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第一四話 もっと君の中に入りたい
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気付いていながら、気付いていないふりをすることがある。気配だけのものには背を向ける。願えるのなら、自分のことはそっとしておいて欲しい。守り抜いてきた、小さくてまだ不安定な世界にどうか入り込まないで。
そしてずっとずっと自分だけが守って行きたい大切なものがある。星の数ほどと言われても、ひとつだけでいいのだから。
競技会の後始末時に声を掛けてきた二年生のような性質は不躾と思えるが、両者とも最初の一歩にいくらかの勇気があったのかもしれない。
それほどふたりが周りに見せる壁は高いものだった。その高い壁は藤井瑞月が全身全霊で作り上げているものと、気付く者は気付いている。その気付く者とはどういう者のことを言うのか。
瑞月、恵風のどちらかにでも、興味を持った者のことではないだろうか。
近づく手段に手薄だった彼は、高い壁を掻い潜る策にこの方法を用いた。
「どうしたの?」
「なんでもない」
クラスの違う瑞月と恵風の下駄箱は、迎えあわせに配置されている。上履きから外靴に替えるまでの気配に、瑞月は最近奇妙を感じていた。
それは言葉に置き換えるほどでもないとその時は判断し、何より恵風は、自分のものではないのだからと知らないことにした。
夏休み明けの間もなく、「放課後北側音楽室隣のホールで待ってます」とだけ書かれた小さな紙が恵風の靴の中に入り始め、どうしようか困ってる間に向こうから来てしまう。
なにが待ち受けてるかも知らないふたりは、いつものように恵風のクラスで昼休みを過ごし、昼食後ホールの窓際に立ってたわいないお喋りもいつもと同じだった。
「あ、そうだ 昨日の委員会の時、ペン忘れて来たみたいなんだ 生徒会室、今日どっかで使うかな……開かないと入れないや」
「そう言えば今日ナナくん委員会だって言ってたような」
「ホント!じゃあ回収できるかな ちょっと行ってくるから待ってて」
「一緒に行ってあげようか?」
「いいよ~すぐ終わるって」
瑞月の相変わらずの過保護ぶりに、恵風は苦笑混じりに答えたいつもと同じ平穏な、まだ昼休みのことだった。
三階の北側にあるそのホールは、南側の教室側と違って用がある場所にそれぞれ納まってしまえば、今のような閑散とした放課後の風景そのもののようになる所だ。その落ち着きが欲しくて時々訪れる者もいるだろうが、数はきっと多くない。音楽室はふたつあり南側とそして今誰かが使っている、授業以外あまり使われることがない北側の音楽室。
ドリーブだ
いつかの帰りのバスでイヤホンを半分こにしてふたりで聴いた。美しい旋律の中バスに揺られて終着点までまどろんだ。
雑音に邪魔されることもなく鉄筋の校舎に響き渡るピアノの音は、恵風の中の小さな引っかかりを解き、自分がひとりで”北側音楽室隣のホール”にいるということを忘れさせていた。
恵風に苦笑いされようとも瑞月には払拭仕切れないものが、頭の隅にただの勘としてあった。何か起きるよりも、恵風に無粋な顔をされる方がまだ平気だ。瑞月は生徒会室のある三階へと向かった。
聴こえてきた音楽に意識が乗り、一時強ばりが解れる。
恍惚に引き寄せられる旋律の中、目に飛び込んで来たのは自分が最も恐れていた風景。閃光のように彼女の声が瑞月の聴覚に届いたかもしれない。けれど自分に聞こえてるのはドリーブばかり。
やがて生徒会室から廊下に出て様子を伺う視線が、自分たちに注がれていると気付いた。その中にいた友人はドリーブを背景に、初めて見せる静かな目でジッと瑞月を見ていた。
毎日繰り返してることは別な何かが頭の中を奪っていても、勝手にカラダが覚えていて出来るものだとボンヤリした頭で瑞月は思う。
断片的に感じている恵風からの視線には一寸も合わすことが出来ないまま、家に辿り着いた。それまでの景色は瑞月にはひとつもなかった。
恵風が家のカギを開ける為に邪魔になった自分の手にようやく気付き、そこで瑞月は恵風から手を離した。
いつもは感じないカラダの重さを感じながら、恵風の家にいつものように上がった。先ほどの失敗を認めるのが怖くてそれらを打ち消したく、また新たな失敗を作り出そうとも知らずに。
君を俺のものにしたい 俺だけのものに
どうしたら出来る? どうしたら
逃げないで 嫌がらないで
お願いだよ 頼むから
大好きなんだ
好きで好きで 好きで好きで
こんな時壊れそうになる
ごめん 痛くしたくないのにカラダが言うこと聞かなくて
カラダが勝手に動いてるような
自分の中でずっとドリーブが流れてる
君の好きな曲
君の好きなキレイな曲 君が欲しい 君が欲しいって
君もキレイだよ
誰にも渡したくない
どうしてそんなに嫌がってるの?
