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それはないだろう!
2 貴様と御前
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その後の怒鳴り合い――いや、話し合いの結果、俺が卒業するまでの間は、加瀬と付き合うことになった。
ただし、この〝付き合う〟は、あくまで先輩後輩としてだ。その一端として、少なくとも人前では、〝倉川様〟ではなく〝倉川先輩〟と呼ぶよう強制した。
当初、加瀬は自分の主を先輩と呼ぶなんてと渋っていたが、そう呼ばなければ一生応えてやらないと言ってやったら、あっさり了承した。
無論、加瀬の最終目標は俺との結婚である。俺は男だ、今の日本じゃ同性同士は結婚できねえんだよと何度も言い聞かせたが、こちらはまったく聞く耳を持ってくれなかった。いわく、近い将来、できるようになります。
加瀬が言うと、本当にそうなりそうで怖い。それというのも、話し合いの三日後には、しれっと俺の隣の部屋に引っ越してきたからだ。
俺の記憶が確かなら、そこは空室ではなく、会社員風の男が住んでいた。いったいどんな手段を使ったのか。俺は恐怖したが、加瀬がうちの台所で茹でた引っ越し蕎麦は、蕎麦屋の蕎麦よりうまかった。
家事は全部自分がすると宣言しただけあって、加瀬は料理上手だった。料理上手な人間は最強である。おそらく、異世界に行っても最強だ。俺の時間割も提出せざるを得なくなり、俺が外で一人になれる時間は、互いの受講時間を除けば、トイレの個室くらいしかなくなった。サークルはもともと入っていなかったが、加瀬に会う前に新たなバイト先は見つけておくべきだった。もし俺がバイトを始めたら、もれなく加瀬がついてくる。
俺はまったく知らなかったが、うちの大学では加瀬はもう結構な有名人だったらしい。
あの外見だ、黙って立っているだけでも目立つ。おまけに、俺を捜すため、かなりの数のサークルに仮入会したそうだ。そんな男がにこにこ笑いながら、平凡を擬人化したような俺の送迎をしているのだから、奇妙に思わないほうがおかしいだろう。
友人というわけではないが、俺にも会話をする人間は何人かいる。そういう人間たちには加瀬とどういう関係なのかと面と向かって訊かれた。それに俺は高校のとき転校していった後輩だと堂々と答えた。高校時代、俺は歴史研究会という同好会に所属していて、そこに加瀬も短期間だが所属していたのだと。
加瀬が高校時代の後輩うんぬんはもちろん嘘だが、俺が歴史研究会――通称・歴研にいたのは本当である。上手な嘘をつくコツは、適度に真実を混ぜこむことだ。ついでに、あの葉桜の下の『お館様!』も、当時歴研で流行っていたギャグだと説明したら、こちらはものすごく納得された。助かったが、内心複雑だった。
そんなわけで、学内で俺と加瀬が一緒にいても突っこむ人間はいなくなった。しかし、加瀬に話しかけてくる人間は後を絶たなかった。
だいたい女が九割。学年問わずだが、やはり加瀬と同じ一年生が多い。
俺と結婚したがっている一点を除けば、加瀬はいわゆるスパダリである。俺のことは根掘り葉掘り訊くくせに、自分のことは訊かれてもまともに答えないが、あの突然の引っ越しや俺に食わせる食材の良さ、バイトをしなくても悠々と暮らせるところを見るに、実家は間違いなく金持ちだろう。――あの引っ越しだけは、ただの金持ちには不可能に思えるが。
おまけに、加瀬は頭もいい。特に英語はネイティブ並みだ。俺もちょくちょく訳してもらっている。そのためなら膝枕も安いものだ(文章量により時間は変動)。お館様お館様と頬擦りされても、このときだけは見逃してやる。
だから、加瀬が女に話しかけられても、まあ、当然だよな、結婚狙いでなくても、とりあえず声はかけるよな、と俺は温かく見守っていた。この場合、俺の存在は無視されて当然である。俺に媚を売ったって、女が得することは何一つない。
だが、実は加瀬が最も嫌っているのは、俺と二人きりでいる時間を邪魔されることなのだ。
目立つことが大嫌いな俺のために、普段は当たり障りのない対応を心がけている加瀬だが、このときばかりは塩対応になる。ことに、逆ナンパだった場合には超塩対応だ。あからさまに迷惑そうな顔をして、先輩、ちょっと行きたいところがあるので付き合ってくださいと俺の腕を引っ張っていく。
たいてい、加瀬のちょっと行きたいところとは俺の部屋で、倉川様、倉川様と結婚を前提に付き合っているってカミングアウトしてもいいですかと俺を脅す。もちろん、そんなことはされたくないので、ねだられるまま、また膝枕をする。
