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虚妄と幸福
17.決裂
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12月24日 19:40
――屍喰だ。
短く叫ぶなり、報復屋は律華を運転席から追い出した。
「な、なんなんですか?」
いつもは人に好き勝手やらせるような律華ではないが、この報復屋が相手だと多少勝手が違ってくる。報復屋がそう言い出したのは、リストに載っていた二軒目の事務所を訪ねたすぐあとだった。
その名も「F&K遺品整理代行サービス」
個人のマンションを事務所代わりにしているらしい。律華のアパートとは違いセキュリティも充実していたため管理人に言って入り口を開けてもらったが、確認できたのは住人の不在だけだった――のだが。
「所有者だ!」
やはり説明の手間を惜しみ、報復屋はアクセルを踏み込んだ。
車体が一度、がくんと揺れる。まだシートベルトを締めていなかった律華は、衝撃でグローブボックスに顔をぶつけた。
「わぶっ、ちょっ、シートベルトッ」
舌を噛みそうになりながら、慌ててシートベルトを締める。
辰史の運転は控えめに言っても酷かった。少し三半規管の弱い人なら、すぐに酔ってしまいそうだ。彼がハンドルを切るたびに、体が大きく左右に揺れる。
ガゴゴゴゴゴゴ
「あだだだだっ」
発火しそうなほどに側頭部をカーウィンドウで擦られて、律華は思わず悲鳴を上げた。律華も、そして九雀も、警官として日頃は安全運転を心がけている。鷹人でさえ、運転は意外なほど丁寧なのだ。
「ぶっ、三輪っ、氏! 安全運転で、お願いします……! それから法定速度を――」
「んな悠長なこと、言ってられるか――っと、ここだ」
話していたかと思うと、ありえない角度で狭い角を曲がっていく。古びたブロック塀に、サイドミラーが接触し、ごりごりと削れる。律華は血の気の引く思いで呻いた。
「あああ……署の車が……」
「大したこっちゃねえだろ」
彼はどこまでも涼しげだ。
そもそも彼は免許を持っているのだろうかと、律華はかなり不安になった。
「あの、三輪氏……免許は?」
「任せろ。ゴールドだ」
軽く頷く報復屋に、確信にも似て強く予感する。
「もしや、ペーパードライバーでは……?」
「そうとも言うな。あのシステムって、どうかと思うぞ」
「自分も今、同じことを思っています……」
辰史はサイドミラーをぶつけ、ゴミ捨て場のゴミをはね飛ばし、縁石に乗り上げながら、追跡を続ける。あたりに人の姿がないことだけが、唯一幸いだった。人の多い昼間だったら、こちらの方が大きな事件になってしまっただろう。
(クリスマス・イブの暴走運転! 八津坂署の警官も同乗。洒落にならない)
シェイクされすぎた脳みそがどろどろに溶けて、口から出てくるのではないかと思い始めた頃――辰史が突然、急ブレーキを踏んだ。律華はもう踏ん張る気力も失って、再びグローブボックスに顔をぶつけた。ついにエアバッグまで作動する。
「なに遊んでんだ、真田」
誰のせいだと思っているのか、報復屋はこちらをじろりと睨むと、運転席から飛び出していった。車の前方では、二人の男が唖然とした顔で棒立ちになっている。
律華はそれに気付くと、慌ててエアバッグを押しのけ、シートベルトを外した。
「うっぷ……」
吐き気をどうにかこらえ、辰史の後に続く。
男たちの頭上では、屍喰といったか――独眼の鴉が弧を描くように飛んでいた。彼らは、屍喰から逃げていたのだろう。あたりを見回すと、ちょうど彼らと、車の後方にあるコンビニとの間に割り込んだような形だ。