俺だよエッちゃん 俺だって
頭ではきっと理解している。彼女が必死で自分に訴え抵抗する理由を。けれどドリーブで仕切られた瑞月の中は、声は聞えているのに聞えてるだけ。昨日までの自分たちじゃないような顔で、自分から剥がそうと必死でもがいているのも見えている。
胸の下で嫌がり、抵抗し、けれど恵風がもがくほどにチカラが入った。
君の中に入りたい もっと もっと
離れたくない
君の中に入りたい
お願い お願いだから そんな目で俺のこと 見ないで
思いとどまった指先が弱々しく最後の下着から解けた。
🌱
「どうしたの?さては”キミのエッちゃん”を怒らせたんでしょう?」
翌日の一時限目終了の10分休憩の時間に、前の席にいる虹生はクルリと後ろ向きになり、うなだれの瑞月の頭に向かって声を掛けた。昨日生徒会室から見ていたのは彼だ。
「……よく分かったね」
彼は男子で付き合ってる相手も男子。秘密を開けてしまってからここらじゃ知らない者はいないくらいの、知名度あるカップルだ。その知名度は彼らがただ黙ってるだけで出来たものではないことを、そばにいた瑞月は知ってる。彼らが悩みながら得たそれは、今の彼らの守りになってる。
「君たちがとっても眩しいや」
「それってオレと旺汰? なんだソレ」
机に伏したまま彼と話す瑞月の声は、自分の両腕と肩に吸い取られ机からはね返りくぐもった声になって自分の耳に入る。覇気が全くない。あったらおかしいと瑞月は自分を嘲った。
「もしかして昨日の……」
「こっちを見もしてくれなくなっちゃった」
「フーン ソレは相当怒ってるね謝ったの?」
「謝っても済まないことをあれからやってしまったんだ」
「昨日のあれは 彼女あそこにいたのって……コク…」
「……」
「オレも何度かそういう”行き違い”みたいなことがあってね まあ、色々その後あったよね 旺汰の気持ちも分からなくはないよ けど……」
「けど?」
「こんな言い方アレかもしれないけど、コッチからしたらそれは本当に”ごめんなさい”で終わりなことで……コクって来た子に対してね そんな出来事が自分に何か影響を及ぼすなんてことは絶対にない あったらおかしいだろ だから自分は”信用されてないんだ”って、旺汰に言われたことが悔しくなった」
「 ! 」
「分かる?分かってやれよ 彼女の”自分を信じて”ってヤツを」
「うん……でも……ダメなんだ 分かってることが出来ない時ってあるんだよナナくん 三島に聞いてみなよ 自分の大事なことになると特にって」
「……それも分かるかな」
「……」
「何でもいいしいつでもいいからさ、助けてほしいことがあったら声掛けてよ ね……」
「うん ありがと」
「早く仲直りしなよ」
「……うん……」
”ゆりかごみたい”
バス通学にまだ慣れていなかった入学したての頃、夕日も一緒に乗せてるようなバスの中で君はまどろみながら言った。
ひとりで座っている君はずーっと窓の外を見ていて
俺はそんな君を離れたところからずっと見てて
こっちを見てくれないかな
こっちを見て そして 俺に気付いてくれないかな
なんて考えてる
何も残ってないない
乱暴に合わせた唇も 肌の温かさや胸の膨らみも
何にも残っていない 何も覚えていない
あるのは後悔だけ
どうしてあんなことをしてしまったんだろう
止まらなくて止められなくて
あの時合わせた瞳が”間違いだよ”って教えてくれてたのに
どうして分からなかったんだろう
大きな瞳に涙一杯溜めていたあの目と震えていた手
気付いてたのに手に入れても、きっと本当のほしいものじゃない
それどころか自分からダメにしてしまうところだった
それとももうダメなのかな
