなこころを取り戻す。紺のデニム地のズボンがゆったりと口を開け、プライベートな部屋の雰囲気を飲み下していく。ポケットに財布を突っ込み、履き潰した黒のスニーカーをえづかせる。



「ちょっとばかしほっつき歩いてくるよ」 



カーテン越しの影から返答は無く、緩やかな空気感が部屋を支配している。今日はどうやら二度寝の気分らしい。まさに理想の休日の過ごし方である。時間と場所が本人が許せば崇め倒したいような気分であった。



 インテリアとして飾られたサボテンに、備え付けの霧吹きで靄を掛ける。水滴の照り映えた砂漠の植物はその緑を一層輝かせ、外の世界の光景を今か今かと待ち望んでいる。玄関のノブに手をかけた途端、背後から物音がした。



「……勝手に置いてかないで」



「え」



「私も、ついて行くから」



振り向くと、部屋に舞い上がった埃の中に、汗一つかかず寝間着から一瞬でおめかししたらしき彼女が立っていた。セーラーカラーでメッシュなトップスとプリーツスカートを身に着けており、まさに準備万端といった様子である。リビングの中央部、乱雑に脱ぎ捨てられた衣服。どうやら気が変わったらしい。子供は外で遊ぶべきとは必ずしも言わないが、健康面を一考するなら最適な選択肢であった。



鼻息荒くぐいぐいと背を押されたので、中途半端に開けっ放しのドアを開く。剥き出しの鉄骨の足場に着地すると、風が鋭く吹き抜けて鍵が閉まる音がした。



「今日はどこ行くの?」



「古本屋」



「ん」



右手を差し出す彼女、忌まわしい記憶が瞬く間に蘇り、僅かに躊躇する。しかし今更だと思い至り、結局その手を取る。五本の骨ばった白陶の指に己の指を絡ませる。僕の手に包み隠された小さな手のひらはじんわりと温かく、春の陽気のせいでやや湿っている様な気もした。











セメントで塗り固められた土色のコンクリートジャングルを掻き分けていく。繋いでいない方の手、人差し指で真上を指す彼女。やや遅れて上空を見上げると、オレンジとインクブルーがメインカラーの、メリハリがついた看板が目についた。隣の広告板には高価買取商品のラインナップが提示されており、店名であるアルファベットが等間隔で刻まれている。



自動ドアを潜り店内に入る。意味もなくセンサーが鳴らないかビクビクしていると、彼女は困惑した顔でこちらを見上げていた。



 所狭しと鉄製の本棚がそこかしこに並び、古本特有の錆びれたインクと装丁の匂いが充満している。カウンターには気怠げで留年していそうな男店員が、角張った伊達眼鏡を押したり引いたりして遊んでいた。立ち読みの常連客たちは皆一様に眉間に皺を浮かべ、やけに真剣な表情で手元のページに向き合っている。



初めての古本屋、新しい環境に少しの不安とワクワクが止まらないのか、しきりに視線を回す彼女。興味意欲と関心態度、すべてオールファイブである。しかし、今回の僕の目的は古本では無かった。彼女を短編のコーナーまで連れていき、ひとまず人間が椅子の中に侵入して性癖を破壊される本を手渡す。初めの方こそ困惑の表情を覗かせていた彼女だが、僕のお気に入りである旨を伝えると恐る恐る本を開く。そこからはもうどっぷりであった。



計画通り眼の血走った彼女を尻目に、入り口付近に隣接されたエスカレーターへと足を踏み入れる。ステップの助力により、股関節に僅かばかりの休暇を与え、二階に到着した所で再び歩き出した。



この古本屋、一階とは別に二階はリサイクルショップの仕組みになっている。僕が今回わざわざ重い腰を上げ、ここまで出向いた理由は、ふと思い出した事があったからであった。

探しものをするにはやや暗い照明。ブルーライト御禁制エリアを素通りし、誰かの記憶を伴って眠る生活用品達から距離を取る。古本とはまた違う、繊維の奥まで染み付いた脂の匂いを受け止めながら奥へと進んで行く。



「確かここらに……」



やや奥まった場所に位置するショーケースを覗き見ると、”それ”は確かにそこにあった。貼られた値札のシールを無視し、捻くれた顔をしたリサイクルショップの店員を呼びつけ、鍵を開けてもらう。レジで表示された値段に動揺を隠す。手痛い出費だが、致し方なしである。



会計を済ませ、少々物色してからエスカレーター横の階段を下っていく。



僕の存在に気がついたのか、先程までまじまじと、目力だけでページを貫通しそうな勢いで読んでいた本を閉じる彼女。僕が手元にぶら下げているビニール袋が気になるらしく、しきりに手元にぶら下がったポリ塩化ビニルを見つめていた。



「それ、何?」



「あとのお楽しみ」



「ふーん……」



彼女が魅入っていた本を取り上げ、カウンターに持っていく。気怠げな店員は瞬時に背筋を伸ばし、お手本のような営業スマイルで僕を迎えてくれた。









それから二人で店内を暫く物色したあと、二人揃って家まで帰ってきた。金額的にやや重たい荷物をおろし、洗面所に向かう。泡立てた両手を拭い、一段落ついて互いにリビングに寝転んだ。



持ち帰ってきた本を読み切り、読了の虚脱感から放心する彼女。それから暫くは緩やかな時間に身を任せていると、不意に机の上に置かれたビニール袋に再度注目が集まった。



「……で、これ何?」



「お待ちかねの開封ターイム」



ぱんぱかぱぁん。手際悪くビニールから本日の成果が飛び出す。元より釘付けだった彼女の視線が一層深く打ち付けられ、感嘆符が吐息となって口端から漏れ出した。



「前、欲しいって言ってたCDだ……」



「偶にはご褒美がないとね」



輝くプラスチック越しの円盤を眺め、恍惚とした表情を浮かべる彼女。以前までの周回では行動が遅く、プレミアがついて高騰した値段では手が出なかったものである。普段はこちらが繰り返しに振り回されているのだ、少し位利用させてもらっても罰は当たらないであろう。



「……いいの?」



CDを胸に抱き、金剛石の瞳が此方を覗く。



「勿論」



「……ありがとう」



顔を赤らめ、はにかむ彼女。可愛い。苦労した甲斐があったというものだ。



「ただし」



人差し指を差し出し、蜻蛉の止まり木を作る。



「次のテスト、期待してるからね」



「……うん、分かった」



こっくりと頷く彼女。素敵な朝の時間を無駄にはしたが、万事ハッピーエンドである。



「ちなみに、幾らかかったの?」



「へ」



抵抗虚しく、間もなくパッケージの裏面を確認する彼女。



―――――いくらプレミアで高騰する前とはいえ、今回のCD調達による財布の戦闘力の激減は免れなかった。具体的に言えば、諭吉のアニキが一、二枚程飛んでいった。ショーケースに入っているのも納得である。



「ふーん……」



「あの、ミカミさん……?」



一時の無言が、空間を支配する。



「返品してきます」



「返品対象外ですッ」



スタスタと玄関へ向かっていく彼女の細っこい足に縋り付き、必死に弁明を試みる。外は既に夕日が落ちており、中学生が出歩くには危険な時間帯である。



情けない叫びが、狭いアパートの一室に木霊した。
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