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虚妄と幸福
6.元凶たる彼らの話
しおりを挟む彼は、およそ完璧とはいいがたい青年だった。
元モデルの母親に似て容貌にこそ恵まれてはいるものの、出来うるかぎり室内に籠もっているような生活を長く送っていたため、肌は不健康な蝋のよう。偏食で酷く痩せており、当然ながら体力はない。百メートルも走れば息切れをしてしまうような有様で、腕力は女性にも劣る。おまけに学生時代から通じて、労働経験もない。有名な両親の臑をかじりながら、彼自身も時折ブローカーの真似事をして小遣いを稼ぎつつ、趣味の美術品収集に精を出している――それが、高坂和泉である。
いや。あった、というべきか。
和泉の知り合いに、藤波透吾という男がいる。彼のことを〈友人〉という枠で語るべきか、和泉はいつも迷ってしまう。知人というほど縁の浅い人ではないが、なんせあまりに複雑なのだ。彼との関係は。よくも悪くも互いの理解者である、というのがもっとも近いような気はする。そんな彼が起業し、和泉を誘ったのだ。一世一代のスカウトだったと彼は言う。F&K遺品整理代行サービス。
自分もなにか新しいことを始めたいと思っていた和泉である。(国香彩乃に触発された比良原貴士が前を向いて歩き始めたという話を耳にしたことも、影響としては大きいのかもしれない)透吾の誘いを受け、生まれて初めて働くことになった。
十二月二十三日。
クリスマス・イブの前日も二人は仕事だった。カラクサ葬祭時代の人脈を使ってどうにか軌道に乗せつつはあるものの、いまだ休日を選んでいられるような経営状態ではない。その日の客は和泉の父、芸術家である高坂五樹の知人だった――例に漏れず、愛人である。相手が和泉と然程歳の変わらない二十代の女性だったことは、今更驚くほどのことでもない。自分の子供と同じ年頃の女性どころか、まだ成人したばかりの大学生を連れ込んだこともある父だ。和泉は内心、未成年にも手を出したことがあるのではと疑っている――というか前科がある。五樹の母が和泉を産んだのは、まさしく十八の頃だった。
「君の父親の愛人か。どんな顔をすればいいのか分からないな、こんなとき」
と透吾は肩を竦めてみせたものの、まあ仕事には違いないと依頼を引き受けた。死んだのは女の叔父で、若いながらも好事家だったらしい。死後に浮気が発覚し、激怒した妻がコレクションをすべて焼き払うと言い出したのが事の発端だった。貴重なものもあるからと身内がなだめ、どうにか売却するということで妥協させたらしいが。女は怒りに任せて遺品を片付けてしまった叔母が、その後で抜け殻になってしまうことを心配したようだった。死んだ叔父を許せとは言わないまでも、せめて叔母に穏やかな思い出の一つくらいは残してやれないものかと――相談内容は、そんなところだ。
結果から言えば、和泉が視た遺品の中に夫婦が出会うきっかけとなった作品があるにはあった。そこに遺されていた故人の想いはおよそ三十年の時を経ても美しく、始終不機嫌だった夫人も涙を流したものだ。
とはいえ一つの思い出で裏切りを許してしまえるかといえば、そんなはずもなく。夫人は当初の宣言どおり、思い出の遺された作品を含めすべてを売却したのだった。
が――
「奥さん、なんだか憑き物が落ちたようでしたね」
帰り際、二人に頭を下げた夫人の様子を思い出しながら和泉は呟いた。和泉には、死者の想いを尊重するため遺品にこだわっていたところがある。透吾は遺された生者の辛さを知るがゆえに、遺品を破棄させることに執着していた――彼が〈遺品整理代行サービス〉という形で事務所を立ち上げたのは、前者の気持ちを理解するための、いわば荒療治のようなものだったが。
「ああいった始末の付け方もあるんだな。俺は、この世には君のやり方と俺のやり方の二通りしかないと思っていたよ」
透吾も感心したように唸っている。
「美しい思い出があったことを認めた上で、全部手放してしまうだなんてさ。その方がいつまでも恨まずにいられる――そんな話を聞いてしまったら、俺のやっていたことはまったくの無意味だったのだと思い知らされる」
「それを言うなら俺も、ですよ。遺品のこと、遺された想いの美しさは誰より知っていたつもりですけど。視えるからこそ、形として残すことにこだわっていましたから」
互いに、他人に対してあまりに無関心でありすぎたのだろう――と、和泉は思う。だからこそ改めて人と向き合うことを選んでしまって、自分と他人との違いに戸惑っている。
「この仕事を始めるって聞いたとき、荒療治すぎないかって思ったんですけど……人の心配をしている場合じゃなかったっていうか。なんか、自分で思っていた以上に俺って世間知らずだったんだなって思いましたよ」