ダメかな……俺たち……
なんでこんな失敗をしてしまったんだろう……
こんなに君を遠くに感じたのは初めて
🌱
連れが戻るまでの下校待機は、こちらのカップルも同様だった。手洗いからの帰りにふと隣の教室に目が行き、教室でポツンと空を見上げてるひとりを見つけた。何も知らなければそのまま自分の席に戻っていたことだろう。友が抱える辛酸を自分のチャンスにして良いものか、虹生は一瞬躊躇うがドアを二回ノックしながら声を掛けた。
「まだ帰らないの?”エッちゃん”」
「あ……あ……委員会がさっき終わって……バスに置いてかれて……次のバス待ちで……」
ひとりでいた放課後に、虹生に突然声を掛けられたことは、恵風には不意打ちだったらしい。しどろもどろに答える様に笑い上戸の虹生はニッコリしないはずがなかった。
「オレは旺汰待ちだよ ソッチ行ってもいい?」
断る理由のない恵風は笑って頷いたが、瑞月と疎遠になりその代わりのように現れた瑞月の友だちに恵風は内心戸惑った。
「藤井は帰ったんだ」
昨日のことを見ていながら、何も知らない顔をして虹生は聞いた。
「……バイトじゃないかな」
「ねえ君もオレのこと名前で呼べば?ナナオでいいよ」
「じゃあ……ナナオくんクスッ」
夕日に照らされてる恵風の頬が、とてもやわらかそうに虹生の目に映る。
一緒に外を眺めながら横目で気付かれないようそっと、金に反射する産毛の頬に見入っていた。ボンヤリと窓の外を眺め、やがて独り言を呟くように空気に溶けそうな声で恵風が話す。
「約束を誰からも分かるようにしようとしたら、ナナオくんは何だと思う?ナナオくんは三島くんとの約束にしているものもう持ってる?」
恵風は早くから虹生と旺汰のことを瑞月から聞いて知っている。何のことでもない普通のことと受け取ってくれている恵風に、虹生も旺汰も心を開く準備は出来ていた。待ち構えていたと言ってもいいくらいだろう。
「”誰から見ても”……って難しいね」
「人の思いって空気と同じ見えないもので不安定で、だから大事な人には余計に言葉にして伝えなきゃって……それでも難しい時ってあるんだね……」
「……」
「わたしが一番に――はきっと ――なんだ」
”一番に分かっててほしいのは、きっとミズキなんだ” 虹生にそう聞こえた。
「おーーい」
「あ、お疲れ旺汰」
虹生と旺汰は、恵風が乗ったバスを見送った。
「藤井がしきりに”エッちゃんエッちゃん”言うのが分かった気がする」
「ふーーん」
「クス ナンだよ旺汰」
「……別に」
「ナンだよハッキリ言えよ! 分かった藤井は放ってオレたちだけでエッちゃんの所に行っちゃおうか」
ふたりがこの波をうまく越えられるといい。そう虹生は思った。
🌱
日を追うにつれ、どんどん萎れていく様は付近の者を震撼させ、友が元気付ける為にと放ったジョークに一生懸命笑おうとする姿は、見ていられないほど痛々しかった。
午後の全校集会では移動に気付かない瑞月を残し、三年生が彼を取り囲んだ事態となった。回収に向かった虹生はいつもなら腹をよじり笑っていたであろうが、この時ばかりはさすがに彼の沸点は計測不能にまでなった。
「大丈夫かな藤井」
「俺たちにはどうすることも出来ない 脱却するまで支えていよう」
「そうだね……」
心配してくれる友のためにも、いつまでも腐っててはいられない。
瑞月は心の耳を澄ました。
彼女は何に怒っているのか分かってる?
―分かってる
じゃあどうしたらいいかは?
―……
このままでいいの?
―……
だってなくしたくないんでしょう
―でもダメだったら?
もしもそうだったとしても このままでいいとお前は思ってる?
