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2.ごめんよ
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「一般公開までネットに映像をあげて、その間に子供たちから名前を募集しよう」
園長の木下が職員みんなへ朝礼でそう告げたのは、子パンダが来る3日前だった。
すでに熊舎を改造したパンダ舎は完成している。久しぶりに職員みんなが毎日わくわくしている。空気で伝わってくる。
朝礼が終わり、みんなが持ち場へ散る中で、この子パンダ担当になる早坂祐吾だけは立ち尽くしていた。堂ヶ芝動物園を包む高揚感をよそに、一人不安を感じていた。執務室の真ん中で、周りの空気とはかけ離れた静かな表情を浮かべていた。
「早坂さん、どうしました? 浮かないですね」
キャップの後ろからポニーテールを出した小柄な女性飼育員が祐吾に話しかけた。
「……なんや、佐々木か。お前みたいな甘ったれに浮かないなんて言われたらおしまいやな」
佐々木は祐吾に膨れっ面をし、それでも祐吾の表情が気にかかって続けた。
「甘ったれて、ま、せ、ん。あたしは早坂さんが年に一回もない真面目な表情されると地球が消滅するんじゃないかって心配になるだけ、で、す」
祐吾は、ふんっと笑った。それは佐々木を小馬鹿にしたような笑いかただが、それはいつものことで、佐々木は少しホッとした。
「まあな、佐々木が甘ったれから卒業して、大人になって、少しでも色気出たころにでも話したらあよ」
「それ、セクハラですから」
ああ、はいはい、そうでっか。そんな返事でもするように祐吾は佐々木のキャップをぐいと深く被せ、後ろ手を振って執務室を後にした。
いつまでも子供と思いやがって、と口を尖らすが、やはり祐吾の背中に元気がないことに佐々木は小さな懸念を抱いていた。
祐吾は二十年ほど前の記憶を手繰り寄せては、軽く唇の端を噛み締めた。
もう二度とあんなことが起きないように……。
祐吾がまだ三十歳そこそこだったころ、祐吾は東京の動物園に勤めていた。
動物の扱いにはずいぶんと慣れ、どんな動物からも信頼されている。そんな自負を経験のうえで確かに持ち始めた時期であった。
「ホワイトタイガーの赤ちゃんを預かる。早坂、頼むぞ」
「了解です。任せてください」
ホワイトタイガーは初めてだったが、ライオンの赤ちゃんを飼育した経験もあるし、トラ自体、今の受持ちだ。
思いきりなつかれてしまうだろうが、そこは厳しく躾もしていかないとな。そんな慣れたイメージの中で祐吾はやってくるホワイトタイガーの赤ちゃんを待った。
「……だいぶ怯えてるな……」
到着したホワイトタイガーの赤ちゃんは天使のように可愛かった。一気に園の人気者となるだろう。祐吾はそう確信した。
だが、抱っこしても、ミルクを哺乳瓶であげようとしても、赤ちゃんは顔を伏せ、ずっと震えていた。
「まあ、ちょっと環境に慣れないですよね。慎重に人間に慣れさせてあげないと……」
祐吾は家に帰らず保育舎に泊まり続けた。部屋の隅でじっと固く身体を丸め、ホワイトタイガーの赤ちゃんは震え続けた。
「飲んでくれ。美味しいからな。大丈夫、大丈夫だぞ」
哺乳瓶を差し出すが、赤ちゃんは微動だにしない。ただ、震える日々が続いた。
俺が親になってあげれば、この怯えから解放させてあげられる。
祐吾は人間に慣れさせるべく、保育舎の草の上で一緒に寝た。
いつか信頼して、近寄ってくるだろう。いつか、怖がりながらも俺の頬をペロリと舐め、ちょっかいでも出してくるだろう。
どうしてもミルクも飲まず、ふやかした餌も食べてくれず、辛かったが栄養を注射器で送りながら、祐吾はそんな日がくるのを待ち続けた。
だが、その日は突然やって来た。
動物に関わる仕事をしていて、自尊心は命を預かるための緊張感を決して上回ってはいけない。祐吾はそれを嫌というほど味わうこととなった。
