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18 前編
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◆
飲食店は週末にかけて客足が増える。特に金曜の夜ともなると、仕事帰りのサラリーマンやOL、異業種交流会という名の合コンなどで席は埋まっていく。
例にもれず、昴星の働く居酒屋『kirishima』でもほぼ席は埋まっており、注文取りと飲み物食べ物提供、後片付けと会計とをこなした上、酔客を軽く相手しながらビールグラスを冷蔵庫に補充したりと、目の回る忙しさだ。気を抜くと表情がごっそり抜け落ちて愛想の悪い店員に見られるため、忙しいときは段取りよく動かないと、じわじわ負担が増えてさらに表情が無くなる。
昴星はため息を吐きながら、笑顔の面でもあれば楽なのになあ、などと思っていた。そこへ店の扉ががらがらと音を立てて開いた。新規の客のようだ。
ビールグラスを補充していた昴星は、背中越しに「いらっしゃいませ」と声かけした。背後から客と思しき革靴の音が近付いてきたため、通路の邪魔にならないよう除けようと立ち上がりよろめく。咄嗟に冷蔵庫に手をついてバランスを取ろうとしたが、それより先に背後から昴星の腰に腕がまわって、倒れないよう支えられる。
「おい、大丈夫か」
まわった腕に驚いて固まっていると、聞き覚えのある低い声が耳のすぐそばで聞こえ、今度は驚きすぎて力が抜ける。櫻川だ。ついでに腰も抜けるほど良い声で、昴星は猛烈に恥ずかしくなり腕を振り解こうとする。が、何故かさらに力が強まり密着することになった。
「待て、顔が赤い。昴星、お前まだ本調子じゃねぇな?」
「もう元気です。顔が赤いのは暑いんです! 離れてください先生!」
他の客に迷惑にならないよう、小声でじたばたもがくも櫻川の腕はびくともしない。いったん諦めて文句を言おうと振り返って口を開いたら、思いのほか二人の顔の距離が近く、とっさに櫻川の顔を両手で押し戻した。
「……ひとが心配してやってるっつーのに……」
なかば意地になってきたのか、櫻川はまだ埋まっていない一番近い半個室へ昴星を押し込む。
「ちょっと、何するんですか!」
「いいから少し落ち着け」
逃げ出そうと足掻く昴星の腕を抑え、櫻川は顔を寄せてくる。内心パニックになりながらも、これはどういう状況なのかフルスピードで考える。しかし全く理解できない。傍目に見たらキスする距離だ。どうしてこうなったと頭を抱えたくなる。
「もうやだぁ…」
昴星が涙目になりながら訴えてみても「我慢しろ」と、櫻川はにべもなく言い放つ。
キスされる、と思い心臓が大きく跳ね、観念してぎゅっと目を瞑った。すると予想していたことは起こらず、コツンとおでこに何かが触れた。うっすら目を開けると、焦点が合わない距離に櫻川の顔があり、熱を測ろうとしていたのだと漸く理解した。とたん、自分の勘違いに凄まじく恥ずかしくなり、全身が燃えるように熱くなる。
「ちょっとお二人さん。店の中でイチャイチャしないでくれます。柊木君、そいつは放っておいていいから厨房ヘルプ」
桐島が厨房の出入り口からひょっこり姿を現し、揶揄いながら作業に戻るように声をかける。
「はい! すみません!」
昴星は頭を下げ、櫻川から逃げるように厨房へ飛び込んだ。
「なあ、本当に俺の店で何してんの? 柊木君の顔、赤かったんだけど」
「知らん」
桐島も厨房に戻りながら、櫻川を不審者を見るような目付きで見やる。
本日の櫻川は学会帰りということもあり、普段とは異なって身だしなみを整え濃灰色のスーツを身に纏い、不審者とはほど遠い洗練された装いになっている。とはいえ、いくら見た目を整えたところで、学生時代から知る桐島にとって、人間性がそうそう変わるものでもないことを知っている。
「まさか……柊木君、いじめてないだろうな?」
「いじめるか! 心配してやってんだぞ? むしろ可愛がっとるわ」
ふんぞりかえりながら言い放つ櫻川に、桐島は胡乱気な目で言い放つ。