― 思ってない
見知らぬ誰かとの交信を済まし自身を奮い立たせ、瑞月は自分に区切りを付けようと決意する。最寄りの駅に到着したらそこで彼女に声を掛けよう。
無視されても逃げ出されても挫けない。後悔しないために絶対に諦めない。
自分から逃げてはいけない。善にも悪にも自分を助けるのは自分しかいない。
そして心の底から謝ろう。全て自分にしか出来ないことだ。無意識に作られた冷たい拳にチカラが入る。
さあ始まりだ――
「エッ… あれ」
最寄りの駅に到着して駅舎を出ると、恵風は急に走り出した。まさか自分の思考を読むことが出来るのか!?そんなはずはない。瑞月は焦る。
恵風がひとりで歩いてるだけでも、瑞月はいつも不安だった。
今恵風に何か起きたら、後悔しかない今の自分はもう生きて行くことが不可能だろう。恵風の後を瑞月は追う。
君が俺を許してくれなくても、君を守るのは俺の務め。
俺が死んでも君は死なない!
君は絶対に死なない!
俺は君さえ生きてれば大丈夫
君 の 中 で 俺 は 生 き 続 け る か ら !!
たった今自分の中から引き出した混じりけのない心こそが、彼女に受け取ってほしいものであると瑞月はやっと気付いた。
もっと君の中に入りたい って―― こういうことだったんだ……
「は……ははっ……そうなるにはどうしたらいいかな……今のままじゃ全然ダメダメだ……」
自業自得は分かっている。自分の浅はかぶりに涙がみるみる溢れ、その場にガクッとへたり込んだ。その間もなく、ぼやけた視界に見慣れたつま先が見えた。
他の誰にも見せられないけれど、特別なひとりには素直になれる不思議を知ってる。星の数ほどこの地上に人はいるのに、そんな相手に巡り会えた奇跡を絶対に手放したくない。宝のように大事にしなくてはならない。その宝物にはちゃんと意思があって、喋って怒って泣いたり時々叩いたりする。走ったり転んだり、自分をヒヤヒヤとさせたりもする。でも一緒に笑うだけでとっても幸せな気持ちになれる。
一緒に笑っていたい。ずっとずっと。守っていたい。誰の一番じゃなくて、自分の一番を。
誰かにとっては小さくても、自分にとってはただひとつだから。
「ミズキが っく……わ…わるっ……かった~~~」
「ミズキのバーカ」
自分の元には来てくれたけれど、名前を呼んでくれると思っていなかった瑞月は、それだけで感極まり次から次と溢れる涙で地面にポタポタと染みを作った。
数にすると僅かでも、果てが分からずただ苦しかったこの幾日。懐かしい顔に遠い日の記憶が蘇り重なる。
”ミズキ今日は何して遊ぶ?”自分の所に真っ先に来てくれるのは、昔から。
暗く重く苦しい長い時を過ごした。辛くて辛くて悲しかった。恵風は昔から恵風だ。自分の余計な思い込みなんて無駄でしかなかった。
瑞月は声を上げて泣いた。けれど自分だけになってはいけない。
自分の行いによって、恵風も辛い日々を過ごしていたのかもしれないのだから。瑞月は恵風の成敗を待った。
「わたしがミズキ以外の子、好きになるわけないでしょ なんで分かんないかなー」
「エッちゃん……!」
「でも難しいことだよね わたしが毎日ミズキミズキばっかり言っててもね、不安になる時ってやっぱりあると思うの わたしもきっとそう どうしたらいいかずっと考えてたけど……分かんなかった もしかしたらひとりで考えてるから分かんないのかなって……だからさ」
恵風は瑞月の視線を掬うように目の前にしゃがむ。
「一緒に考えようよ」
「エッちゃん……おっ俺……本当にごめん……」
「鼻水出てるよ」
鼻をかみ終わるのを静かに見ていた恵風と目が合い、瑞月はつられ頬が少しだけ緩み、数日続いた強ばりが魔法のように解けていくのを感じた。
「ミズキのこと許してくれるの?」
「んー……許さない」
「そ……そうだよね……」
「……でもわたしの大好きな人を当てたら許すかも いい?外したらもう口もきかないよ 分かった!? ホラ、言ってごらん 誰!?エッちゃんの好きな人!!」
そう言って笑った恵風を見て 瑞月はまた泣いた。
「 ミズキだよ 」
そしてずっとずっと自分だけが守って行きたい大切なものがある。星の数ほどと言われても、ひとつだけでいいのだから。
