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出口のない教室
3.
しおりを挟む「本当のところを言いますと……」
ややあって、覚悟を決めたように口を開いた。吐息交じりに告げてくる。
「人を呼びたくないわけではなく、ただ見られたくなかっただけなんです」
「見られたくないようなものなんてなさそうに見えたが……」
私物らしい私物のない空っぽの部屋を思い出しながら、九雀は眉をひそめた。それを聞くと律華は唇を引きつらせるようにして、ぎこちなく笑った。
「はい」
それから部屋に到着するまで、律華はなにも言わなかった。九雀もそれ以上は詮索せず、黙って彼女についていった。
アパートは単身者向けのためかこの時間でもちらほらと明かりが灯っていたが、いっそうこぢんまりして見える。昼間と同じように剥き出しの階段を上り、奥の部屋に向かった。表札のないドアの前で律華は足を止めると鍵を開け、九雀を振り返った。
「入ってください、先輩」
揃えて脱いだ靴を備え付けの靴箱に戻し、奥へ進んでいく。昼間から物が増えたわけでもない。むしろ部屋の主が目覚めた分、生活感のない部屋への違和感は増すのだった。
彼女は九雀が靴を脱いで追いつくまでの数秒、困ったように部屋の真ん中で立ち尽くしていたが――客をどこに座らせるべきか悩んでいたらしい。なにせ、フローリングは剥き出しだ。クッションどころかラグマットさえない――申し訳なさそうに言った。
「すみませんが、ベッドに座ってください」
「あ、ああ」
「飲み物は、お茶でいいですか?」
「構わなくていい。俺が、無理に押しかけたんだ」
「いえ、先輩は自分のことを心配してくださったわけですから……」
キッチンへ引き返し、小さなコンロに赤い色のケトルをかける。食器棚からシンプルなマグカップをひとつ取り出して粉茶を入れると、律華は気まずい空気を紛らわすように口を開いた。
「トレーニング機具のひとつもないのは、意外だったでしょう?」
「ああ、そういえば石川がそんなことを言ってたな」
「ジムで事足りてしまうんです。あとは道場だとか――最近は顔を出す時間もなかなかないので、自重トレーニングで済ませてしまうことも多いんですが」
普段と代わり映えのしない遠回しな会話で空白を繋いでいたが、ケトルがシューシューと音を立てたところでそれも途切れる。
「どうぞ。きちんとしたおもてなしもできず、申し訳ありませんが」
「いや」
九雀はマグカップを両手で受け取り、ちらりと律華を見た。彼女はライティングデスクに備え付けられたパイプ椅子の上で小さくなっている。来客用のカップを置いてないのだろうなと思ったが、九雀はなにも言わず緑茶に口を付けた。それはほんのりと風味が付いただけでほとんど白湯と変わらなかったが、夜風に冷えた体をあたためるには十分だった。
それからしばらく沈黙が続き――
「……聞いてもいいかな、後輩ちゃん」
九雀は口を開いた。律華は諦めた顔で頷いた。
「はい」
「単刀直入すぎると思うんだが、不便じゃないか? この部屋。なにか理由でもあるのか?」
「はい、いいえ――」
いつもの癖なのか、それとも言葉通り両方の意味なのかは分かりかねた。
ひと呼吸置いてから視線も合わせず続けてくる。
「便利にしてしまうことに抵抗がある、というのはおかしいでしょうか」
「まあ、そういう修行なんだって言われたら納得はする。山ごもりよりはいい」
茶化したつもりはなく、律華ならやりかねないとわりと本気で思ったのだが――
「別に修行というわけではないんですが……」
律華は笑みと呼ぶには苦すぎる顔で、それを否定した。
「便利にしてしまったら、もうここから動けなくなってしまうんじゃないかって」
彼女の言った意味はすぐには分からなかった。
律華も、すぐ言葉が足りなかったことに気付いたのだろう。
「今まで、自分の部屋というものを持たずに来たんです。高校までは妹と一部屋を分けて使っていましたし、大学時代は寮生活でしたから」
「ああ」
「社会人になってからプライベートな空間への理想のようなものはそれなりにあって、以前の部屋はなかなか環境が整えられなかったんです。店を回るような時間も取れませんでしたし、元同僚たちとの諍いで気力もなく……結局、環境を整えられないまま先輩に助けていただきここへ越してくることになりました。部屋を引き払うにあたってほとんど荷造りをする必要もなく、それがある意味よくなかったというか……」
「なにが」
「私物を買いそろえようと店に行くたび、二の足を踏んでしまうんです。物を増やして便利にしたら、理想の部屋を作ってしまったら、以前のようには逃げられないんだろうなと」
そう言ってから、律華は一度口を噤んだ。
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