蛟堂/呪症骨董屋 番外

鈴木麻純

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虚妄と幸福

1.吸血鬼の朝

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 十二月二十三日。
 クリスマス・イブを控え、世の中は明るい笑い声に満ちていた。誰もが一年も終わりに近付きつつある忙しなさを確かに感じてはいたものの、陽気なクリスマス・ソングと街を飾るきらびやかな電飾に心を踊らせていた。
 その日から三日間、ケーキ屋のバイトが決まっていた貧乏吸血鬼。弟たちとクリスマスパーティーの計画を立てていたメモリアルペットショップの主人。クリスマスも仕事だと嘆いている八津坂署の呪症対策チーム。恋人の誕生日パーティーを終え、次はクリスマスデートだと浮かれている報復屋。日頃は非現実世界に片足を突っ込んでいる彼らも、世間が奏でる幸福の足音にどこか浮き足立っていた。異変を察知していたのは、警視庁で事件を予測し未然に防いでいるESP保有者集団だけだった。
 そんな、クリスマス・イブの前日。不思議な鑑賞眼を持つ青年が、かつての葬儀屋にとある特定古物を贈ったその日――

 世界から、哀しみが消えた。


 十二月二十二日 A.M.5:00


 彼が目覚め――感じたのは、微かな違和感だった。
 棺桶の中でぱちりと目を開け、エイドリアン・エイリングはすぐ目の前にある棺桶の蓋をしばし見つめていた。暗く冷たい金属製の棺。吸血鬼の眠りを守る堅牢な寝床。人であれば大人の男が三、四人も集まらなければ持ち上げることは難しいだろう、その狭い箱の中で。じっと違和感の正体を考えていた。
 腹が減ったのか。
 いいや、そうではない。慢性的な空腹に悩まされていた彼ではあるが、最近は新しい眷属を手に入れ、食糧難からは解放されている。以前なら昔馴染みに嫌々頭を下げて追加で都合してもらっていた血液パックも、月に十のところが三まで減った。これは喜ばしいことだった。もう、バイト代からどう食費を捻出したものかと頭を悩ませる必要はない。
 では、体調が優れないのか。
 吸血鬼が罹る病気も、あるにはある。吸血鬼風邪、貧血症、太陽症。だが、それらのいずれもエイドリアンの体を冒してはいなかった。むしろ、そう。

「……気分がいい」

 奇妙なことだ。これは、非常に奇妙なことだ。
 この世に生を受けて四世紀ほどは経つが、気分がよかった時期というのは掻き集めても数年となかった。かつては常に怒りに駆られていたし、近代に入ってからは欲求不満と倦怠感に苛まれていた。新しい玩具――もとい眷属を得てからは多少生活も変わったが、根本的な意識改革には至らない。
 それはもう、仕方のないことだ。栄光を失った吸血鬼が患う精神病のようなものだ。と、思っていたのだが――

「どうしてしまったんだ、わたしは」

 怒りはない。不満も、倦怠感も、不思議とない。これはどうしたことかと不思議に思いながら、かつて抱いていたどろりとした感情の元凶たる過去の様々な出来事を思い返そうとしてふと気付く。記憶が、いくつか空白になっている。
 エイドリアンは慌てて片手で棺桶の蓋を跳ね上げた。壁に掛かったアンティークの時計を見る。五時。分厚いカーテンの隙間からは、まだ朝日も差し込んでいない。そんな時間だが――服を着替え、今から行くぞと連絡を送るのももどかしく外へ出る。
 どうせこの時間なら、彼はマンションにいるだろう。友人と呼んでいた時代から、ずっと朝が苦手な男だ。彼は用事がなければ昼近くまでベッドで惰眠を貪っている。目覚めの一杯は彼が家畜と呼ぶ人間の血より、同胞の血の一滴を好む。朝靄がかかったような氷海色の瞳は、そんな目覚めの一滴をもってどこまでも冷たく輝くのだ。ああ、あの頃が懐かしい。菫色の館で兄弟よりも濃密な時間を過ごした――
 思い出し、エイドリアンはぞっとした。
(懐かしい、だって……?)
 もう何百年も思い返したことはなかった。懐かしんだこともなかった。消し去ってしまいたいほどの黒歴史、あるいは過去の汚点だったと、そう思っていたはずだった。

 ***

「ミカエル!」

 家々の屋根を跳ねるようにして飛んで行き、やがて高層マンションに辿り着く。ベランダから侵入しガラスを割ってしまわないよう窓を殴りつけていると、ややあってうんざりした顔の昔馴染みが顔を覗かせた。

「ボンジュール、と言いたいところだけれどね。我が旧友。俺たちが吸血鬼である点を考慮しなかったとしても、早すぎる時間だ」
「うるさい、早く部屋の中へ入れろ!」
「……まったく、なんだっていうんだ」

 起き抜けで目眩でもするのか、昔馴染みはぐったりと額を押さえて頭を振ると、のろのろした動作で窓を開けた。靴をベランダに脱ぎ捨て、部屋の中に着地する。

「飲み物は、今は血液パックしかないのだけれどいいかな。夜遅くの訪問なら絞りたても出してやれるのだけれどな、朝はさすがに。人間と共寝をするような趣味がないものでね。二十五歳女性、B型の血液だ。少し酸味があるかもしれないが、寝起きにはちょうどいい」