競技会の後始末時に声を掛けてきた二年生のような性質は不躾と思えるが、両者とも最初の一歩にいくらかの勇気があったのかもしれない。
それほどふたりが周りに見せる壁は高いものだった。その高い壁は藤井瑞月が全身全霊で作り上げているものと、気付く者は気付いている。その気付く者とはどういう者のことを言うのか。
瑞月、恵風のどちらかにでも、興味を持った者のことではないだろうか。
近づく手段に手薄だった彼は、高い壁を掻い潜る策にこの方法を用いた。
「どうしたの?」
「なんでもない」
クラスの違う瑞月と恵風の下駄箱は、迎えあわせに配置されている。上履きから外靴に替えるまでの気配に、瑞月は最近奇妙を感じていた。
それは言葉に置き換えるほどでもないとその時は判断し、何より恵風は、自分のものではないのだからと知らないことにした。
夏休み明けの間もなく、「放課後北側音楽室隣のホールで待ってます」とだけ書かれた小さな紙が恵風の靴の中に入り始め、どうしようか困ってる間に向こうから来てしまう。
なにが待ち受けてるかも知らないふたりは、いつものように恵風のクラスで昼休みを過ごし、昼食後ホールの窓際に立ってたわいないお喋りもいつもと同じだった。
「あ、そうだ 昨日の委員会の時、ペン忘れて来たみたいなんだ 生徒会室、今日どっかで使うかな……開かないと入れないや」
「そう言えば今日ナナくん委員会だって言ってたような」
「ホント!じゃあ回収できるかな ちょっと行ってくるから待ってて」
「一緒に行ってあげようか?」
「いいよ~すぐ終わるって」
瑞月の相変わらずの過保護ぶりに、恵風は苦笑混じりに答えたいつもと同じ平穏な、まだ昼休みのことだった。
三階の北側にあるそのホールは、南側の教室側と違って用がある場所にそれぞれ納まってしまえば、今のような閑散とした放課後の風景そのもののようになる所だ。その落ち着きが欲しくて時々訪れる者もいるだろうが、数はきっと多くない。音楽室はふたつあり南側とそして今誰かが使っている、授業以外あまり使われることがない北側の音楽室。
ドリーブだ
いつかの帰りのバスでイヤホンを半分こにしてふたりで聴いた。美しい旋律の中バスに揺られて終着点までまどろんだ。
雑音に邪魔されることもなく鉄筋の校舎に響き渡るピアノの音は、恵風の中の小さな引っかかりを解き、自分がひとりで”北側音楽室隣のホール”にいるということを忘れさせていた。
恵風に苦笑いされようとも瑞月には払拭仕切れないものが、頭の隅にただの勘としてあった。何か起きるよりも、恵風に無粋な顔をされる方がまだ平気だ。瑞月は生徒会室のある三階へと向かった。
聴こえてきた音楽に意識が乗り、一時強ばりが解れる。
恍惚に引き寄せられる旋律の中、目に飛び込んで来たのは自分が最も恐れていた風景。閃光のように彼女の声が瑞月の聴覚に届いたかもしれない。けれど自分に聞こえてるのはドリーブばかり。
やがて生徒会室から廊下に出て様子を伺う視線が、自分たちに注がれていると気付いた。その中にいた友人はドリーブを背景に、初めて見せる静かな目でジッと瑞月を見ていた。
毎日繰り返してることは別な何かが頭の中を奪っていても、勝手にカラダが覚えていて出来るものだとボンヤリした頭で瑞月は思う。
断片的に感じている恵風からの視線には一寸も合わすことが出来ないまま、家に辿り着いた。それまでの景色は瑞月にはひとつもなかった。
恵風が家のカギを開ける為に邪魔になった自分の手にようやく気付き、そこで瑞月は恵風から手を離した。
いつもは感じないカラダの重さを感じながら、恵風の家にいつものように上がった。先ほどの失敗を認めるのが怖くてそれらを打ち消したく、また新たな失敗を作り出そうとも知らずに。
君を俺のものにしたい 俺だけのものに
どうしたら出来る? どうしたら
逃げないで 嫌がらないで
お願いだよ 頼むから
大好きなんだ
好きで好きで 好きで好きで
こんな時壊れそうになる
ごめん 痛くしたくないのにカラダが言うこと聞かなくて
カラダが勝手に動いてるような
自分の中でずっとドリーブが流れてる
君の好きな曲
君の好きなキレイな曲 君が欲しい 君が欲しいって
君もキレイだよ
誰にも渡したくない
どうしてそんなに嫌がってるの?
