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ある七夕に。
しおりを挟む「あのおっさんのことだから、ぜってー『今日は俺が彦星だ!』とかやるんですよ。くそうぜえっていうか、腹が立つっていうか、やっぱうぜえんですけど。それにいちいち付き合う比奈さんの人の好さもどうかと思うんですよ。俺」
営業所に戻るなり聞こえてきたのは、そんな十間あきらの声だった。十代後半、青春も反抗期もまっさかりな彼には常日頃から周囲の大人たちに対してなにかと思うところがあるらしい。歳の近い石竹桃や同性の烏羽京を掴まえて不平不満を並べ立てることもしばしばで、少なからずあきらの言う“鬱陶しい大人”の自覚がある比奈にしてみれば耳の痛い話であった。
彼の愚痴は、まだ続いている。
「つうか、七夕の話でしたっけ。いい歳して願い事もなにもないと思わねっすか? 烏羽さん」
「いやまあ、本当に願い事が叶うなんて思ってるやつは多くないんだろうぜ。女の子が浴衣着て夜空を眺めるってそれだけで胸にくるものがあるって、つまりはイベントにかこつけて普段とは違うシチュエーションを楽しみたいって話。それで『京くんといつまでも一緒にいられますように』なんて願われちゃったら、俺だってきゅーんとしちゃうし」
いつもの調子で、京。彼らしい答えだった。あきらはいまいち彼の言うシチュエーションが想像できないのか、首を傾げている。
「烏羽サン、今彼女いましたっけ?」
「いや、いないけど。次の休みに春さん連れて合コン参加予定。お前も来る?」
「行きませんよ。俺そういういかがわしいの好きじゃねえし」
「いかがわしいって。お前、ひねくれてるくせに変なとこ真面目だよなぁ」
「つか、蘇芳サンが行くってのが意外です」
「春さんにはただの飲み会としか言ってないからなー」
「……怒られますよ」
と、そのあたりで彼らの話を聞いていることにも飽きたのか、御霊が床からゆっくりと体を起こして目の前のドアを押し開けた。油が足りないのか、蝶番がギィッと短く耳障りな悲鳴を上げる。その音に気付いた中の二人が同時に振り返ってきた。
「比奈さん! お帰りなさい」
声のトーンを上げて、あきらが迎える。出会った頃に少しだけ力になったことがあったためか、律儀に慕ってくれているらしい。そんな彼のことは比奈も弟のように思っているのだが、それを言えば子供扱いをしてくれるなと怒られてしまいそうなので口にしたことはない。
「ただいま。二人とも、休憩?」
「はい、丁度さっき昼を食ったところっす。午後は荷物も少ないから一時間くらい待機してていいって、常盤サンが。比奈さんは……」
「少し挨拶回りにね。午後は緑さんと交代で、営業所に残るから」
「うぃっす。比奈さんの指示なら俄然やる気が出ます」
常盤が聞いたら憤慨しそうなことを言う彼に、比奈は苦笑した。彼女も厳しいなりにあきらのことを気に掛けているのだが、どうにも伝わっていないらしい。烏羽もひょいと肩をすくめている。
「お帰り、ショチョー。って、なに持ってんの? 笹の葉?」
と、訊かれて比奈はあらためて自分が持ち帰ったものの存在を思い出した。
「あ、ええと……北岡さんのところでもらってきたの」
小さな笹と短冊の束は、店主の孫たち――相馬空と北岡あかりに持たせられたのだ。店に飾ろうと密かに計画していたが、彼らの祖父も同じように笹を用意していたので二つになってしまったとの話だった。
俺にまで短冊を渡してきたんだ、あのじいさん――と、空が気恥ずかしそうに教えてくれた。以前はどこかぎこちなかった彼らだが、今はそれなりに上手くやっているのだろう。かつて彼らの家庭事情に首を突っ込んだ比奈としては、嬉しい限りである。
それはともかく。
なんともタイムリーな、と烏羽は苦笑い。気難しげなあきらの顔を見ていると、間が悪かったかと申し訳ないような気になってくる。
「みんなで書こうかなって。嫌だったら、わたしが持って帰るけど――」
おずおずと言えば、あきらが慌てたように顔の前で両手を振った。
「いえ、書きます! 俺、こういうイベント嫌いじゃないんで」
「その掌の返しっぷり、清々しいな」