運転の荒い短気な報復屋は、もう懐から呪符を取り出している。
さすがに、律華は彼を制止した。
「待ってください、三輪氏!」
「なにやってんだ、真田! せっかく所有者を見つけたんだぞ!」
辰史は鋭く叫ぶが――
「相手は、見たところ民間人です」
「所有者なんて、大抵は民間人だろうが」
「しかし、こちらへの攻撃意思はないようですし――」
両手に紙袋を抱えた彼らは、どう見ても買い物帰りである。自分が所有者であることに気付いているかもあやしい。闖入者に、完全に困惑しているように見える。
「まずは事情聴取から……」
律華の提案を、しかし辰史は半ばで遮った。
「ああもう、お前もそういうタイプか。もういい、自分でやる」
言うが早いか、もう胸の前で印を結んでいる。次の瞬間に現れたのは、蛇にも似た生きものだった。本来目があるべき場所は、つるんとしている。目のない蛇の式神だ。
「地抉――」
辰史の呼びかけに答え、式が体をうねらせる。
「行け!」
「待ってください!」
律華は慌てて、彼らと辰史との間に割って入った。だが、式神の動きは止まらない。獲物を見つけた大蛇の動きで律華に飛びかかり、するりと胴に巻き付いた。
「怪我したくなかったら、邪魔をするな」
「いえ!」
吐き捨てる辰史に、律華はかぶりを振った。
ぎりぎりと締め上げられ、肋骨が軋むが――
「自分は警官です。このようなやり方は、認められません」
地抉は、胴を締めたまま威嚇を繰り返している。律華は蛇の頭を両手で掴むと、その口を力任せにこじ開けた。中は漆黒の闇だ。
そこへ警棒を突っ込み、手元のスイッチを押し込む。
十河式警棒は、対呪症用装備だ。先端からは、呪症のはたらきを抑制する磁気が流れる仕組みになっている。それが式神に作用するかは賭けだった。
手応えは、あった!
屍喰の頭が大きく痙攣する。次の瞬間、目のない蛇はただの式符に戻っていた。
「お前……!」
辰史が目をつり上げる。律華は、息を吐く暇もなく所有者たちを振り返った。
「おい、お前たち!」
先に動きを取り戻したのは、長身の方の男だった。報復屋か、九雀と同じ年頃だろう。女好きのする顔をしたいかにもな色男だが、眼差しは怜悧さをたたえている。
「今のうちに逃げろ」
矢継ぎ早に言ってから、律華は自分の口から出た言葉に愕然とした。
「いや、違う。逃げられては困るんだが、しかし……」
それはほとんど、意味をなさない言い訳のようなものだった。男は頷きもせず、まだ硬直していた色の白い青年の肩を揺さぶると、半ば引きずるようにして道を引き返していった。その姿が、あっという間に見えなくなる。
あとには酷く険悪な顔をした報復屋と、律華だけが残された。
「どういうことだ、真田」
唸る彼に、律華は気弱に言い返した。
「やり方が、まずいと思います。自分は……」
――違う。まずいのは自分も同じだ。所有者を逃がしてしまった。
律華はそれを認め、汗ばむ手で十河式警棒を握り直した。辰史は激怒している。懐に手を入れて――おそらく、新たな式神を繰り出そうとしているのだろう。
はたして、その予感は当たった。
「天穿!」
辰史が憤怒とともに叫ぶ。今度は、三つ目の針鼠だ。天をも突く銀色の針は、今の彼の気持ちを表しているようにも見えた。それはヤマアラシ大にまで膨らみ、赤い目でぎょろりと律華を睨み付けた。
辰史は、更に頭上の鴉に命じる。
「所有者たちを追え! 俺も、後からすぐに行く」
鴉が短く鳴き、飛び去っていく。
「また邪魔されたら敵わんからな。ここで決着を付けさせてもらう」
にこりともせず、辰史が向き直ってきた。
「…………」