俺だよエッちゃん 俺だって
頭ではきっと理解している。彼女が必死で自分に訴え抵抗する理由を。けれどドリーブで仕切られた瑞月の中は、声は聞えているのに聞えてるだけ。昨日までの自分たちじゃないような顔で、自分から剥がそうと必死でもがいているのも見えている。
胸の下で嫌がり、抵抗し、けれど恵風がもがくほどにチカラが入った。
君の中に入りたい もっと もっと
離れたくない
君の中に入りたい
お願い お願いだから そんな目で俺のこと 見ないで
思いとどまった指先が弱々しく最後の下着から解けた。
🌱
「どうしたの?さては”キミのエッちゃん”を怒らせたんでしょう?」
翌日の一時限目終了の10分休憩の時間に、前の席にいる虹生はクルリと後ろ向きになり、うなだれの瑞月の頭に向かって声を掛けた。昨日生徒会室から見ていたのは彼だ。
「……よく分かったね」
彼は男子で付き合ってる相手も男子。秘密を開けてしまってからここらじゃ知らない者はいないくらいの、知名度あるカップルだ。その知名度は彼らがただ黙ってるだけで出来たものではないことを、そばにいた瑞月は知ってる。彼らが悩みながら得たそれは、今の彼らの守りになってる。
「君たちがとっても眩しいや」
「それってオレと旺汰? なんだソレ」
机に伏したまま彼と話す瑞月の声は、自分の両腕と肩に吸い取られ机からはね返りくぐもった声になって自分の耳に入る。覇気が全くない。あったらおかしいと瑞月は自分を嘲った。
「もしかして昨日の……」
「こっちを見もしてくれなくなっちゃった」
「フーン ソレは相当怒ってるね謝ったの?」
「謝っても済まないことをあれからやってしまったんだ」
「昨日のあれは 彼女あそこにいたのって……コク…」
「……」
「オレも何度かそういう”行き違い”みたいなことがあってね まあ、色々その後あったよね 旺汰の気持ちも分からなくはないよ けど……」
「けど?」
「こんな言い方アレかもしれないけど、コッチからしたらそれは本当に”ごめんなさい”で終わりなことで……コクって来た子に対してね そんな出来事が自分に何か影響を及ぼすなんてことは絶対にない あったらおかしいだろ だから自分は”信用されてないんだ”って、旺汰に言われたことが悔しくなった」
「 ! 」
「分かる?分かってやれよ 彼女の”自分を信じて”ってヤツを」
「うん……でも……ダメなんだ 分かってることが出来ない時ってあるんだよナナくん 三島に聞いてみなよ 自分の大事なことになると特にって」
「……それも分かるかな」
「……」
「何でもいいしいつでもいいからさ、助けてほしいことがあったら声掛けてよ ね……」
「うん ありがと」
「早く仲直りしなよ」
「……うん……」
”ゆりかごみたい”
バス通学にまだ慣れていなかった入学したての頃、夕日も一緒に乗せてるようなバスの中で君はまどろみながら言った。
ひとりで座っている君はずーっと窓の外を見ていて
俺はそんな君を離れたところからずっと見てて
こっちを見てくれないかな
こっちを見て そして 俺に気付いてくれないかな
なんて考えてる
何も残ってないない
乱暴に合わせた唇も 肌の温かさや胸の膨らみも
何にも残っていない 何も覚えていない
あるのは後悔だけ
どうしてあんなことをしてしまったんだろう
止まらなくて止められなくて
あの時合わせた瞳が”間違いだよ”って教えてくれてたのに
どうして分からなかったんだろう
大きな瞳に涙一杯溜めていたあの目と震えていた手
気付いてたのに手に入れても、きっと本当のほしいものじゃない
それどころか自分からダメにしてしまうところだった
それとももうダメなのかな
