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我が愛しの猟犬
エピローグ.丹塗矢夫妻のささめきごと
しおりを挟む――すっかり遅くなってしまったな。
警官二人に見送られ、八津坂市を発ったときにはもう陽も暮れていた。一年とはいえ我が子のように可愛がった犬に気を揉まされて、本音をいえばこのまま宿へでも直行したいところではある。とはいえ、三条院家との約束もあるため、ままならない。
上海に住む故三条院修泉の養女、姉兄たちからは末の妹と可愛がられる娘が兄弟子とともに帰国しているらしい――その兄弟子というのは言わずもがな、三輪家の長男秋寅である。修泉の店を潰した経緯から三条院本家を避けがちな秋寅だが、上海と日本とを跨いで起きていた事件が解決したということでさすがに報告しないわけにはいかなかったのだろう。秋寅一人では針の筵だろうからと本家の長女が気を遣い、丹塗矢夫婦に声を掛けたのだった。もとより関東へ足を運ぶついでに三条院気にも挨拶をしようと思っていた丑雄は、二つ返事で誘いを受けた。
三条院家に向かう特急列車のボックス席で、丑雄は物思いに耽っていた。緒田原家で多聞丸と別れ、いくらか感傷的になっている自覚があった。
(……無理を承知で、うちで引き取らせてもらえないかと頼むべきだったかな)
そんな思いも少なからずある。もちろん羽黒家の体面もあるので、妻が自分を諫めて終わりということにはなっただろうが――気持ちの問題だ。また妻が理性的である分、たまには自分が胸の内を代弁してやってもいいのではないかと、思わないこともないのだ。
(と……思考を重ねるばかりで、なにひとつ実行できないのがなんとも情けない)
思えば昔からそうだった。理性と激しい感情の狭間で、常に惑っている。
「丑雄さん、なにを考えているのですか」
「伊緒里……」
隣を見ながら、丑雄は掌で自分の顔を撫でた。
表情は――触った限りでは――まったく動いていないように思える。いつも、そうだ。妻にはなんでも見透かされてしまう。彼女が特別鋭いのか、自分が特別分かりやすいのか。それとも、それが夫婦というものか。
(一緒になって、もう十年も近く経つ)
内心、独りごちる。もう十年。身内との確執はあったものの、夫婦の関係だけでいうのなら、ただひたすらに幸福を貪ってきた十年だった。
弟を亡くしてからは父母に甘えることも躊躇われ、丹塗矢家の当主となることばかり考えていた。周囲からも、同様に扱われてきた。母が死に、父が早々に隠居を決めてしまった日まで、そんな日々になんら疑問を抱かなかった。気付いたときには、当主としての自分しか残っていなかったのだ。多少は子供扱いしてくれた祖父とは縁を切ってしまったし、弟がいなくなってからは唯一自分を兄と呼ぶ従弟は国外に生活基盤を作っていた。
(幸せにしてもらったのは、俺の方なのだろう)
丑雄は、そう思う。当時もう成人していた自分が未成年だった彼女に救われたというのは、言葉にしてしまうと酷く俗っぽいようにも感じられるものの、出会った日に降っていた雪のように、静かに愛を降り積もらせてくれる妻は、丑雄が弟を亡くして以来初めて得た平穏である。
(ああ、いけないな)
八津坂署の警官たちが仲睦まじそうにするものだから、あてられてしまったかもしれない。
家を一歩出れば丹塗矢家当主としての立場があるというのは妻も言ったとおりだ。自覚がないわけではないが、こういうとき――外でふとした衝動に駆られたとき――普通の恋人や夫婦のように素直に触れることもままならないのは、もどかしい。
「ようやく乳離れしたような子犬を、家に向かえた日のことを思い出したんだ」
それを聞くと、伊緒里が目を伏せた。長い睫毛が震える。これくらいはいいよなと思いながら、丑雄は妻の目元に手を伸ばした。涙は浮かんでいない、どこまでも気丈な妻の目尻を、親指の腹で撫でる。
「俺は、命ある生きものを育てたことがなかった。長く接した生きものらしきものといえば式神の火雷くらいのもので、それすら弓の形状を好んでいる。秋寅のやつはまるでペットのように式神を野放しにしていたが、正直理解ができなかった。だから途方に暮れたものだ」
「ええ、ええ。躾も済んでいない多聞丸に右往左往させられる丑雄さんは、見物でした」
小声で言って、伊緒里が少し笑う。