膝枕は男のロマン。俺も男だ。それは認めよう。
しかし、される側はちょっとした拷問である。耐えきれなくなったら、アルコール臭がきつい薬用のウェットティッシュで加瀬の鼻と口を塞ぎ、強制終了させる。
なぜウェットティッシュなのかというと、最初、自分の手のひらで塞ごうとしたら、その手をつかまれてキスされたからだ。そのときはもう一方の手で加瀬の額を引っぱたいてやめさせたが、それ以降、加瀬は隙あらば俺にキスしようと狙っている。
慣れというのは恐ろしい。初めて会ったときは抱きしめられるのも嫌だったのに、今ではキスさえされなければ、人間座椅子をされても無視できるようになってきた。
だが、それはあくまでも、二人きりでいるアパート内での話だ。
一歩外に出たら、どんなに仲よく見えようが、俺たちはただの先輩と後輩である。
「なのにおまえは、どうしてそんなに手をつなぎたがるんだ!」
くそ暑い中、たまには休日デートがしたいという加瀬のリクエストにより、映画のロケ地にもなったとかいう市内の某市立公園に行った帰り道。
アパートからいちばん近いバス停で降りても、俺の憤りは収まらなかった。
「いいじゃないですか。誰も見ていなければ」
俺の少し後ろで加瀬がのんびりと答える。俺と一緒に歩くときはいつもこんな位置どりをする。そして、いざというとき俺を守るためという元護衛隊長らしい建前で徒手である。
「見てただろ! 女三人、イギリス式庭園そっちのけで、食い入るように俺たちを見てただろ!」
「そうですか? まったく気づきませんでした」
「嘘つけ! おまえは絶対気づいてた! 気づいた上で犯行に及ぼうとした!」
「犯行って……ただ手をつなごうとしただけじゃないですか」
「だから、何でわざわざ外でしようとするんだよ! それもギャラリーを確認した上で!」
「まあまあ。今日の夕飯は倉川様のお好きなそうめんにいたしますから。もちろん、天ぷらもおつけします。エビ、ナス、ミョウガ」
「うお、やった……」
思わず喜びかけてから、はっと我に返って加瀬を睨んだ。
「おまえ、俺に好物食わせとけば、何でもごまかせると思ってるだろ」
「そんなことは」
涼しい顔で加瀬は受け流す。
「いくら好物でも、焼きそばパンはあまり食べていただきたくないと思っておりますし」
「炭水化物と炭水化物の組み合わせがそれほど許せないか」
「組み合わせよりも、栄養の偏りが許せません」
前世で〝お館様〟が病死したせいか、加瀬は俺の食事にものすごく神経を使っている。その気になれば、栄養士にもなれそうだ。
陽光は赤みを帯びはじめ、暑さもかなり和らいできた。姿は見えないが、日中の分を取り戻すかのように蝉たちが合唱している。
今だったら手をつないでやってもいいかな。ちょっとだけそんなことを思いながら、アパートの横を通る道路の入口に入りかけたときだった。
路肩に黒塗りの高級車が止まっていることに気がついて、俺は反射的に足を止めた。
他県ナンバーで、リアガラスはスモークガラス。しかし、エンジンは動いているから、おそらく人は乗っている。
この付近はアパートが多く、そこに住んでいるのは俺たちみたいな学生か薄給の社会人がほとんどだ。つまり、こんな高級車には縁のない人間ばかりである。しかも黒塗り。嫌な予感しかしない。
触らぬ高級車に祟りなし。俺はいつもより遠回りして自分の部屋に向かおうとしたが、そのとき、その高級車のリアドアが開いた。
「兄上!」
ドアが開いたのと同時くらいだった。そこから出てきた人物が俺たちに向かって驚いたような声を上げた。
〝兄上〟とはまた古風な。そう思ったのもつかのま、俺はその人物を見て、今のは幻聴だったのではないかと思った。
一言で言うなら、ホスト風のチャラ男。茶髪で全身黒ずくめ。日焼け止めでも塗っているのか、肌は妙に白い。
これはもう別世界を通り越して別次元の人間だ。直視するのもはばかれる。だが、加瀬並みに整った容姿をしていることは確かだ。ということは。
バッと加瀬を振り返れば、加瀬は特別まずく作られた青汁を飲まされたような顔をしていた。こんな表情をしている加瀬を見るのはこれが初めてかもしれない。ついしげしげと眺めていると、チャラ男は今度は苛立たしげに叫んだ。
「貴様ーッ! 海外で兄上を捜すと言っておいて、ちゃっかり兄上を独り占めかーッ!」
「ええ?」
てっきり加瀬が〝兄上〟だと思っていた俺は混乱した。だったら〝貴様〟は誰だ? もしかして俺か? また前世ネタか?