律華は一言も発せずに、彼らと対峙した。
――本来の君がどういった人間なのかは、なんとなく想像が付くよ。このままの方が、君にとってはいいのではないかとも。
ああ、一度は否と答えたのに。
こんな状況で猶、胸のうちはいつもより穏やかだ。そうと気付いてしまったら、所有者を確保して日常へと戻ることが恐ろしくなってしまった。
どこまでも冷静に自分の心境を分析し、律華は軽く唇を噛んだ。
(九雀先輩……石川……)
こんなとき、九雀がいたら道を示してくれただろう。
こんなとき、鷹人がいたららしくないと叱咤してくれただろう。
だが、二人はいない。自分という人間を構成していた感情は何度たぐり寄せようとしても形にはならなかった。繰り返す思考の中で、次第になにをもって自分らしいといっていたのかさえ分からなくなってくる。
「自分は、このような解決法は望みません」
酷く薄っぺらな言葉だ、と律華は思った。報復屋も同じことを思ったのだろう。黒曜の目をいっそう険しくした。
「だからって、所有者を逃がすのが警察のやり方か?」
「いえ、いいえ――」
「お前みたいなやつを、俺は知ってる。あっちこっちに同情して、ひとつのものに筋を通さない。正義感が強いと思い込んでいるだけの、迷惑な馬鹿だ」
「正義感からの行動なら、まだましでした」
律華は苦い心地で呻いた。
(わたしの場合は、独善正義よりもっと悪い)
その告白に報復屋は怪訝な顔をしていたが、話す時間を惜しんだのだろう。最後通牒を突きつけるように、一度だけ腕を振った。
天穿の針が、夜の闇にぎらぎらと鋭い光を放っている。それでも律華は退けないのだ。足がまったく動かない。
辰史が溜息を吐き、手を振り下ろした。合図に従い、式神が突進してくる。律華は腰のホルスターからいつもは拳銃を抜いた。中身は殺傷力の低いゴム弾だが、うまく当てれば人を行動不能にするくらいは可能だ。
もっともそれをすれば、もう言い訳のしようもなくなってしまうが。
自分が酷い間違いを犯していることを自覚しながらも、律華は目に見えないなにかに急かされるように拳銃を構えた。真っ直ぐ突っ込んでくる式神に狙いを定め――
パァンッ!
夜の静寂に響いた音は、ゴム弾の炸裂音ではなかった。
律華はびくりと肩を震わせて、手から拳銃を取り落とした。辰史が乗り捨てた黒いセダンの後方に、見慣れたシルバーのセダンが見える。後部座席の窓から顔を覗かせているのは、鷹人だった。彼が、地面に爆竹を叩きつけたらしい。
「どうして、あなたたちがやり合っているんだ」
事態は把握できないまでも、不穏な空気は感じたのだろう。
「後輩ちゃん、平気か?」
運転席から降りてくる九雀の姿を見た瞬間、律華はぺたんとその場に座り込んだ。全身から力が抜けてしまったのだ。引き金を引かずに済んだことにほっとした、反面でおそろしさもあった。一番見られたくない人の前で、醜態をさらしてしまった……。
辰史は彼らに気付くと、小さく舌打ちをして走り出した。
「あっ、辰史氏!」
「お前らの仲良しごっこに付き合ってられるか! 俺は所有者を追う!」
引き留めようとする鷹人に吐き捨て、夜の闇に消えていく。
「なんなんだ、あいつは」
腹立たしげに言って、九雀が手を差し伸べてきた。
「立てるか、真田。どこか怪我してねえか?」
「九雀先輩……」
その手を取っていいものか、迷いながら律華は真っ直ぐに九雀を見上げた。
「先輩、自分は……」
「どうした?」
見下ろしてくる明褐色の瞳は、いつもどおり優しい。
――ああ、こんなときでさえ。
律華は観念した。元より、この先輩に対しては常に誠実であろうと決めている律華である。