「本当に、右往左往の日々だったな。少し目を離すとあちこちで粗相をする。トイレの場所を覚えさせるのも一苦労で、歯の生え替わる頃になれば痒がってあちこち齧り付く。気付けばテーブルの脚はぼろぼろで、甘噛みをされて俺の手もお前の手も傷だらけだった」
言いながら、丑雄はちらりと手の甲に視線を落とした。
当然だが――そこに傷は、残っていない。そのことを寂しく思いながら、続ける。
「ぬいぐるみの類を与えれば、十分で綿を引きずり出してしまう。けれど驚くほど賢くて、なにをすれば叱られるのか分かっている。悪いことをしたあとには必ず項垂れてみせる」
「そんなあの子のことを、あなたは叱れませんでしたね」
「厳しくできると、自分では思っていたんだがな」
「わたしはそうは思いませんでした。あなたは、甘い人ですから。わたしにも」
「そうか」
自覚はなかったが、丑雄は素直に頷いた。妻が言うなら、そうなのだろう。
「手元から離れて一年。一年会わずにいても、やはり姿を見れば引きずってしまう」
「ええ。わたしも、羽黒の家にいた頃は手放すことに慣れていたはずですのに」
蕾のような唇から、伊緒里は美しい吐息を零した。
「実家から、また犬を預かってくれないかと何度か打診はありましたが……」
「無理だろう」
「ええ。わたしたちに、預かり親は向かないのだと思います」
丑雄自身も思い入れを捨てることのできないたちであるだけに、妻の気持ちはよく分かる。自分たちにとって、一度懐へ入れたものを手放すことは難しすぎる。
「では……」
妻の顔を眺めながら、丑雄は呟いた。
珍しく気落ちしている彼女を見ていたら、なにか言わずにはいられなかったのだ。
「犬を飼うか。終生、うちで面倒を見るつもりで」
「多聞丸が妬くのではないかと思うと、それも難しいです。もしも、もしも何年も経って、あの子が異能犬としての役目を終えたときには、また迎え入れてあげたいですから」
ああ。ああ。伊緒里の言うとおりだ。
妻の言葉を胸の内で反芻しながら、丑雄は一度だけ目を瞑った。彼女の言う、何年後かの未来を思い浮かべる。多聞丸の年齢を考えると、七年、八年、それくらいか。
少しだけ歳をとった妻と、自分。
そして――
「それなら」
胸の奥で渦巻いていた愛おしさが言葉となって、口をついて出た。
「子供を……」
「はい?」
「子供を、作ろうか」
妻にだけ、ようやく聞こえるほどの声で囁く。
二度、三度――また瞬きをして――今度は感傷ではなく、単純に驚いたようだ。言葉の意味を理解した妻の白い顔が赤く染まっていくのを、やはり愛おしく思いながら眺める。
「俺の我侭で随分と先延ばしにしてきてしまったが、そろそろいい頃合いだと思う」
「それは年齢的な意味でしょうか?」
「そうではないと分かっているくせに、意地の悪いことを言う」
伊緒里とは見合い結婚だった。夫婦になったばかりの頃は彼女も未成年だったし、まずは二人で絆を深めようという話になった。それにしても子を持たずに十年とは長いと言われるたび、及び腰なのは自分の方だと口にしてきた。絆を深めるほどに彼女を愛してしまって、愛するほどに、いい父親になれる自信がなくなったのだ。
愛情が子にばかり注がれるようになるかもしれないことを、どこかで恐れていた。
(俺は存外、独占欲が強い)
苦笑いして、それを認める。伊緒里と出会わなければ、知らなかった感情だ。
だが、今は――
「ふと、三人も悪くないだろうと思った。いや、三人と一匹、四人と一匹かもしれないが」
「丑雄さん」
「はじめての我が子に右往左往させられる俺と、慈しみ深く見守るお前。歳を取った多聞丸も、きっと子の面倒をよく見てくれるだろう。そんな想像をしたら、俺もお前と同じくらいに子を愛せるのだろうと、自然と思えた」
また、囁く。伊緒里が囁き返してくる。
「……こんな場所で言うことではありませんよ」
「まあ、確かに」
アナウンスや人の声にまぎれて周囲に聞こえることもないだろうが、丑雄は頷いた。
「ただ、そう思ったときに言っておきたかった。想うだけでは伝わらない」
そのことは、祖父や従弟との一件で嫌というほど思い知らされた。祖父との決別がなければ、もしかしたら伊緒里とこうして夫婦になることもなかったかもしれないが――それでも丑雄は時折、祖父と和解していた未来を想像する。もっと早く気付いていれば、孤高の祖父にも穏やかな晩年を迎えさせてやれたのかもしれない。
「そうですね」
伊緒里が答えて、触れている丑雄の手に彼女自身の手を重ねた。
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