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二章 ムーンウォーク
004 祀り事
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西にまっすぐ行けば神社に着くわよ、と――アシはナルと同じくらい大雑把に道を教えてくれた。
氷太朗はその言葉を信じて、神足通で屋根から屋根に飛び移って神社を目指した。依然として不安を抱えながら――今、氷太朗の心の中には様々な不安が渦巻いている。その中でもとびきり大きな不安は、『果たして現世の神社と常夜の神社は同じものなのか』というものである。
もしもこの世界の『神社』が、氷太朗の知っている鳥居と社のある宗教的建物でなければ、探し当てることも辿り着く事も出来ない。そうなれば、氷太朗は現世に戻る手立てを失う事になる。それは考えうる中で最も悪いオチである。
神社を見つけられなかったらどうしよう――そんな事ばかり考えてしまう。
結果を述べるならば、それは杞憂であった。
すぐに見覚えのある『神社』に辿り着いた。
大きな鳥居。砂利の上に敷かれた石畳。麗しい水が流れる手水舎。立派な拝殿。煌びやかな夜店――どれも見覚えがあった。いや、見覚えなんてレベルではない。この神社を氷太朗は知っている。
そう。針姫町にある針姫大社に瓜二つなのだ。
まさか、と思った氷太朗は神社の正面に回り込み社号標を確認した。すると、そこには『針姫大社』ではなく『月夜神社』と書かれていた。すぐに、先程弥七が言ってた月夜菊須神という神様を祀っている神社であることを察した。
氷太朗は安心感と共に吹きだした汗をぐっと拭ってから、鳥居をくぐった。
月夜神社はツクヨ祭りの中心に位置しているらしく、大変な混雑を見せていた。境内には夜店も沢山開かれており、かなり賑わっている。氷太朗は人込みを掻き分けながら、ゆっくりと着実に前に進んだ。
最初、氷太朗は本殿に向かおうと思った。本殿に行けば宮司や巫女と言った神社のスタッフを捕まえられるから。しかし、その道中、一際大きな建物が目に入った。建物はレンガ造りの六階建てで、町で見たどの建物よりも立派な面持ちであった。
この建物が社務所である事を直観した氷太朗は、職員が大勢いることを期待し、恐る恐る建物に這入った。
建物の正面出入口を抜けると、だだっ広い空間にポツンとカウンターが置かれており、綺麗な女性が一人立っていた。受付嬢だろう。
氷太朗は受付嬢に近づく。が、言葉が出てこない。なんと言ったらいいかわからない。
言葉を選んでいると、女性は笑顔を顔に張り付けて「いかがなさいましたか?」と尋ねてきた。
「え、あ、えーっと……た、太三郎さんはいらっしゃいますか?」
「恐れ入りますが、お約束はいただいておりますか?」
「いえ……。でも橋姫のアシさんの紹介で……」
「少々お待ちください」
女性は丁寧に会釈をして、手元の受話器を耳にあてる。
「お客様がお見えです。……いえ、アポイントメントは無いそうで……ただ、アシ様のご紹介だとか……。ええ、はい。はい。わかりました」
静かに受話器を置くと、女性は「こちらです」と歩み出した。門前払いされなかった事に一先ず胸を撫で下ろした氷太朗は、その後ろを付いて行く。付いて行きながら――氷太朗は『太三郎』という人はどんな人なのか、と想像を膨らませた。アシの情報では『ジジイ』で『変態』で『狸』であるらしいが……。
そう言えば――氷太朗は、現世に『太三郎狸』という有名な妖怪がいることを思い出した。
太三郎狸は日本三名狸の一柱で、平安時代に平重盛に助けられたことから平家の守護を誓った守護神ならぬ守護狸である。もし今から会う人物がその太三郎狸ならば、大変な偉人である。その人物でなかったとしても、常夜の維持・管理を執り行う行政事務所の責任者となれば、大層なお偉いさんであると考えられる。受付嬢相手ですら言葉が詰まる氷太朗だ、そんな人物を前にスムーズに話せるだろうか。
緊張を高めつつ廊下を進み、階段を上ると、立派な扉の前で止まった。二メートル以上ある重厚な木製の両開き扉の前だ。女性はその扉にコンコンとノックをする。
すぐに「どーぞー」と言う声が返ってきた。
「失礼いたします」
女性はゆっくりと扉を開くと、部屋には這入らず、一歩引いた。