「は? 可愛がってる? おまえが言うといやらしいんだよ。このエロ准教授が」
「エロッ……!? なんか、何もしてねぇわ!」
櫻川は驚愕のあまり大声を上げそうになったものの、既のところで飲み込み、小声で抗議する。店内は酔客で賑っているが、大声を上げれば注目の的になる。不名誉な肩書きで衆目を浴びるわけにはいかない。
桐島はしたり顔で腕を組むと、こちらも小声で応戦する。
「柊木くんに聞いたんだからな。お前……部屋に連れ込んだんだろ」
「人聞きの悪い言い方をするな!」
「はあ? じゃあ柊木くんが嘘ついたって言うのか?」
「……嘘ではないが、語弊がある。話を聞くために連れてっただけだ」
「美人とくれば、男も女も大好きなサクラがか? 絶対嘘だろ。彼の見た目ドストライクじゃねーか。あ、だから新人いじめしなかったのか」
なるほど、と腑に落ちたとばかりに、桐島はぽんと手を打って厨房へ戻って行く。
「だからお前は本当に人聞きが悪いな!」
桐島の背中にぶつけるも、一切相手にされず一人残される。仕方なくいつものカウンターテーブルの定位置に陣取って、櫻川は大きく息を吐いた。
「サクラ、いつものでいいか?」
カウンター越しの呼びかけに、頷いて応える。
「ああ、あと適当に出してくれ。昼、食いっぱぐれた」
「珍しいな。お偉いさんにでも捕まったのか」
桐島は櫻川の相手をしつつも、次々と注文された品を盛り付けていく。
「親父の大学のときの元同期と偶然会っちまって。顔見知りではあるんだが、向こうは娘を連れててな……」
「あー。あれね。お見合い的な」
「ああ。まんまとハメられた。親父が行けねえから代わりに出席しろって五月蝿いし、わざわざ都合つけて行ったのに」
櫻川は恨みのこもった言葉を吐き出し、ビール片手に立ち尽くす昴星にちらりと視線を向ける。
「俺のだろ」
「あ、はい。お待たせしました」
「ん。ありがとな」
櫻川は礼を言うと、昴星からビールを受け取り、当てがくる前に飲み始める。
お見合いという聞き捨てならない言葉に動揺しながらも、昴星は速やかに厨房へ戻った。
飲食店は週末にかけて客足が増える。特に金曜の夜ともなると、仕事帰りのサラリーマンやOL、異業種交流会という名の合コンなどで席は埋まっていく。
例にもれず、昴星の働く居酒屋『kirishima』でもほぼ席は埋まっており、注文取りと飲み物食べ物提供、後片付けと会計とをこなした上、酔客を軽く相手しながらビールグラスを冷蔵庫に補充したりと、目の回る忙しさだ。気を抜くと表情がごっそり抜け落ちて愛想の悪い店員に見られるため、忙しいときは段取りよく動かないと、じわじわ負担が増えてさらに表情が無くなる。
昴星はため息を吐きながら、笑顔の面でもあれば楽なのになあ、などと思っていた。そこへ店の扉ががらがらと音を立てて開いた。新規の客のようだ。
ビールグラスを補充していた昴星は、背中越しに「いらっしゃいませ」と声かけした。背後から客と思しき革靴の音が近付いてきたため、通路の邪魔にならないよう除けようと立ち上がりよろめく。咄嗟に冷蔵庫に手をついてバランスを取ろうとしたが、それより先に背後から昴星の腰に腕がまわって、倒れないよう支えられる。
「おい、大丈夫か」
まわった腕に驚いて固まっていると、聞き覚えのある低い声が耳のすぐそばで聞こえ、今度は驚きすぎて力が抜ける。櫻川だ。ついでに腰も抜けるほど良い声で、昴星は猛烈に恥ずかしくなり腕を振り解こうとする。が、何故かさらに力が強まり密着することになった。
「待て、顔が赤い。昴星、お前まだ本調子じゃねぇな?」
「もう元気です。顔が赤いのは暑いんです! 離れてください先生!」
他の客に迷惑にならないよう、小声でじたばたもがくも櫻川の腕はびくともしない。いったん諦めて文句を言おうと振り返って口を開いたら、思いのほか二人の顔の距離が近く、とっさに櫻川の顔を両手で押し戻した。
「……ひとが心配してやってるっつーのに……」
なかば意地になってきたのか、櫻川はまだ埋まっていない一番近い半個室へ昴星を押し込む。