「その発言、国香くんに聞かせてやりたいよ。君の成長を泣いて喜ぶぞ。そうでなきゃ寂しがるか、俺に対して怒るかだな」
「怒る? なんでです?」
「君が友情に篤いからって。これまで彼女の誘いを随分と嫌がったそうじゃないか」
「心外ですよ。俺、なんだかんだ国香さんには付き合ってるつもりですし」
透吾の呆れた視線に、和泉は唇を尖らせた。
「というか、国香さんこそ俺に対しては辛辣だったくせに貴士くんのことは甘やかすんですから。まあ、貴士くんが女性の母性本能をくすぐるらしいタイプだというのは、もうずっと前から分かっていたことですけど……」
と――そんな愚痴もお決まりではある。
「二十代半ばにもなって、君らの関係というのは相も変わらずもどかしいんだな」
彼もまたテンプレート的に言って、
「で、クリスマスの夜は?」
そう続けてきた。興味があるというよりは、義理で訊いただけだろう。
和泉は軽くかぶりを振った。
「特に誘われていませんが」
「そういうのは、男の方から誘うものだぜ?」
「じゃあ、多分貴士くんの方が先に誘っているんじゃないかと思います」
「思いますって……悠長なことを言うんだな」
透吾はますます呆れたようだ。
逆に彼が彩乃とのクリスマスにこだわる理由が分からず、和泉は首を傾げた。
「そもそも、クリスマスだってカラクサ葬祭の応援が入っていたでしょう?」
クリスマスに葬儀――ではなく、カラクサ葬祭の互助会でクリスマス会を行うため会場でスタッフとして働いてほしいという話だった。カラクサ葬祭での臨時バイトは、F&K遺品整理代行サービスにとって大事な収入源だ。
「まあ、そうなんだけどね。さすがに夜までってことはないだろう」
と、透吾は言うが。
「でも、万里さんあたりは夜にパーティーをしたいと言い出しそうですし」
「万里のことを考えてくれているんだ? 嬉しいね」
「子供には必要でしょう、サンタさん」
なんとはなしに子供の頃のことを思い出しながら。和泉は呟いた。
急な話題に面食らっているらしい透吾に、訊ねる。
「藤波さんは、いくつまでサンタクロースを信じていました?」
「俺かい? 俺は……四つかな」
透吾が答える。
「次の年からクリスマスプレゼントは伯母が買ってきたからね」
というのは、その年に彼の姉だった人が死んだためだろう。まずいことを訊いてしまったなと少し後悔しながら、和泉は早口で言った。
「俺、サンタクロースを信じていた時期ってないんですよ」
「そうなんだ?」
「サンタクロースを装うような両親ではありませんでしたし。だからどうってわけでもないんですけど、やっぱ人を見ていると少し憧れたりしましてね。さすがにもう枕元にプレゼントを期待するような歳でもないので、サンタさんをやっていみたいな……と」
「へえ、高坂くんにそういう願望があっただなんて意外だな」
笑われるかと思ったが、彼は感心したように頷いた。
それから茶目っ気たっぷりに片目を瞑って、
「じゃあ、とびきりの情報を教えてあげよう」
「とびきりの情報? なんですか?」
「万里はまだ、サンタクロースの実在に対して半信半疑なんだ。大人ぶりたがって口では信じていないと言うけれど、まあカラクサ葬祭の従業員たちも悪ふざけが好きだからね。信じさせるために、あの手この手で毎年サンタの演出をしていたのさ」
今年は君の番だな、と透吾が言った。
「上手くやってくれよ」
「うう……それはそれで、プレッシャーなんですけど」
「はは、もちろん俺も手伝うから」
そんな話をしていると、駅が見えてきた。
改札をくぐり、それぞれ別のホームへ向かおうとしたところで――不意にその存在を思い出し、和泉は透吾を呼び止めた。鞄の中を片手で探りつつ、
「あ、藤波さん」
「なんだい?」
「これ、あげます」
足を止め振り返ってきた透吾に、それを差し出す。包装紙やリボンはかかっていない。木製の箱に、腕時計が一つ。夜空の色に煌めく文字盤の上で、数字の代わりに十二の星が散らばっている。金色の秒針は細い月のごとくゆるやかに婉曲して、実用的ではないが美しい代物だ。
中身を見ると、彼は怪訝な顔をした。
「腕時計? どうしたんだ、これ」
「母の知り合いに、買ってくれと頼まれたんです。俺好みのデザインではないんですが、藤波さんは似合いそうなので。クリスマスプレゼントだとでも思ってください。二日早いですけど、男相手に当日プレゼントを贈るというのもぞっとしませんし」
「……ありがとう」
唇を少し微笑ませ、彼は箱の中から取りだした腕時計を左手首につけ――
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