そんな俺を落ち着かせるように、加瀬は俺の肩に手を乗せた。俺より高い体温が肩からじんわり染みこんでいく。
「独り占めも何も、おまえと協定を結んだ覚えは一度もない。その悪趣味な車に乗ってさっさと帰れ。近所迷惑だ」
チャラ男に答える加瀬の声は、逆ナンパしてきた女たちに対するとき以上に冷ややかだ。あのとき、鼻水を流して泣いていた男と同一人物だとはとても思えない。
「貴様ーッ!」
チャラ男は悔しげに柳眉を逆立てたが、ふと俺に目を据えると、まるで別人のように哀れっぽい表情をし、自分の胸に手を当てた。
「兄上! 兄上! 私です! あなたの弟のグラディスです! ずっとお会いしとうございました!」
「それはないだろう!」
考える前に口が勝手にそう動いていた。
何か叫び返そうとしていた加瀬が俺を覗きこみ、チャラ男は何を言われたか理解できずに呆然としていた。
「生まれ変わって私に会って……おまえに何の益がある? 私はもう何も持ってはいない……全部おまえに明け渡した!」
「そんな……誤解です、兄上! 私は兄上から何も奪おうとは思っていません! 私はただ本当に、兄上に会いたくて……!」
「黙れ、井崎! これ以上この方を苦しめたくないのなら、もう何も言うな!」
俺を反転させて抱きしめて、加瀬がチャラ男に叫ぶ。
加瀬は優しい。本当に優しい。俺に前世の固有名詞は一言も告げなかった。
「なぜ……なぜ兄上は私の言うことは信じてくださらないのですか……」
恨みがましそうにチャラ男が言う。
たぶん、信じられないことばかりおまえが言うからだろう。俺は目を閉じ、そのまま意識を失った。
ただし、この〝付き合う〟は、あくまで先輩後輩としてだ。その一端として、少なくとも人前では、〝倉川様〟ではなく〝倉川先輩〟と呼ぶよう強制した。
当初、加瀬は自分の主を先輩と呼ぶなんてと渋っていたが、そう呼ばなければ一生応えてやらないと言ってやったら、あっさり了承した。
無論、加瀬の最終目標は俺との結婚である。俺は男だ、今の日本じゃ同性同士は結婚できねえんだよと何度も言い聞かせたが、こちらはまったく聞く耳を持ってくれなかった。いわく、近い将来、できるようになります。
加瀬が言うと、本当にそうなりそうで怖い。それというのも、話し合いの三日後には、しれっと俺の隣の部屋に引っ越してきたからだ。
俺の記憶が確かなら、そこは空室ではなく、会社員風の男が住んでいた。いったいどんな手段を使ったのか。俺は恐怖したが、加瀬がうちの台所で茹でた引っ越し蕎麦は、蕎麦屋の蕎麦よりうまかった。
家事は全部自分がすると宣言しただけあって、加瀬は料理上手だった。料理上手な人間は最強である。おそらく、異世界に行っても最強だ。俺の時間割も提出せざるを得なくなり、俺が外で一人になれる時間は、互いの受講時間を除けば、トイレの個室くらいしかなくなった。サークルはもともと入っていなかったが、加瀬に会う前に新たなバイト先は見つけておくべきだった。もし俺がバイトを始めたら、もれなく加瀬がついてくる。
俺はまったく知らなかったが、うちの大学では加瀬はもう結構な有名人だったらしい。
あの外見だ、黙って立っているだけでも目立つ。おまけに、俺を捜すため、かなりの数のサークルに仮入会したそうだ。そんな男がにこにこ笑いながら、平凡を擬人化したような俺の送迎をしているのだから、奇妙に思わないほうがおかしいだろう。
友人というわけではないが、俺にも会話をする人間は何人かいる。そういう人間たちには加瀬とどういう関係なのかと面と向かって訊かれた。それに俺は高校のとき転校していった後輩だと堂々と答えた。高校時代、俺は歴史研究会という同好会に所属していて、そこに加瀬も短期間だが所属していたのだと。
加瀬が高校時代の後輩うんぬんはもちろん嘘だが、俺が歴史研究会――通称・歴研にいたのは本当である。上手な嘘をつくコツは、適度に真実を混ぜこむことだ。ついでに、あの葉桜の下の『お館様!』も、当時歴研で流行っていたギャグだと説明したら、こちらはものすごく納得された。助かったが、内心複雑だった。