「ちょっと、何するんですか!」
「いいから少し落ち着け」
逃げ出そうと足掻く昴星の腕を抑え、櫻川は顔を寄せてくる。内心パニックになりながらも、これはどういう状況なのかフルスピードで考える。しかし全く理解できない。傍目に見たらキスする距離だ。どうしてこうなったと頭を抱えたくなる。
「もうやだぁ…」
昴星が涙目になりながら訴えてみても「我慢しろ」と、櫻川はにべもなく言い放つ。
キスされる、と思い心臓が大きく跳ね、観念してぎゅっと目を瞑った。すると予想していたことは起こらず、コツンとおでこに何かが触れた。うっすら目を開けると、焦点が合わない距離に櫻川の顔があり、熱を測ろうとしていたのだと漸く理解した。とたん、自分の勘違いに凄まじく恥ずかしくなり、全身が燃えるように熱くなる。
「ちょっとお二人さん。店の中でイチャイチャしないでくれます。柊木君、そいつは放っておいていいから厨房ヘルプ」
桐島が厨房の出入り口からひょっこり姿を現し、揶揄いながら作業に戻るように声をかける。
「はい! すみません!」
昴星は頭を下げ、櫻川から逃げるように厨房へ飛び込んだ。
「なあ、本当に俺の店で何してんの? 柊木君の顔、赤かったんだけど」
「知らん」
桐島も厨房に戻りながら、櫻川を不審者を見るような目付きで見やる。
本日の櫻川は学会帰りということもあり、普段とは異なって身だしなみを整え濃灰色のスーツを身に纏い、不審者とはほど遠い洗練された装いになっている。とはいえ、いくら見た目を整えたところで、学生時代から知る桐島にとって、人間性がそうそう変わるものでもないことを知っている。
「まさか……柊木君、いじめてないだろうな?」
「いじめるか! 心配してやってんだぞ? むしろ可愛がっとるわ」
ふんぞりかえりながら言い放つ櫻川に、桐島は胡乱気な目で言い放つ。
「は? 可愛がってる? おまえが言うといやらしいんだよ。このエロ准教授が」
「エロッ……!? なんか、何もしてねぇわ!」
櫻川は驚愕のあまり大声を上げそうになったものの、既のところで飲み込み、小声で抗議する。店内は酔客で賑っているが、大声を上げれば注目の的になる。不名誉な肩書きで衆目を浴びるわけにはいかない。
桐島はしたり顔で腕を組むと、こちらも小声で応戦する。
「柊木くんに聞いたんだからな。お前……部屋に連れ込んだんだろ」
「人聞きの悪い言い方をするな!」
「はあ? じゃあ柊木くんが嘘ついたって言うのか?」
「……嘘ではないが、語弊がある。話を聞くために連れてっただけだ」
「美人とくれば、男も女も大好きなサクラがか? 絶対嘘だろ。彼の見た目ドストライクじゃねーか。あ、だから新人いじめしなかったのか」
なるほど、と腑に落ちたとばかりに、桐島はぽんと手を打って厨房へ戻って行く。
「だからお前は本当に人聞きが悪いな!」
桐島の背中にぶつけるも、一切相手にされず一人残される。仕方なくいつものカウンターテーブルの定位置に陣取って、櫻川は大きく息を吐いた。
「サクラ、いつものでいいか?」
カウンター越しの呼びかけに、頷いて応える。
「ああ、あと適当に出してくれ。昼、食いっぱぐれた」
「珍しいな。お偉いさんにでも捕まったのか」
桐島は櫻川の相手をしつつも、次々と注文された品を盛り付けていく。
「親父の大学のときの元同期と偶然会っちまって。顔見知りではあるんだが、向こうは娘を連れててな……」
「あー。あれね。お見合い的な」
「ああ。まんまとハメられた。親父が行けねえから代わりに出席しろって五月蝿いし、わざわざ都合つけて行ったのに」
櫻川は恨みのこもった言葉を吐き出し、ビール片手に立ち尽くす昴星にちらりと視線を向ける。
「俺のだろ」
「あ、はい。お待たせしました」
「ん。ありがとな」
櫻川は礼を言うと、昴星からビールを受け取り、当てがくる前に飲み始める。
お見合いという聞き捨てならない言葉に動揺しながらも、昴星は速やかに厨房へ戻った。
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