呆れ半分、感心半分で烏羽が呟いている。先までの会話はなかったことにしたのだろう、あきらの返事は素っ気なかった。
「なんの話か分からないっす。烏羽サン」
「あはは……」
聞こえていたんだけどな、とは言わずに比奈は曖昧に笑って二人に短冊を渡した。笹は、入り口の花器に挿しておく。つい先日に辰史が置いていった細長い竹製のもので、一体なにに使えばいいのかと皆からは不評だったのだが思わぬところで役に立った。或いは彼のことだから七夕を見越していたのかもしれないな――と思うのは、恋人贔屓が過ぎるだろうか。
一方、あきらと烏羽はガラステーブルの上で思い思いにペンを走らせている。
「で、坊ちゃんはなんて書くんだ? なになに? 所長とデートしたい?」
「見ないでくださいよ! つうか烏羽さん、宝くじが当たりますようにってなんすか」
「いやなんか、いざ願い事をって言われると他に思いつかないんだよなー」
「うわー、寂しいっすね」
「そこは世辞でも普段から充実してるんですねーとか言ってくれって」
「充実してる人は合コンなんか行かねんじゃないっすか」
「お子ちゃまだなー、あきらは。俺は寂しいから合コンに行くわけじゃないんだぜ? めちゃくちゃ出会いたいとかそういうわけでもなく、なんていうの、ああいう軽く騒げるノリを楽しみたいっていうか。つまりは息抜きの一環としてだなァ……」
「うぜー」
彼らはそんなことを言い合っていたが。
不意にあきらが顔を上げて、比奈に視線を投げてきた。
「比奈さんはなんて書くんですか?」
あからさまに不安げな彼の瞳に、比奈は少しだけたじろいで答えた。
「稲荷運送のみんなの健康祈願、かな」
「初詣じゃねーっすよ。まあ、比奈さんらしいですけど」
そう軽口を叩きながらもほっとした様子のあきらには申し訳ないと思いつつ、
(それも嘘じゃないんだけど……)
もう一枚、密かに短冊を重ねて目立たない場所に結んでおく。もしかしたら自分にとっては、こちらの方が本命なのかもしれなかった。
***
「なんてことがあったんですよ」
夜――比奈のマンションである。見かけによらずイベントにはマメな恋人を迎えて、食事を終えたところだった。食器を片付けて、ソファに体を沈めている辰史の隣に腰を下ろす。なんとはなしに思い出して昼間の話をすれば、彼は酷く微妙そうな顔をした。
「で、お前は言うと思ったのか?」
「なにをです?」
「いや、だからその、俺が彦星だってやつ……」
心外だったらしい。苦い顔で訊いてくる辰史に、比奈はまさかと笑った。
「年に一度の逢瀬で我慢できるような人じゃないでしょう、辰史さんは」
自惚れているようでいささか躊躇われたが、事実ではある。そう告げれば本人に自覚はなかったのか、彼は拗ねたように唇を尖らせた。
「なにやら忍耐力がないように思われている気がするが、俺だって二十年も待ったんだぞ。お前のことを」
そのあとだって。と、言われてしまうと返す言葉がない。出会う前の二十年、そして出会ったあとの数週間。確証のない運命を待ち続ける不安は、比奈にも、他の誰にも理解できるものではないのだろう。
「じゃあ言い直しますね。年に一度なんて、わたしが耐えられないんです」
それもまた事実である。周囲や辰史は思い違いをしている節もあるが、彼らが思うほど比奈に余裕はない。いつだって不安で、辰史のことを求めている。それを口に出すよりも先に辰史が満たしてくれるため、彼の一方通行のように見えてしまうというだけで。
週に何度も会っている今でさえ、それでもまだ足りないと思うのに。
嬉しさと少しの申し訳なさにそう零せば、辰史は僅かに目を大きくした。驚かれるほど突拍子もないことを言っているつもりはないのだけど――と思いながら、比奈は秘密を打ち明けるようにこっそりと続けた。
「もう一枚の短冊に、なんて書いたか教えてあげましょうか」
――辰史さんと、いつまでも一緒にいられますように。
ついぞ、稲荷運送の仲間たちには明かすことができなかった。けれど書かずにもいられなかった願いだった。笹は明日の朝一番で片付けてしまおうと思っているから、そのまま誰にも知られることはないだろう。もしかしたら勘のいい常盤あたりは二枚目の短冊に気付いたかもしれないが。