「所有者を逃がしました。自分は、呪症の影響を受けています」
告白し、九雀の反応を見る。
彼は「そうか」とひとつ頷いて、いつものように律華の頭に手を置いた。
――屍喰だ。
短く叫ぶなり、報復屋は律華を運転席から追い出した。
「な、なんなんですか?」
いつもは人に好き勝手やらせるような律華ではないが、この報復屋が相手だと多少勝手が違ってくる。報復屋がそう言い出したのは、リストに載っていた二軒目の事務所を訪ねたすぐあとだった。
その名も「F&K遺品整理代行サービス」
個人のマンションを事務所代わりにしているらしい。律華のアパートとは違いセキュリティも充実していたため管理人に言って入り口を開けてもらったが、確認できたのは住人の不在だけだった――のだが。
「所有者だ!」
やはり説明の手間を惜しみ、報復屋はアクセルを踏み込んだ。
車体が一度、がくんと揺れる。まだシートベルトを締めていなかった律華は、衝撃でグローブボックスに顔をぶつけた。
「わぶっ、ちょっ、シートベルトッ」
舌を噛みそうになりながら、慌ててシートベルトを締める。
辰史の運転は控えめに言っても酷かった。少し三半規管の弱い人なら、すぐに酔ってしまいそうだ。彼がハンドルを切るたびに、体が大きく左右に揺れる。
ガゴゴゴゴゴゴ
「あだだだだっ」
発火しそうなほどに側頭部をカーウィンドウで擦られて、律華は思わず悲鳴を上げた。律華も、そして九雀も、警官として日頃は安全運転を心がけている。鷹人でさえ、運転は意外なほど丁寧なのだ。
「ぶっ、三輪っ、氏! 安全運転で、お願いします……! それから法定速度を――」
「んな悠長なこと、言ってられるか――っと、ここだ」
話していたかと思うと、ありえない角度で狭い角を曲がっていく。古びたブロック塀に、サイドミラーが接触し、ごりごりと削れる。律華は血の気の引く思いで呻いた。
「あああ……署の車が……」
「大したこっちゃねえだろ」
彼はどこまでも涼しげだ。
そもそも彼は免許を持っているのだろうかと、律華はかなり不安になった。
「あの、三輪氏……免許は?」
「任せろ。ゴールドだ」
軽く頷く報復屋に、確信にも似て強く予感する。
「もしや、ペーパードライバーでは……?」
「そうとも言うな。あのシステムって、どうかと思うぞ」
「自分も今、同じことを思っています……」
辰史はサイドミラーをぶつけ、ゴミ捨て場のゴミをはね飛ばし、縁石に乗り上げながら、追跡を続ける。あたりに人の姿がないことだけが、唯一幸いだった。人の多い昼間だったら、こちらの方が大きな事件になってしまっただろう。
(クリスマス・イブの暴走運転! 八津坂署の警官も同乗。洒落にならない)
シェイクされすぎた脳みそがどろどろに溶けて、口から出てくるのではないかと思い始めた頃――辰史が突然、急ブレーキを踏んだ。律華はもう踏ん張る気力も失って、再びグローブボックスに顔をぶつけた。ついにエアバッグまで作動する。
「なに遊んでんだ、真田」
誰のせいだと思っているのか、報復屋はこちらをじろりと睨むと、運転席から飛び出していった。車の前方では、二人の男が唖然とした顔で棒立ちになっている。
律華はそれに気付くと、慌ててエアバッグを押しのけ、シートベルトを外した。
「うっぷ……」
吐き気をどうにかこらえ、辰史の後に続く。
男たちの頭上では、屍喰といったか――独眼の鴉が弧を描くように飛んでいた。彼らは、屍喰から逃げていたのだろう。あたりを見回すと、ちょうど彼らと、車の後方にあるコンビニとの間に割り込んだような形だ。
運転の荒い短気な報復屋は、もう懐から呪符を取り出している。
さすがに、律華は彼を制止した。
「待ってください、三輪氏!」