そんなわけで、学内で俺と加瀬が一緒にいても突っこむ人間はいなくなった。しかし、加瀬に話しかけてくる人間は後を絶たなかった。
だいたい女が九割。学年問わずだが、やはり加瀬と同じ一年生が多い。
俺と結婚したがっている一点を除けば、加瀬はいわゆるスパダリである。俺のことは根掘り葉掘り訊くくせに、自分のことは訊かれてもまともに答えないが、あの突然の引っ越しや俺に食わせる食材の良さ、バイトをしなくても悠々と暮らせるところを見るに、実家は間違いなく金持ちだろう。――あの引っ越しだけは、ただの金持ちには不可能に思えるが。
おまけに、加瀬は頭もいい。特に英語はネイティブ並みだ。俺もちょくちょく訳してもらっている。そのためなら膝枕も安いものだ(文章量により時間は変動)。お館様お館様と頬擦りされても、このときだけは見逃してやる。
だから、加瀬が女に話しかけられても、まあ、当然だよな、結婚狙いでなくても、とりあえず声はかけるよな、と俺は温かく見守っていた。この場合、俺の存在は無視されて当然である。俺に媚を売ったって、女が得することは何一つない。
だが、実は加瀬が最も嫌っているのは、俺と二人きりでいる時間を邪魔されることなのだ。
目立つことが大嫌いな俺のために、普段は当たり障りのない対応を心がけている加瀬だが、このときばかりは塩対応になる。ことに、逆ナンパだった場合には超塩対応だ。あからさまに迷惑そうな顔をして、先輩、ちょっと行きたいところがあるので付き合ってくださいと俺の腕を引っ張っていく。
たいてい、加瀬のちょっと行きたいところとは俺の部屋で、倉川様、倉川様と結婚を前提に付き合っているってカミングアウトしてもいいですかと俺を脅す。もちろん、そんなことはされたくないので、ねだられるまま、また膝枕をする。
膝枕は男のロマン。俺も男だ。それは認めよう。
しかし、される側はちょっとした拷問である。耐えきれなくなったら、アルコール臭がきつい薬用のウェットティッシュで加瀬の鼻と口を塞ぎ、強制終了させる。
なぜウェットティッシュなのかというと、最初、自分の手のひらで塞ごうとしたら、その手をつかまれてキスされたからだ。そのときはもう一方の手で加瀬の額を引っぱたいてやめさせたが、それ以降、加瀬は隙あらば俺にキスしようと狙っている。
慣れというのは恐ろしい。初めて会ったときは抱きしめられるのも嫌だったのに、今ではキスさえされなければ、人間座椅子をされても無視できるようになってきた。
だが、それはあくまでも、二人きりでいるアパート内での話だ。
一歩外に出たら、どんなに仲よく見えようが、俺たちはただの先輩と後輩である。
「なのにおまえは、どうしてそんなに手をつなぎたがるんだ!」
くそ暑い中、たまには休日デートがしたいという加瀬のリクエストにより、映画のロケ地にもなったとかいう市内の某市立公園に行った帰り道。
アパートからいちばん近いバス停で降りても、俺の憤りは収まらなかった。
「いいじゃないですか。誰も見ていなければ」
俺の少し後ろで加瀬がのんびりと答える。俺と一緒に歩くときはいつもこんな位置どりをする。そして、いざというとき俺を守るためという元護衛隊長らしい建前で徒手である。
「見てただろ! 女三人、イギリス式庭園そっちのけで、食い入るように俺たちを見てただろ!」
「そうですか? まったく気づきませんでした」
「嘘つけ! おまえは絶対気づいてた! 気づいた上で犯行に及ぼうとした!」
「犯行って……ただ手をつなごうとしただけじゃないですか」
「だから、何でわざわざ外でしようとするんだよ! それもギャラリーを確認した上で!」
「まあまあ。今日の夕飯は倉川様のお好きなそうめんにいたしますから。もちろん、天ぷらもおつけします。エビ、ナス、ミョウガ」
「うお、やった……」
思わず喜びかけてから、はっと我に返って加瀬を睨んだ。
「おまえ、俺に好物食わせとけば、何でもごまかせると思ってるだろ」
「そんなことは」
涼しい顔で加瀬は受け流す。
