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殺阿羅漢
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男は荒く息をしながら、ようやく目的地に辿り着いた。
中々の坂道で息が上がってしまっていた。
河川の上流というより、森と言った方が似つかわしい風景で、そこいらの草むらから鹿なり熊なり、飛び出してきてもおかしくないくらいの森林だった。
深い緑の匂いと、微かに花の香りが鼻孔に届く、深遠な空間。
もう少しもう少しと自分を励まし、疲れて言う事を聞きづらくなっていた脚に鞭打ち、一本の大木の元に行き着いた。
大木の枝に結われた縄の下、その人は居た。
男の先輩であり、同じ時間を共有してきた研究者であった。想い人であった。
彼女はふと男に気づく。
泣き腫らした眼、無惨に刻まれた栗色の髪、蒼くなった節々。細い白い腕にも痣が点々と見える。
見すぼらしい―
男の、素直な感想だった。美しくないと思った。
彼女はそんな姿を見られたくないのか、薄いパーカーを慌てて羽織り、震えていた。
見ないで、と小さく呟いた。
己のした事、恋人にされた事。様々に渦巻いているのだろう。
今まで回想を紡いでいた男とは違う男性と交際し、その男性が嫉妬深過ぎた上で暴力を振るうと発覚したのは最近の事だった。
彼女が僥倖だったのは、スマートフォンを使えた事と、一時的に交際相手からの監視から抜け出せた事だった。その隙に彼女は思い入れのあるこの場所を死に場所と決め、そして、死に際に気づいた本当の想い人に連絡を取ったのだ。
かくして、男はここまで来たのだが、本当に落胆していた。
多少彼女と話す気にはなるが、男にとってこんなクリシェの様な展開は興醒めにも程があった。
輝いている彼女なのに―
多少の翳りと月明かり。宵の明星。
それらが男が彼女の好いていた部分だったのに―
今は、闇の深く、悲哀が見える。
鼻の奥がつんとする。男にはこういう時に上手く振る舞える程の、器量も器用さも無いのだ。
「ここで、星を見たね―」
男は唐突に言った。
彼女は黙した。
「そして、初めて関係を持った―」
「色々な人に囲まれて生きて、性格が良くて、君の発見が世界の人々の役に立って、君はまるで聖人だよ―」
「いや、僕には君が女神に見えていたんだ―」
「けれど、そんな女神も、僕の幻想だったって知ったんだ」
男は冷めた調子で話しながら近寄り、彼女の頭上から声を降らす。
それからの言葉は、彼女にとっては、天使の囁きにも似た様なものだったのであろう、男の足元に縋り、涙を溢れさせた。必死に謝罪を口にした。
だからこそ、男は彼女の体を起こす。
起こしつつ、耳元で尚も囁いた。
その言葉達は彼女の脳で、百足の如く這い回った。
僕が足場になるから、と男が一言告げ、縄の下で彼女を抱き上げると、彼女は躊躇も無く首に縄をかけた。
抱き締めた体を離すと、嗚咽が響いた。
彼女は男の中で、聖人として亡くなったのだ。決して女神などと言ってはならないのだ。
男は地獄に落ちる事を承知で、彼女の体躯を、吊り下げられた縄一本に託した。
彼女の遺体は森林にとても良く映えた。油絵にでもしたいくらいだったが、この風景は男だけの物だ。男だけの宝だ。
疼く心を呑み込んで、男もまたこの世から旅立った。
きっと地獄で一緒になれるのだから。
中々の坂道で息が上がってしまっていた。
河川の上流というより、森と言った方が似つかわしい風景で、そこいらの草むらから鹿なり熊なり、飛び出してきてもおかしくないくらいの森林だった。
深い緑の匂いと、微かに花の香りが鼻孔に届く、深遠な空間。
もう少しもう少しと自分を励まし、疲れて言う事を聞きづらくなっていた脚に鞭打ち、一本の大木の元に行き着いた。
大木の枝に結われた縄の下、その人は居た。
男の先輩であり、同じ時間を共有してきた研究者であった。想い人であった。
彼女はふと男に気づく。
泣き腫らした眼、無惨に刻まれた栗色の髪、蒼くなった節々。細い白い腕にも痣が点々と見える。
見すぼらしい―
男の、素直な感想だった。美しくないと思った。
彼女はそんな姿を見られたくないのか、薄いパーカーを慌てて羽織り、震えていた。
見ないで、と小さく呟いた。
己のした事、恋人にされた事。様々に渦巻いているのだろう。
今まで回想を紡いでいた男とは違う男性と交際し、その男性が嫉妬深過ぎた上で暴力を振るうと発覚したのは最近の事だった。
彼女が僥倖だったのは、スマートフォンを使えた事と、一時的に交際相手からの監視から抜け出せた事だった。その隙に彼女は思い入れのあるこの場所を死に場所と決め、そして、死に際に気づいた本当の想い人に連絡を取ったのだ。
かくして、男はここまで来たのだが、本当に落胆していた。
多少彼女と話す気にはなるが、男にとってこんなクリシェの様な展開は興醒めにも程があった。
輝いている彼女なのに―
多少の翳りと月明かり。宵の明星。
それらが男が彼女の好いていた部分だったのに―
今は、闇の深く、悲哀が見える。
鼻の奥がつんとする。男にはこういう時に上手く振る舞える程の、器量も器用さも無いのだ。
「ここで、星を見たね―」
男は唐突に言った。
彼女は黙した。
「そして、初めて関係を持った―」
「色々な人に囲まれて生きて、性格が良くて、君の発見が世界の人々の役に立って、君はまるで聖人だよ―」
「いや、僕には君が女神に見えていたんだ―」
「けれど、そんな女神も、僕の幻想だったって知ったんだ」
男は冷めた調子で話しながら近寄り、彼女の頭上から声を降らす。
それからの言葉は、彼女にとっては、天使の囁きにも似た様なものだったのであろう、男の足元に縋り、涙を溢れさせた。必死に謝罪を口にした。
だからこそ、男は彼女の体を起こす。
起こしつつ、耳元で尚も囁いた。
その言葉達は彼女の脳で、百足の如く這い回った。
僕が足場になるから、と男が一言告げ、縄の下で彼女を抱き上げると、彼女は躊躇も無く首に縄をかけた。
抱き締めた体を離すと、嗚咽が響いた。
彼女は男の中で、聖人として亡くなったのだ。決して女神などと言ってはならないのだ。
男は地獄に落ちる事を承知で、彼女の体躯を、吊り下げられた縄一本に託した。
彼女の遺体は森林にとても良く映えた。油絵にでもしたいくらいだったが、この風景は男だけの物だ。男だけの宝だ。
疼く心を呑み込んで、男もまたこの世から旅立った。
きっと地獄で一緒になれるのだから。
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