ダメかな……俺たち……
なんでこんな失敗をしてしまったんだろう……
こんなに君を遠くに感じたのは初めて
🌱
連れが戻るまでの下校待機は、こちらのカップルも同様だった。手洗いからの帰りにふと隣の教室に目が行き、教室でポツンと空を見上げてるひとりを見つけた。何も知らなければそのまま自分の席に戻っていたことだろう。友が抱える辛酸を自分のチャンスにして良いものか、虹生は一瞬躊躇うがドアを二回ノックしながら声を掛けた。
「まだ帰らないの?”エッちゃん”」
「あ……あ……委員会がさっき終わって……バスに置いてかれて……次のバス待ちで……」
ひとりでいた放課後に、虹生に突然声を掛けられたことは、恵風には不意打ちだったらしい。しどろもどろに答える様に笑い上戸の虹生はニッコリしないはずがなかった。
「オレは旺汰待ちだよ ソッチ行ってもいい?」
断る理由のない恵風は笑って頷いたが、瑞月と疎遠になりその代わりのように現れた瑞月の友だちに恵風は内心戸惑った。
「藤井は帰ったんだ」
昨日のことを見ていながら、何も知らない顔をして虹生は聞いた。
「……バイトじゃないかな」
「ねえ君もオレのこと名前で呼べば?ナナオでいいよ」
「じゃあ……ナナオくんクスッ」
夕日に照らされてる恵風の頬が、とてもやわらかそうに虹生の目に映る。
一緒に外を眺めながら横目で気付かれないようそっと、金に反射する産毛の頬に見入っていた。ボンヤリと窓の外を眺め、やがて独り言を呟くように空気に溶けそうな声で恵風が話す。
「約束を誰からも分かるようにしようとしたら、ナナオくんは何だと思う?ナナオくんは三島くんとの約束にしているものもう持ってる?」
恵風は早くから虹生と旺汰のことを瑞月から聞いて知っている。何のことでもない普通のことと受け取ってくれている恵風に、虹生も旺汰も心を開く準備は出来ていた。待ち構えていたと言ってもいいくらいだろう。
「”誰から見ても”……って難しいね」
「人の思いって空気と同じ見えないもので不安定で、だから大事な人には余計に言葉にして伝えなきゃって……それでも難しい時ってあるんだね……」
「……」
「わたしが一番に――はきっと ――なんだ」
”一番に分かっててほしいのは、きっとミズキなんだ” 虹生にそう聞こえた。
「おーーい」
「あ、お疲れ旺汰」
虹生と旺汰は、恵風が乗ったバスを見送った。
「藤井がしきりに”エッちゃんエッちゃん”言うのが分かった気がする」
「ふーーん」
「クス ナンだよ旺汰」
「……別に」
「ナンだよハッキリ言えよ! 分かった藤井は放ってオレたちだけでエッちゃんの所に行っちゃおうか」
ふたりがこの波をうまく越えられるといい。そう虹生は思った。
🌱
日を追うにつれ、どんどん萎れていく様は付近の者を震撼させ、友が元気付ける為にと放ったジョークに一生懸命笑おうとする姿は、見ていられないほど痛々しかった。
午後の全校集会では移動に気付かない瑞月を残し、三年生が彼を取り囲んだ事態となった。回収に向かった虹生はいつもなら腹をよじり笑っていたであろうが、この時ばかりはさすがに彼の沸点は計測不能にまでなった。
「大丈夫かな藤井」
「俺たちにはどうすることも出来ない 脱却するまで支えていよう」
「そうだね……」
心配してくれる友のためにも、いつまでも腐っててはいられない。
瑞月は心の耳を澄ました。
彼女は何に怒っているのか分かってる?
―分かってる
じゃあどうしたらいいかは?
―……
このままでいいの?
―……
だってなくしたくないんでしょう
―でもダメだったら?
もしもそうだったとしても このままでいいとお前は思ってる?
