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虚妄と幸福
8.猛犬と報復屋(1)
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十二月二十四日 PM: 17:00
三輪辰史は助手席から、律華の横顔をちらりと窺った。彼女の妹――真田優香とは以前会ったことがある。雑誌の読者モデルとして活動している今時の女子高生で、躾のなっていない甘ったれた小娘だった。
(姉の方は、まともなんだな)
多少は構えていたため、なんとなく肩透かしを食った思いで独りごちる。
律華はいかにも小さな子供が憧れる警官像そのものといった雰囲気だ。妹のような可憐さはなく、不正や悪を許さない潔癖さがその顔付きにも表れている。
「三輪氏の見解を聞かせてください。事件の元凶は特定古物であるとの話ですが、このようなケースは自分も初めてです。広範囲の人間……いえ、人外の存在にも影響を及ぼしているという話でしたか。ともかく生きものから、ある種の感情だけ綺麗に抜き取るというのは、その、異能の世界ではよくあることなのでしょうか?」
「いや、ねえよ。よくあることだったら、俺もこんなに狼狽えない」
辰史は答えた。
「黒狐がやられるってのもな。初めてのことで、困惑している」
「黒狐、とは?」
祖父の真田政継は、孫にその手の話をしていないらしい。むしろ嬉々として語りそうなものなのにと、辰史はいささか意外に思った。
「高天一族に憑いている狐の亜種だ。高天の白狐は宿主の精神に巣くう獣で、数ある異能の中でも格が高い。なんせ生まれもっての才能だ。欲しいと思って得られるものでもない。だからこそ、高天は古くから幅を利かせてきた。一族間での婚姻を繰り返したせいで白狐憑きが生まれにくくなったが、本家筋に狐憑きが生まれている間は異能者社会の重鎮であり続けるだろうな。狐は精神に巣くう獣であるがゆえに、思念にも自在に介入する。思念とは、異能の礎でもある。お前らがよく知る呪症ってやつもそうだし、ESP所有者が読む世界の記憶にしても、思念の一部だ――といえば分かるだろうが、異能の場において狐は万能の存在といっても過言ではない」
「……なるほど」
律華は前を向いたまま、眉間に皺を寄せている。一般人なりに、異能者社会の一端を理解しようとしているのかもしれない。その生真面目さに気を良くしながら――話し甲斐のある相手は、久しぶりだったのだ。甥や甥の友人たちは専門的な話題を嫌がるし、隣の本屋は聞き流すばかりで相手にならない――辰史は続けた。
「で――黒狐ってやつは、攻撃性において白狐を上回る。宿主に害をなす思念をばらばらに引き裂き、生半可な式や異能も通じない。死んだ御祖父様――三輪尊ならともかく、今の国内に影の狐を一瞬で消せるような術者はいないだろう。俺や丹塗矢の当主レベルでも、術者同士の精神戦に持ち込んで辛勝ってところだ」
これは、比奈が訓練を受けていないことも大いに関係している。
もしもあの恋人が狐憑きとして、狐を御すための訓練を受けていたら、恐るべき異能者になっていたことだろう。狐憑きとしての未熟さが、御霊の足を引っ張っている。だからこそ彼女はかつて辰史を相手に、そして丑雄を相手に敗北したのだ。
「なるほど、では〈夜空への誓い〉は相当に危険な特定古物であると?」
一般人らしく、律華の問いかけはシンプルだった。
辰史はかぶりを振った。
「というより、厄介なのはむしろ所有者の方だろう。〈夜空への誓い〉が厄介な特定古物であることは疑いようもないが、それが作られた1980年以降、今まで一度も発症例がなかった。ってことは、つい最近特定古物化したか、でなけりゃずっと特定古物のお眼鏡に適うような所有者がいなかったってことだ。前者だとすれば、ただの腕時計を特定古物化させるほどの強い想いを抱いた人物ということになるし、後者だとしても四十年に一度の逸材という話になる――悪い意味で、な」
「荒事も覚悟しておかなければならない、ということですか」
「ああ。今のところ死人は出ていないが、騒動が長引けば分からなくなってくる……」
言いながら、弱気な言い方になってしまったことを後悔する。そんなこちらの様子を察してか、律華は強い調子で告げてきた。
「長引かせません。三輪氏は当代の異能者の中で随一の才能を持っていると聞き及んでいますし、うちの石川も呪症管理者としては優秀です」
「ああ。警視庁のやつらも含め、それなりに優秀なやつらが揃ったってことは分かってんだけどな。今まで自分の力だけでやってきたから、頼ろうって気になれない」
彼らと組んだという自覚もなく、呟く。