いつものように枯れ草のマットから目覚めた祐吾は、部屋の隅で眠る赤ちゃんに目を向けた。
「おはよう」
まだ暗くてよく見えないが、今日は震えていないように見えた。それにいつも全ての方向から防御するように背を丸めて固まっている赤ちゃんが、今朝は腹這いになって寝ている。
二週間を要した。長くかかったが、やっと、ほんのすこし心を許してくれた大事な記念日だ。祐吾は眠りを妨げないように、愛らしいその背中に声を出さずに微笑んだ。
ゆっくりゆっくりと音をたてず近づき、そばにそっと身体を寝かせる。まだ赤ちゃんは眠っている。
驚かせないように、そっと背中をさする。
「……え」
固い……。冷たい……。
俺は何もしていない。俺は君に何もしてあげられてない。君を……笑わせてあげてない。
祐吾は構わず、赤ちゃんを抱きあげた。赤ちゃんは腹這いのまま、硬く祐吾の手の上に乗った。
声が出なかった。
自分は奢っていた。その奢りは天使の赤ちゃんの命を奪った。
「……園長…………すみません、すみません」
悲しいまま、怖かったまま、震えたまま、ホワイトタイガーの赤ちゃんは天国へ行ってしまった。動物に携わるものとして、怖い思いをさせたまま、命を奪ったのだ。
名前を募集中だった。明日には寄せられた名前の候補から決める手はずになっていた。結局、名前も呼んであげられず、固く目をつむらせてしまった。
なぜ勝手に慣れてくれると信じた。
なぜこの子の生い立ちを知ろうともしなかった。
なぜあんなに怯えていたのか、もっと知ろうとしなかった。
あのホワイトタイガーの赤ちゃんの硬直した軽い身体の重さは、手のひらから肘あたりまでしっかりと感触を残している。
二十年、忘れたことはない。
あの、若く根拠のない自信で溢れた自分が犯した失敗を、祐吾は盛り上がる園の中でしっかりと反芻した。そして、それを佐々木にしっかりと伝えたい。
そんなことを思いながら、朝日まぶしい園の中をゆっくりと歩いた。緑濃い匂いと草木についた露の湿度が今日も祐吾の五感にしみわたる。
三日後、子パンダがやってくる。
園長の木下が職員みんなへ朝礼でそう告げたのは、子パンダが来る3日前だった。
すでに熊舎を改造したパンダ舎は完成している。久しぶりに職員みんなが毎日わくわくしている。空気で伝わってくる。
朝礼が終わり、みんなが持ち場へ散る中で、この子パンダ担当になる早坂祐吾だけは立ち尽くしていた。堂ヶ芝動物園を包む高揚感をよそに、一人不安を感じていた。執務室の真ん中で、周りの空気とはかけ離れた静かな表情を浮かべていた。
「早坂さん、どうしました? 浮かないですね」
キャップの後ろからポニーテールを出した小柄な女性飼育員が祐吾に話しかけた。
「……なんや、佐々木か。お前みたいな甘ったれに浮かないなんて言われたらおしまいやな」
佐々木は祐吾に膨れっ面をし、それでも祐吾の表情が気にかかって続けた。
「甘ったれて、ま、せ、ん。あたしは早坂さんが年に一回もない真面目な表情されると地球が消滅するんじゃないかって心配になるだけ、で、す」
祐吾は、ふんっと笑った。それは佐々木を小馬鹿にしたような笑いかただが、それはいつものことで、佐々木は少しホッとした。
「まあな、佐々木が甘ったれから卒業して、大人になって、少しでも色気出たころにでも話したらあよ」
「それ、セクハラですから」
ああ、はいはい、そうでっか。そんな返事でもするように祐吾は佐々木のキャップをぐいと深く被せ、後ろ手を振って執務室を後にした。
いつまでも子供と思いやがって、と口を尖らすが、やはり祐吾の背中に元気がないことに佐々木は小さな懸念を抱いていた。
祐吾は二十年ほど前の記憶を手繰り寄せては、軽く唇の端を噛み締めた。
もう二度とあんなことが起きないように……。
祐吾がまだ三十歳そこそこだったころ、祐吾は東京の動物園に勤めていた。
動物の扱いにはずいぶんと慣れ、どんな動物からも信頼されている。そんな自負を経験のうえで確かに持ち始めた時期であった。