― 思ってない
見知らぬ誰かとの交信を済まし自身を奮い立たせ、瑞月は自分に区切りを付けようと決意する。最寄りの駅に到着したらそこで彼女に声を掛けよう。
無視されても逃げ出されても挫けない。後悔しないために絶対に諦めない。
自分から逃げてはいけない。善にも悪にも自分を助けるのは自分しかいない。
そして心の底から謝ろう。全て自分にしか出来ないことだ。無意識に作られた冷たい拳にチカラが入る。
さあ始まりだ――
「エッ… あれ」
最寄りの駅に到着して駅舎を出ると、恵風は急に走り出した。まさか自分の思考を読むことが出来るのか!?そんなはずはない。瑞月は焦る。
恵風がひとりで歩いてるだけでも、瑞月はいつも不安だった。
今恵風に何か起きたら、後悔しかない今の自分はもう生きて行くことが不可能だろう。恵風の後を瑞月は追う。
君が俺を許してくれなくても、君を守るのは俺の務め。
俺が死んでも君は死なない!
君は絶対に死なない!
俺は君さえ生きてれば大丈夫
君 の 中 で 俺 は 生 き 続 け る か ら !!
たった今自分の中から引き出した混じりけのない心こそが、彼女に受け取ってほしいものであると瑞月はやっと気付いた。
もっと君の中に入りたい って―― こういうことだったんだ……
「は……ははっ……そうなるにはどうしたらいいかな……今のままじゃ全然ダメダメだ……」
自業自得は分かっている。自分の浅はかぶりに涙がみるみる溢れ、その場にガクッとへたり込んだ。その間もなく、ぼやけた視界に見慣れたつま先が見えた。
他の誰にも見せられないけれど、特別なひとりには素直になれる不思議を知ってる。星の数ほどこの地上に人はいるのに、そんな相手に巡り会えた奇跡を絶対に手放したくない。宝のように大事にしなくてはならない。その宝物にはちゃんと意思があって、喋って怒って泣いたり時々叩いたりする。走ったり転んだり、自分をヒヤヒヤとさせたりもする。でも一緒に笑うだけでとっても幸せな気持ちになれる。
一緒に笑っていたい。ずっとずっと。守っていたい。誰の一番じゃなくて、自分の一番を。
誰かにとっては小さくても、自分にとってはただひとつだから。
「ミズキが っく……わ…わるっ……かった~~~」
「ミズキのバーカ」
自分の元には来てくれたけれど、名前を呼んでくれると思っていなかった瑞月は、それだけで感極まり次から次と溢れる涙で地面にポタポタと染みを作った。
数にすると僅かでも、果てが分からずただ苦しかったこの幾日。懐かしい顔に遠い日の記憶が蘇り重なる。
”ミズキ今日は何して遊ぶ?”自分の所に真っ先に来てくれるのは、昔から。
暗く重く苦しい長い時を過ごした。辛くて辛くて悲しかった。恵風は昔から恵風だ。自分の余計な思い込みなんて無駄でしかなかった。
瑞月は声を上げて泣いた。けれど自分だけになってはいけない。
自分の行いによって、恵風も辛い日々を過ごしていたのかもしれないのだから。瑞月は恵風の成敗を待った。
「わたしがミズキ以外の子、好きになるわけないでしょ なんで分かんないかなー」
「エッちゃん……!」
「でも難しいことだよね わたしが毎日ミズキミズキばっかり言っててもね、不安になる時ってやっぱりあると思うの わたしもきっとそう どうしたらいいかずっと考えてたけど……分かんなかった もしかしたらひとりで考えてるから分かんないのかなって……だからさ」
恵風は瑞月の視線を掬うように目の前にしゃがむ。
「一緒に考えようよ」
「エッちゃん……おっ俺……本当にごめん……」
「鼻水出てるよ」
鼻をかみ終わるのを静かに見ていた恵風と目が合い、瑞月はつられ頬が少しだけ緩み、数日続いた強ばりが魔法のように解けていくのを感じた。
「ミズキのこと許してくれるの?」
「んー……許さない」
「そ……そうだよね……」
「……でもわたしの大好きな人を当てたら許すかも いい?外したらもう口もきかないよ 分かった!? ホラ、言ってごらん 誰!?エッちゃんの好きな人!!」
そう言って笑った恵風を見て 瑞月はまた泣いた。
「 ミズキだよ 」
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自分の恋心を中心に様々な人の心の変化、思春期特有の感情が溢れていく。
果たして、神様の裏側にある悲しい過去とは。
人の恋心は、どうなるのだろうか。
全力でおせっかいさせていただきます。―私はツンで美形な先輩の食事係―
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<追記>
本作品は私がデビュー前に書いた新人賞投稿策を改訂したものです。
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