律華は頷いた。
「そうですか。いずれにせよ自分は本件に関わらせていただきますし、それは石川や九雀先輩も同じですから、なにかあったときの保険程度にでも気に留めておいてください」
あっさりと。
気を悪くするだろうなと思っていただけに、やはり拍子抜けしてしまう。
「……あんた、気味が悪いくらい物分かりのいいやつだな。俺の従兄も正義感の強いタイプだが、もっと口うるさくて押しつけがましいぞ」
「九雀先輩が指導してくださいました」
「九雀っていうと、あれか」
以前、オークション会場で比奈をナンパした不良警官だ。
どこか胡散臭い男の顔を思い浮かべながら、辰史は意外に思った。後輩を真面目に指導するようなタイプには見えなかったが、人は見かけによらないのだろうか。
「はい。九雀先輩は素晴らしい人です。異能者でこそありませんが、柔軟性と器用さを武器に呪症管理者にもひけを取りません。警官としても優秀ですが、人間としても言うに及ばず、最近ではポスト白鳥――つまりうちの署長のポジションを狙っているとの噂も聞いています。自分も、九雀先輩であれば呪症管理協会や異能者とも対等に渡り合えるのではないかと思います」
「……そういうふうには見えなかったけどな」
「そうですね。一見すると、気さくですから。能ある鷹は爪を隠すと言いますし」
そういう意味でもないのだが――
従兄とは違う意味でやりにくそうだと、頭を掻く。
「やれやれ……向こうが猪突猛進の牡牛なら、こっちは忠犬ってやつか。そういや、妹の方もどことなく犬っぽかったな」
独り言のつもりだったが、聞きつけたらしい。律華が訊き返してきた。
「妹のことを、ご存知でしたか?」
「ああ。前に、あんたのじいさんが店に連れてきた」
「そうですか。三輪氏には憧れているようだったので、きっとご迷惑をおかけしたでしょう。すみませんでした。祖父も、妹にはめっぽう甘いもので……」
その憧憬をぶち壊しにしてやったとは言えず、辰史は曖昧に笑った。
「あの年頃は、あんな感じだろ。俺にも、自分が特別だと信じていた頃があった」
「そういうものですか」
分かったような、分かっていないような顔で相槌を打ち――
「目的のマンションは、あそこでしょうか」
ハンドルから片手を離し、高い建物の一角を指差した。
比奈のマンションだ。
辰史は頷く。
「ああ。真っ直ぐ行けば、駐車場が見えてくる。五○六号室のところに止めてくれ」
「分かりました」
彼女も短く頷き、心なしか急き気味にアクセルを踏み込んだ。
三輪辰史は助手席から、律華の横顔をちらりと窺った。彼女の妹――真田優香とは以前会ったことがある。雑誌の読者モデルとして活動している今時の女子高生で、躾のなっていない甘ったれた小娘だった。
(姉の方は、まともなんだな)
多少は構えていたため、なんとなく肩透かしを食った思いで独りごちる。
律華はいかにも小さな子供が憧れる警官像そのものといった雰囲気だ。妹のような可憐さはなく、不正や悪を許さない潔癖さがその顔付きにも表れている。
「三輪氏の見解を聞かせてください。事件の元凶は特定古物であるとの話ですが、このようなケースは自分も初めてです。広範囲の人間……いえ、人外の存在にも影響を及ぼしているという話でしたか。ともかく生きものから、ある種の感情だけ綺麗に抜き取るというのは、その、異能の世界ではよくあることなのでしょうか?」
「いや、ねえよ。よくあることだったら、俺もこんなに狼狽えない」
辰史は答えた。
「黒狐がやられるってのもな。初めてのことで、困惑している」
「黒狐、とは?」
祖父の真田政継は、孫にその手の話をしていないらしい。むしろ嬉々として語りそうなものなのにと、辰史はいささか意外に思った。
「高天一族に憑いている狐の亜種だ。高天の白狐は宿主の精神に巣くう獣で、数ある異能の中でも格が高い。なんせ生まれもっての才能だ。欲しいと思って得られるものでもない。だからこそ、高天は古くから幅を利かせてきた。一族間での婚姻を繰り返したせいで白狐憑きが生まれにくくなったが、本家筋に狐憑きが生まれている間は異能者社会の重鎮であり続けるだろうな。狐は精神に巣くう獣であるがゆえに、思念にも自在に介入する。思念とは、異能の礎でもある。お前らがよく知る呪症ってやつもそうだし、ESP所有者が読む世界の記憶にしても、思念の一部だ――といえば分かるだろうが、異能の場において狐は万能の存在といっても過言ではない」
「……なるほど」
律華は前を向いたまま、眉間に皺を寄せている。一般人なりに、異能者社会の一端を理解しようとしているのかもしれない。その生真面目さに気を良くしながら――話し甲斐のある相手は、久しぶりだったのだ。甥や甥の友人たちは専門的な話題を嫌がるし、隣の本屋は聞き流すばかりで相手にならない――辰史は続けた。