「ホワイトタイガーの赤ちゃんを預かる。早坂、頼むぞ」
「了解です。任せてください」
ホワイトタイガーは初めてだったが、ライオンの赤ちゃんを飼育した経験もあるし、トラ自体、今の受持ちだ。
思いきりなつかれてしまうだろうが、そこは厳しく躾もしていかないとな。そんな慣れたイメージの中で祐吾はやってくるホワイトタイガーの赤ちゃんを待った。
「……だいぶ怯えてるな……」
到着したホワイトタイガーの赤ちゃんは天使のように可愛かった。一気に園の人気者となるだろう。祐吾はそう確信した。
だが、抱っこしても、ミルクを哺乳瓶であげようとしても、赤ちゃんは顔を伏せ、ずっと震えていた。
「まあ、ちょっと環境に慣れないですよね。慎重に人間に慣れさせてあげないと……」
祐吾は家に帰らず保育舎に泊まり続けた。部屋の隅でじっと固く身体を丸め、ホワイトタイガーの赤ちゃんは震え続けた。
「飲んでくれ。美味しいからな。大丈夫、大丈夫だぞ」
哺乳瓶を差し出すが、赤ちゃんは微動だにしない。ただ、震える日々が続いた。
俺が親になってあげれば、この怯えから解放させてあげられる。
祐吾は人間に慣れさせるべく、保育舎の草の上で一緒に寝た。
いつか信頼して、近寄ってくるだろう。いつか、怖がりながらも俺の頬をペロリと舐め、ちょっかいでも出してくるだろう。
どうしてもミルクも飲まず、ふやかした餌も食べてくれず、辛かったが栄養を注射器で送りながら、祐吾はそんな日がくるのを待ち続けた。
だが、その日は突然やって来た。
動物に関わる仕事をしていて、自尊心は命を預かるための緊張感を決して上回ってはいけない。祐吾はそれを嫌というほど味わうこととなった。
いつものように枯れ草のマットから目覚めた祐吾は、部屋の隅で眠る赤ちゃんに目を向けた。
「おはよう」
まだ暗くてよく見えないが、今日は震えていないように見えた。それにいつも全ての方向から防御するように背を丸めて固まっている赤ちゃんが、今朝は腹這いになって寝ている。
二週間を要した。長くかかったが、やっと、ほんのすこし心を許してくれた大事な記念日だ。祐吾は眠りを妨げないように、愛らしいその背中に声を出さずに微笑んだ。
ゆっくりゆっくりと音をたてず近づき、そばにそっと身体を寝かせる。まだ赤ちゃんは眠っている。
驚かせないように、そっと背中をさする。
「……え」
固い……。冷たい……。
俺は何もしていない。俺は君に何もしてあげられてない。君を……笑わせてあげてない。
祐吾は構わず、赤ちゃんを抱きあげた。赤ちゃんは腹這いのまま、硬く祐吾の手の上に乗った。
声が出なかった。
自分は奢っていた。その奢りは天使の赤ちゃんの命を奪った。
「……園長…………すみません、すみません」
悲しいまま、怖かったまま、震えたまま、ホワイトタイガーの赤ちゃんは天国へ行ってしまった。動物に携わるものとして、怖い思いをさせたまま、命を奪ったのだ。
名前を募集中だった。明日には寄せられた名前の候補から決める手はずになっていた。結局、名前も呼んであげられず、固く目をつむらせてしまった。
なぜ勝手に慣れてくれると信じた。
なぜこの子の生い立ちを知ろうともしなかった。
なぜあんなに怯えていたのか、もっと知ろうとしなかった。
あのホワイトタイガーの赤ちゃんの硬直した軽い身体の重さは、手のひらから肘あたりまでしっかりと感触を残している。
二十年、忘れたことはない。
あの、若く根拠のない自信で溢れた自分が犯した失敗を、祐吾は盛り上がる園の中でしっかりと反芻した。そして、それを佐々木にしっかりと伝えたい。
そんなことを思いながら、朝日まぶしい園の中をゆっくりと歩いた。緑濃い匂いと草木についた露の湿度が今日も祐吾の五感にしみわたる。
三日後、子パンダがやってくる。
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