「いくら好物でも、焼きそばパンはあまり食べていただきたくないと思っておりますし」
「炭水化物と炭水化物の組み合わせがそれほど許せないか」
「組み合わせよりも、栄養の偏りが許せません」
前世で〝お館様〟が病死したせいか、加瀬は俺の食事にものすごく神経を使っている。その気になれば、栄養士にもなれそうだ。
陽光は赤みを帯びはじめ、暑さもかなり和らいできた。姿は見えないが、日中の分を取り戻すかのように蝉たちが合唱している。
今だったら手をつないでやってもいいかな。ちょっとだけそんなことを思いながら、アパートの横を通る道路の入口に入りかけたときだった。
路肩に黒塗りの高級車が止まっていることに気がついて、俺は反射的に足を止めた。
他県ナンバーで、リアガラスはスモークガラス。しかし、エンジンは動いているから、おそらく人は乗っている。
この付近はアパートが多く、そこに住んでいるのは俺たちみたいな学生か薄給の社会人がほとんどだ。つまり、こんな高級車には縁のない人間ばかりである。しかも黒塗り。嫌な予感しかしない。
触らぬ高級車に祟りなし。俺はいつもより遠回りして自分の部屋に向かおうとしたが、そのとき、その高級車のリアドアが開いた。
「兄上!」
ドアが開いたのと同時くらいだった。そこから出てきた人物が俺たちに向かって驚いたような声を上げた。
〝兄上〟とはまた古風な。そう思ったのもつかのま、俺はその人物を見て、今のは幻聴だったのではないかと思った。
一言で言うなら、ホスト風のチャラ男。茶髪で全身黒ずくめ。日焼け止めでも塗っているのか、肌は妙に白い。
これはもう別世界を通り越して別次元の人間だ。直視するのもはばかれる。だが、加瀬並みに整った容姿をしていることは確かだ。ということは。
バッと加瀬を振り返れば、加瀬は特別まずく作られた青汁を飲まされたような顔をしていた。こんな表情をしている加瀬を見るのはこれが初めてかもしれない。ついしげしげと眺めていると、チャラ男は今度は苛立たしげに叫んだ。
「貴様ーッ! 海外で兄上を捜すと言っておいて、ちゃっかり兄上を独り占めかーッ!」
「ええ?」
てっきり加瀬が〝兄上〟だと思っていた俺は混乱した。だったら〝貴様〟は誰だ? もしかして俺か? また前世ネタか?
そんな俺を落ち着かせるように、加瀬は俺の肩に手を乗せた。俺より高い体温が肩からじんわり染みこんでいく。
「独り占めも何も、おまえと協定を結んだ覚えは一度もない。その悪趣味な車に乗ってさっさと帰れ。近所迷惑だ」
チャラ男に答える加瀬の声は、逆ナンパしてきた女たちに対するとき以上に冷ややかだ。あのとき、鼻水を流して泣いていた男と同一人物だとはとても思えない。
「貴様ーッ!」
チャラ男は悔しげに柳眉を逆立てたが、ふと俺に目を据えると、まるで別人のように哀れっぽい表情をし、自分の胸に手を当てた。
「兄上! 兄上! 私です! あなたの弟のグラディスです! ずっとお会いしとうございました!」
「それはないだろう!」
考える前に口が勝手にそう動いていた。
何か叫び返そうとしていた加瀬が俺を覗きこみ、チャラ男は何を言われたか理解できずに呆然としていた。
「生まれ変わって私に会って……おまえに何の益がある? 私はもう何も持ってはいない……全部おまえに明け渡した!」
「そんな……誤解です、兄上! 私は兄上から何も奪おうとは思っていません! 私はただ本当に、兄上に会いたくて……!」
「黙れ、井崎! これ以上この方を苦しめたくないのなら、もう何も言うな!」
俺を反転させて抱きしめて、加瀬がチャラ男に叫ぶ。
加瀬は優しい。本当に優しい。俺に前世の固有名詞は一言も告げなかった。
「なぜ……なぜ兄上は私の言うことは信じてくださらないのですか……」
恨みがましそうにチャラ男が言う。
たぶん、信じられないことばかりおまえが言うからだろう。俺は目を閉じ、そのまま意識を失った。
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