最初、氷太朗だけが部屋に這入れという合図だと思った。しかし、すぐに違うとわかった――扉を開けた瞬間、熱気と酒臭さと騒々しさが一気に噴き出してきた。それもそのはずである。部屋の中は酒瓶と酔っ払いが舞う大宴会場だったのだから。
女性はこんな空間に足を踏み入れたくなかったのだ。その証拠に、氷太朗は気圧されながらゆっくりと部屋に這入ると、女性はすぐに扉を閉めて去った。
三〇畳は超える大広間には人が沢山居た。何故か天井にへばりついている人、フローリングなのに座布団も敷かずに正座をしている人、大事そうに酒瓶を抱えて座り込んでいる人、何故か地団駄を踏む人。その他大勢居た。シラフな人は居ないようだ。氷太朗の登場に気が付いている人もいない。皆、宴に夢中である。
「た、太三郎さーん」
どの酔っ払いが太三郎なのかわからなかった氷太朗は取り敢えず呼んでみると、すぐ足元で転がっていた初老の男性が「奴ァあそこだよ」と窓際を指した――見てみると、窓際には、一人夜空を見上げる人物が居た。だが、その人物は氷太朗が思い描いていた『太三郎像』からは大きく懸け離れていた。とても美しい少女なのだ。歳は一五歳くらいだろうか。雪のような白い肌に、稲穂のような黄金色の長髪。八頭身というモデル体型に、豊満な胸――恐らく、氷太朗が今まで出会った女性の中で最も美しい美少女だ。
狸にもジジイにも常夜維持管理行政事務所の責任者にも見えないその風貌。だが、たった今教えてくれた酔っ払いが嘘をついているようにも思えなかった。
少し考えてから、氷太朗は少女に近づいた。
すると、意外にも、少女の方から話しかけてきた。「美しいとは思わんかね?」
「はい……?」
「美しいと思わんのか、と訊いておるんじゃ」
何のことを言っているのかわからなったが――少女の視線を追ってみると、そこには月夜神社と、大勢の参拝客と、多くの夜店があった。確かに、それらからは人の営みや生命が感じられて美しかった。
「そうですね。とっても綺麗です」
「じゃろ? ガラスに映ったワシもキレイじゃな。やっぱこれに化けて正解じゃったわい」
「そっちですか」
「他に何がある?」
「………」
なるほど。美人に化けた狸だからアシは彼の事を『変態狸』と呼んだのか。
実物と事前情報の乖離の原因を理解した氷太朗は「ちょっとご相談したいことがあるんですが」と言いながら覗き込んだ。
ここで初めて目が合った太三郎は――直後、驚愕の色を浮かべた。
「お、お主! もっと近う寄れ!」
そして、顔をグッと近付けた。
またか、と思った。また美人に間違えられるパターンか、と。
だが、違った。
「お主、小輪か⁉」
「え――」
久しく聞いていなかった名前に、氷太朗は呆気にとられた。
「小輪じゃよな⁉ お主、あんなものをワシに押し付けておいて、自分はどこに行っとったんじゃ⁉ えぇ⁉ 千年も音信不通になりおって!」
「ちょちょちょ! ちょっと待ってください!」
話が猛スピードで違う方向に進み始めたことに気付いた氷太朗はワンテンポ遅れて否定した。「人違いをしてます!」
「しとらん! お主、鈴鹿姫のところの小輪じゃろ⁉」
「違います! 僕は坂之上氷太朗です!」
「坂之上? 坂之上じゃと⁉ まさか――小輪の子孫か⁉」
「そうです!」
「マジで⁉」
氷太朗と太三郎が指す小輪を説明するには、まず、その父である坂之上田村麻呂と、その母である鈴鹿御前を説明しなければならない。
坂上田村麻呂とは平安時代の大将軍だ。彼は幼少のころから滅法強く、その武勇から二八歳にして貴族となった。三九歳には征夷大将軍に任命され、朝廷と対立していた東日本『蝦夷』討伐の遠征に何度も成功した。まさに日本史の大英雄であり、軍神である。
対して鈴鹿御前は同時代に生きた鈴鹿山の大妖怪で、無類の腕っぷしと六神通で辺り一帯を守護するその姿から女神として信仰されていた。
そんな坂之上田村麻呂と鈴鹿御前はひょんな事から結ばれ、幸せな事に一人の娘を授かった――そう、その授かった子こそが、小輪である。
そして、小輪の子孫こそが、氷太朗と氷華なのだ。
「小輪は今、どうしてるんじゃ? まさか死んだのか?」
「小輪様は千年前に流行り病で亡くなったと聞いています」
「そうか……」
表情が少し暗くなる太三郎。
「美人が死ぬのはいつの世も悲しいのう……」
「そ、そうですね……」
「して、小輪の子孫とやらがワシに何の用じゃ?」