「烏羽くんが言うには、きゅーんとしちゃうんだそうです。浴衣ではありませんけどね」
言ったあとで恥ずかしくなってしまって、比奈は言い訳がましくまくし立てた。
「お前な……」
辰史は片手で顔を押さえている。なにかまずいことでも言ってしまっただろうか――と一瞬だけ不安になったが、続く言葉を聞くにどうやらそうではないようだった。
「ずるい」
照れているのか、彼の耳はほんのりと赤く色付いている。
珍しい。そう思いながらまじまじと見つめる比奈に、辰史は困ったような顔で続けた。
「時々そうやって素直になるのはずるいぞ。あのバカの話に乗っかるのは甚だ不本意だが、確かにたまらない。嬉しいし、ほんの少しだけ悔しくもある」
「悔しい、ですか?」
意味が分からずに訊き返す。と、彼は喜んでいるような腹を立てているような複雑な顔でぎりぎりと呻いた。
「俺の方が好きなつもりなのに、お前みたいに上手く伝えることができない。言葉だけじゃァ足りないが、かといって物や金を積むのは違う。違うと分かっていても、そういう下卑た発想しかできない自分が嫌になる」
自己嫌悪に陥ってしまったのか、ああああと顔を押さえたまま唸っている。存外に繊細なのだ、彼は。やはり申し訳ないと思いつつも、比奈は笑ってしまった。
「わたしは、辰史さんが羨ましいんですけどね」
「なんで」
指の隙間から恨めしげに見つめてくる彼の視線に、答える。
「いつだってストレートに伝えてくれるでしょう。同じように返したいって思っているのに、わたしは恥ずかしくなってしまってできないんです」
だからこういうときくらい、素直に喜んでほしいのだ。辰史はまだ納得していない風であったが、そっと肩に頭を寄せればようやく機嫌を直してくれたようだった。日頃隙のない彼が、自分の前でだけふと気を緩める――その一瞬が、比奈は好きである。
まるで永遠を思わせる幸福を後ろめたく思う気持ちがないわけでもない、が。
「辰史さん」
名前を呼ぶ。見上げると、黒曜の瞳とかち合った。すべてを包む夜の闇にも似た優しい色。過去への苦悩も未来への不安もすべて拭い去って、胸の内にあたたかなものだけを残してくれる。そんな目だった。
(わたしの他は、きっと誰も知らない)
人からは傲慢だと言われる――その極端さを勿体ないと思う反面で、微かな優越感がこの胸を満たしていることも確かなのだ。それを知ったら、彼はどう思うのだろうか?
(やっぱり、喜んでくれるんだろうな)
彼は浅ましい独占欲すら特別なのだと言ってくれる。比奈は密かに自答して、はにかむように笑った。
「わたし、辰史さんが思っているよりもずっと辰史さんのことが好きなんですよ」
手を絡める。少し骨張った、大きな手だ。その手を離す日が来ないことを心から願いながら、比奈は囁くようにそう言った。上からは、笑みを含んだ辰史の声が聞こえてくる。
「知ってる」
言葉どおり、そこには胸の内を見透かす響きがあった。
「お前の独占欲が意外に強いことも、俺のことが好きでたまらないってことも、知ってるよ。俺はお前のことならなんだって知ってる」
自惚れじゃァないだろう、と悪戯っぽく訊いてくる。辰史に、比奈は絡めた手にきゅっと力を込めて肯定した。影の狐は気を利かせたつもりなのか、ひっそりと静まりかえっている。穏やかな静寂に落ち着かない心地で――星でも見ましょうか――と立ち上がろうとすると、辰史がそれを押し止めた。苦笑の交じった瞳が、逃げるなよと告げてくる。
「空の上では牽牛と織女が久方ぶりの逢瀬に燃えているだろうが……」
一転した、低く誘惑的な声だった。絡めた手をほどいて、肩に触れる。その手が熱を帯びていることに気付いて、俯く。恐らく――彼の瞳に映る自分の目は、分かりやすく情欲の赤に染まっているのだろうな。と恥ずかしく思いながらも、その先を期待せずにはいられない。
「俺たちも負けちゃいないって、見せつけてやろうぜ」
なあ、比奈。
囁きが耳元で響いた。それからすぐ頬のあたりに押しつけられた唇の感触がくすぐったくて、そしてやはりどうしようもなく幸せで、比奈はふわりと甘い吐息を漏らした。
END
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