「なにやってんだ、真田! せっかく所有者を見つけたんだぞ!」
辰史は鋭く叫ぶが――
「相手は、見たところ民間人です」
「所有者なんて、大抵は民間人だろうが」
「しかし、こちらへの攻撃意思はないようですし――」
両手に紙袋を抱えた彼らは、どう見ても買い物帰りである。自分が所有者であることに気付いているかもあやしい。闖入者に、完全に困惑しているように見える。
「まずは事情聴取から……」
律華の提案を、しかし辰史は半ばで遮った。
「ああもう、お前もそういうタイプか。もういい、自分でやる」
言うが早いか、もう胸の前で印を結んでいる。次の瞬間に現れたのは、蛇にも似た生きものだった。本来目があるべき場所は、つるんとしている。目のない蛇の式神だ。
「地抉――」
辰史の呼びかけに答え、式が体をうねらせる。
「行け!」
「待ってください!」
律華は慌てて、彼らと辰史との間に割って入った。だが、式神の動きは止まらない。獲物を見つけた大蛇の動きで律華に飛びかかり、するりと胴に巻き付いた。
「怪我したくなかったら、邪魔をするな」
「いえ!」
吐き捨てる辰史に、律華はかぶりを振った。
ぎりぎりと締め上げられ、肋骨が軋むが――
「自分は警官です。このようなやり方は、認められません」
地抉は、胴を締めたまま威嚇を繰り返している。律華は蛇の頭を両手で掴むと、その口を力任せにこじ開けた。中は漆黒の闇だ。
そこへ警棒を突っ込み、手元のスイッチを押し込む。
十河式警棒は、対呪症用装備だ。先端からは、呪症のはたらきを抑制する磁気が流れる仕組みになっている。それが式神に作用するかは賭けだった。
手応えは、あった!
屍喰の頭が大きく痙攣する。次の瞬間、目のない蛇はただの式符に戻っていた。
「お前……!」
辰史が目をつり上げる。律華は、息を吐く暇もなく所有者たちを振り返った。
「おい、お前たち!」
先に動きを取り戻したのは、長身の方の男だった。報復屋か、九雀と同じ年頃だろう。女好きのする顔をしたいかにもな色男だが、眼差しは怜悧さをたたえている。
「今のうちに逃げろ」
矢継ぎ早に言ってから、律華は自分の口から出た言葉に愕然とした。
「いや、違う。逃げられては困るんだが、しかし……」
それはほとんど、意味をなさない言い訳のようなものだった。男は頷きもせず、まだ硬直していた色の白い青年の肩を揺さぶると、半ば引きずるようにして道を引き返していった。その姿が、あっという間に見えなくなる。
あとには酷く険悪な顔をした報復屋と、律華だけが残された。
「どういうことだ、真田」
唸る彼に、律華は気弱に言い返した。
「やり方が、まずいと思います。自分は……」
――違う。まずいのは自分も同じだ。所有者を逃がしてしまった。
律華はそれを認め、汗ばむ手で十河式警棒を握り直した。辰史は激怒している。懐に手を入れて――おそらく、新たな式神を繰り出そうとしているのだろう。
はたして、その予感は当たった。
「天穿!」
辰史が憤怒とともに叫ぶ。今度は、三つ目の針鼠だ。天をも突く銀色の針は、今の彼の気持ちを表しているようにも見えた。それはヤマアラシ大にまで膨らみ、赤い目でぎょろりと律華を睨み付けた。
辰史は、更に頭上の鴉に命じる。
「所有者たちを追え! 俺も、後からすぐに行く」
鴉が短く鳴き、飛び去っていく。
「また邪魔されたら敵わんからな。ここで決着を付けさせてもらう」
にこりともせず、辰史が向き直ってきた。
「…………」
律華は一言も発せずに、彼らと対峙した。
――本来の君がどういった人間なのかは、なんとなく想像が付くよ。このままの方が、君にとってはいいのではないかとも。