「で――黒狐ってやつは、攻撃性において白狐を上回る。宿主に害をなす思念をばらばらに引き裂き、生半可な式や異能も通じない。死んだ御祖父様――三輪尊ならともかく、今の国内に影の狐を一瞬で消せるような術者はいないだろう。俺や丹塗矢の当主レベルでも、術者同士の精神戦に持ち込んで辛勝ってところだ」
これは、比奈が訓練を受けていないことも大いに関係している。
もしもあの恋人が狐憑きとして、狐を御すための訓練を受けていたら、恐るべき異能者になっていたことだろう。狐憑きとしての未熟さが、御霊の足を引っ張っている。だからこそ彼女はかつて辰史を相手に、そして丑雄を相手に敗北したのだ。
「なるほど、では〈夜空への誓い〉は相当に危険な特定古物であると?」
一般人らしく、律華の問いかけはシンプルだった。
辰史はかぶりを振った。
「というより、厄介なのはむしろ所有者の方だろう。〈夜空への誓い〉が厄介な特定古物であることは疑いようもないが、それが作られた1980年以降、今まで一度も発症例がなかった。ってことは、つい最近特定古物化したか、でなけりゃずっと特定古物のお眼鏡に適うような所有者がいなかったってことだ。前者だとすれば、ただの腕時計を特定古物化させるほどの強い想いを抱いた人物ということになるし、後者だとしても四十年に一度の逸材という話になる――悪い意味で、な」
「荒事も覚悟しておかなければならない、ということですか」
「ああ。今のところ死人は出ていないが、騒動が長引けば分からなくなってくる……」
言いながら、弱気な言い方になってしまったことを後悔する。そんなこちらの様子を察してか、律華は強い調子で告げてきた。
「長引かせません。三輪氏は当代の異能者の中で随一の才能を持っていると聞き及んでいますし、うちの石川も呪症管理者としては優秀です」
「ああ。警視庁のやつらも含め、それなりに優秀なやつらが揃ったってことは分かってんだけどな。今まで自分の力だけでやってきたから、頼ろうって気になれない」
彼らと組んだという自覚もなく、呟く。
律華は頷いた。
「そうですか。いずれにせよ自分は本件に関わらせていただきますし、それは石川や九雀先輩も同じですから、なにかあったときの保険程度にでも気に留めておいてください」
あっさりと。
気を悪くするだろうなと思っていただけに、やはり拍子抜けしてしまう。
「……あんた、気味が悪いくらい物分かりのいいやつだな。俺の従兄も正義感の強いタイプだが、もっと口うるさくて押しつけがましいぞ」
「九雀先輩が指導してくださいました」
「九雀っていうと、あれか」
以前、オークション会場で比奈をナンパした不良警官だ。
どこか胡散臭い男の顔を思い浮かべながら、辰史は意外に思った。後輩を真面目に指導するようなタイプには見えなかったが、人は見かけによらないのだろうか。
「はい。九雀先輩は素晴らしい人です。異能者でこそありませんが、柔軟性と器用さを武器に呪症管理者にもひけを取りません。警官としても優秀ですが、人間としても言うに及ばず、最近ではポスト白鳥――つまりうちの署長のポジションを狙っているとの噂も聞いています。自分も、九雀先輩であれば呪症管理協会や異能者とも対等に渡り合えるのではないかと思います」
「……そういうふうには見えなかったけどな」
「そうですね。一見すると、気さくですから。能ある鷹は爪を隠すと言いますし」
そういう意味でもないのだが――
従兄とは違う意味でやりにくそうだと、頭を掻く。
「やれやれ……向こうが猪突猛進の牡牛なら、こっちは忠犬ってやつか。そういや、妹の方もどことなく犬っぽかったな」
独り言のつもりだったが、聞きつけたらしい。律華が訊き返してきた。
「妹のことを、ご存知でしたか?」
「ああ。前に、あんたのじいさんが店に連れてきた」
「そうですか。三輪氏には憧れているようだったので、きっとご迷惑をおかけしたでしょう。すみませんでした。祖父も、妹にはめっぽう甘いもので……」
その憧憬をぶち壊しにしてやったとは言えず、辰史は曖昧に笑った。
「あの年頃は、あんな感じだろ。俺にも、自分が特別だと信じていた頃があった」
「そういうものですか」
分かったような、分かっていないような顔で相槌を打ち――
「目的のマンションは、あそこでしょうか」
ハンドルから片手を離し、高い建物の一角を指差した。
比奈のマンションだ。
辰史は頷く。
「ああ。真っ直ぐ行けば、駐車場が見えてくる。五○六号室のところに止めてくれ」
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