 言いながらグラスを二つ用意して、血液パックから血を注いでいく。吸血鬼共同組合を通じて一般吸血鬼に支給しているものよりグレードの高い血液なのだろう。漂ってくる芳醇な血の匂いに、エイドリアンは思わず舌なめずりをした。

「相変わらず贅沢なやつだな、貴様は」
「食事には妥協しないようにしているんだよ」

 いかにもフランス吸血鬼らしい言い方で、彼はグラスの中身を半分ほど飲み干した。それでようやく意識もはっきりしてきたのか、眠たげだった氷海色の瞳にいつもの狡猾さが宿る。

「で――エイドリアン・エイリング。こんな朝早くからどうしたんだ。あの貧乏小屋がついに倒壊したのか。だったら手持ちの物件の一つくらいは貸してやってもいいが、代わりに頼みたいことが……」
「違う! そうではなく――」

 黙っていればいつまでもだらだらと喋り続けそうな昔馴染みを遮り、

「わたしの記憶が盗まれている!」

 エイドリアンは、それを告げた。

「は?」

 その顔は――いつでも気取ったミカエル・ドゥクレ、ミドゥがきょとんと目をまん丸くしている顔は、平時なら見物だったかもしれない。

「お前の記憶が?」

 ミドゥは困惑しているようだ。

「お前、それは……さすがに……ええと、金をやろうか? いくら必要だ?」
「どうしてそうなる!」
「いや、被害妄想に見舞われるほど貧乏が窮まったのかと思って。泥棒が盗んでいきそうなものを自分が持っていないと理解できる程度には正気なんだろうが……」
「わたしはいつだって正気だ!」

 言い返してしまってから、くれるというなら百万くらいもらっておけばよかったと思わないこともなかったが(この気取った商売人もとい商売吸血鬼にとっては、はした金だろう)そんなことよりと、かぶりを振る。

「つい先程、起きて気付いた。昔の記憶が、ところどころ抜けている」
「それは泥棒よりも病気を疑った方がいいのではないかな」
「胸糞悪い記憶が一切なく、それどころか貴様とつるんでいた頃のことまで思い出した――と言っても、まだ異常とは思えないか?」

 そう言ってやって、ようやく。ミドゥの顔つきが変わった。

「菫館での惨劇を忘れたのか? いつまでもずっと根に持っていたお前が?」
「朧気には、覚えている。しかし、霞がかったように曖昧だ」

 酷く奇妙な気分だ。菫館での惨劇と彼は言ったか。過去、あの菫の咲き誇る館でなにかよくないことが起きた――その事実は、確かに頭の中にはある。けれど、当時の事件とミカエル・ドゥクレがどう関わっているのか、思い出すことができない。久しく彼を恨んでいた現状と、かつて胸に抱いた感情とが噛み合わない。
 途方に暮れて、エイドリアンは彼を見た。
 親友であり、兄でもあった純吸血鬼を。

「……ミカエル。わたしは、おかしい」
「ああ、お前はおかしい。エイディ」

 どこか懐かしそうに目を細め、ミドゥが頷く。
 それから一度、目を瞑り――

「とはいえ、俺におかしいところはないようだ。胸糞悪い記憶と言ったか……あの日の記憶は俺の中に眠っている。母と決別した日の記憶も、革命の日の記憶も、聖女を殺した日の記憶も……俺にはすべて、ある」

 再び目を開け、言った。
 それからガウンを脱ぎ捨て、クローゼットから取り出したシャツに袖を通す。少し迷うそぶりを見せ、彼は桜色の上下を手に取った。服の趣味が悪いのも、この吸血鬼の特徴だった。もっともどんな色のスーツでも、彼はそれなりに着こなしてしまうのだが。

「新種の病気か、それとも常に残酷な我らが父君――神と呼ばれる者のなせる御業か。もしかしたら、お前の他にも同じ症状の出ている者がいるかもしれないな。俺はこれから各所へ回って今日の予定を取り消してくる。帰ってくる頃には組合が開いているだろうから、報告に行こう」

 皮肉のない、その言い方も懐かしい。

「わたしはなにをしていればいい?」

 もう何百年も昔に戻った心地で、エイドリアンは訊き返した。

「場合によってはドゥクレ社の研究所に缶詰ということにもなり得るから、少し休んでいるといい。その場合、お前の血で血液パックを作っておくことも考えなければいけないな。ラパンが飢え死にする」
「玲……」
「一人では心許ないというなら、ラパンを呼んでやってもいいが……」

 そう言いつつも半端者を嫌う彼らしく、鼻の頭に皺を寄せる。
 ミドゥの顔を眺めながら、エイドリアンはそっとかぶりを振った。

「いい。あいつはまた、大袈裟に心配するだろうからな」
「そうか。では、行ってくる。ああ、あまり部屋の中を漁るなよ」
「そんなことはしない」

 律儀に玄関から外へ向かう昔馴染みの背中に、声を掛ける。

「ミカエル、手間をかけてすまない」
「構わない。恨まれ慣れてしまったから、今更昔のようにされてもこちらも困る」

 ミドゥは小さく鼻を鳴らし、太陽のない空の下へ踏み出していった。



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