ああ、一度は否と答えたのに。
こんな状況で猶、胸のうちはいつもより穏やかだ。そうと気付いてしまったら、所有者を確保して日常へと戻ることが恐ろしくなってしまった。
どこまでも冷静に自分の心境を分析し、律華は軽く唇を噛んだ。
(九雀先輩……石川……)
こんなとき、九雀がいたら道を示してくれただろう。
こんなとき、鷹人がいたららしくないと叱咤してくれただろう。
だが、二人はいない。自分という人間を構成していた感情は何度たぐり寄せようとしても形にはならなかった。繰り返す思考の中で、次第になにをもって自分らしいといっていたのかさえ分からなくなってくる。
「自分は、このような解決法は望みません」
酷く薄っぺらな言葉だ、と律華は思った。報復屋も同じことを思ったのだろう。黒曜の目をいっそう険しくした。
「だからって、所有者を逃がすのが警察のやり方か?」
「いえ、いいえ――」
「お前みたいなやつを、俺は知ってる。あっちこっちに同情して、ひとつのものに筋を通さない。正義感が強いと思い込んでいるだけの、迷惑な馬鹿だ」
「正義感からの行動なら、まだましでした」
律華は苦い心地で呻いた。
(わたしの場合は、独善正義よりもっと悪い)
その告白に報復屋は怪訝な顔をしていたが、話す時間を惜しんだのだろう。最後通牒を突きつけるように、一度だけ腕を振った。
天穿の針が、夜の闇にぎらぎらと鋭い光を放っている。それでも律華は退けないのだ。足がまったく動かない。
辰史が溜息を吐き、手を振り下ろした。合図に従い、式神が突進してくる。律華は腰のホルスターからいつもは拳銃を抜いた。中身は殺傷力の低いゴム弾だが、うまく当てれば人を行動不能にするくらいは可能だ。
もっともそれをすれば、もう言い訳のしようもなくなってしまうが。
自分が酷い間違いを犯していることを自覚しながらも、律華は目に見えないなにかに急かされるように拳銃を構えた。真っ直ぐ突っ込んでくる式神に狙いを定め――
パァンッ!
夜の静寂に響いた音は、ゴム弾の炸裂音ではなかった。
律華はびくりと肩を震わせて、手から拳銃を取り落とした。辰史が乗り捨てた黒いセダンの後方に、見慣れたシルバーのセダンが見える。後部座席の窓から顔を覗かせているのは、鷹人だった。彼が、地面に爆竹を叩きつけたらしい。
「どうして、あなたたちがやり合っているんだ」
事態は把握できないまでも、不穏な空気は感じたのだろう。
「後輩ちゃん、平気か?」
運転席から降りてくる九雀の姿を見た瞬間、律華はぺたんとその場に座り込んだ。全身から力が抜けてしまったのだ。引き金を引かずに済んだことにほっとした、反面でおそろしさもあった。一番見られたくない人の前で、醜態をさらしてしまった……。
辰史は彼らに気付くと、小さく舌打ちをして走り出した。
「あっ、辰史氏!」
「お前らの仲良しごっこに付き合ってられるか! 俺は所有者を追う!」
引き留めようとする鷹人に吐き捨て、夜の闇に消えていく。
「なんなんだ、あいつは」
腹立たしげに言って、九雀が手を差し伸べてきた。
「立てるか、真田。どこか怪我してねえか?」
「九雀先輩……」
その手を取っていいものか、迷いながら律華は真っ直ぐに九雀を見上げた。
「先輩、自分は……」
「どうした?」
見下ろしてくる明褐色の瞳は、いつもどおり優しい。
――ああ、こんなときでさえ。
律華は観念した。元より、この先輩に対しては常に誠実であろうと決めている律華である。
「所有者を逃がしました。自分は、呪症の影響を受けています」
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