「あ、はい。僕は現世に住んでいたのですが、気付いたら常夜に居まして……なんとかして帰りたいのですが……御力を貸していただけませんか?」
「無理じゃな」
太三郎は一蹴した。
氷太朗は「何故です⁉」と反射的に返すと、「法律だからじゃ」と更に一蹴された。
「今はそうでもなくなったが、昔は一年に何人もの霊がこの常夜に迷い込んでのう――いちいち対処していたらキリがないんじゃ。じゃから、四〇〇年前に、迷い込んだ霊を見つけても無視をすることに決めたんじゃ」
「そ、そんなぁ……! なんとかなりませんか⁉」
「なんともならんのう、法律じゃから。違反したら二〇〇円以下の罰金に処される。ワシでも、な」
「軽っ……」
どう見ても軽犯罪の類だが――罪は罪だ。自分を家に帰すために法を破ってくれと言える程、氷太朗は身勝手には出来ていない。もっとも、だからと言って「はいそうですか」と受け入れられる程、諦めが良いわけでもない。
「じゃあ現世に帰る方法だけでも教えてください! 僕一人でやりますから」
「方法と言ってものう……。お前さん、小輪の子孫じゃから、当然妖術は使えるんじゃよな?」
「つ、使えません……」
「じゃあ方法は無いのう」
「そんなぁ……」
妖術の才能が無い事が人生のあらゆる局面で氷太朗を悪い方向に引っ張ってきたが――まさか、この期に及んで足を引っ張られるとは思わなかった。
臆病な事と言い、才能が無い事と言い――人の性分というのは、生霊になった程度では変わらないらしい。
「な、なんとかなりませんか⁉」
「無理じゃな。妖術以外に現世に通ずる術はない。諦めろ」
「諦めろって……」
現世に帰るのを諦めるという事は、即ち、死を受け入れるということだ。
友達も家族もいないこの世界で生きていく決意をするということだ。
そんなの――簡単に出来ることではない。
「僕は……どうしたら……」
途方もない無力感に打ちのめされた氷太朗はその場で頽れた。
流石に気の毒に思ったのか、太三郎はしゃがみこみ、彼の背中を摩った。
「小輪の忘れ形見よ。人の生とは『さよなら』の連続じゃ。その『さよなら』は大抵の場合、突然やって来る。『さよなら』を言う暇も無いくらい突然じゃ」
「だからって……すぐに心を整理することは出来ませんよ……」
「誰もすぐにとは言っておらん。時間はかかっても良いから、生きる決意をするんじゃ。ここで生きる決意を、な――じゃないと、死んだように生きる羽目になるぞ」
「………」
沈黙で返答をする。
太三郎も沈黙を以て背中を摩り続ける。摩り続けながら、掛ける言葉を探す――すると多三郎は外が騒がしくなっている事に気が付いた。
「ほれ、氷太朗。外を見てみぃ」
太三郎は無気力になった氷太朗を無理やり立たせ、窓の外を見せた。
外は、観光を終えた神籠が戻ってきた所であり、大層な賑わいを見せていた。
「これから神籠の中の月夜様が本殿に戻り、ご祈祷される。それが終われば、月夜様が割った樽酒を民に振る舞い、神社で大宴会を行う。どうじゃ? お前さんも参加せんか?」
「遠慮しておきます。僕、未成年なんで」
「お前さん、何歳じゃ?」
「一七歳です」
「じゃったら大丈夫じゃ。常夜は一五歳が成人じゃからな」
「いえ……本当に遠慮しておきます。そんな気分じゃないんで」
「いつまで終わった事を引き摺っておるんじゃ」
「さっき『時間をかけても良い』って言いましたよね?」
「ほれ! 嫌な事は飲んで忘れろ!」
先程の背中を摩っていた優しい手はどこへ行ったのやら――完全に吞兵衛モードになった太三郎は、何度か氷太朗の尻を叩く。
「皆の衆も! うかうかしてると後巡祭が始まってしまうぞ! さっさと準備に取り掛かれ!」
「へーい」
酒を注いでいた人も、出来上がって寝ていた人も、傍観者を気取っていた人も、次々と部屋を出る。
氷太朗の足は少しも進み出さない。当然だ。今さっき死亡宣告をされたところなのだから。寧ろ、気分的には、この抜け殻のような室内の空気の方がよっぽど肌に合う。だが、それは太三郎が許さないらしく、「ほれ行くぞ」とまた尻を叩かれた。
「……わかりました」
これ以上尻を叩かれるのも嫌なので、氷太朗は重い重い一歩を踏み出した。――けれども、すぐに踵を返すことになった。
「まさか……⁉」
視界の隅にとある少女の横顔が映ったからだ。
氷太朗は目を擦り、壁にへばり付く。そして、天眼通を宿る目を凝らす。
間違いない。
「酒月さん……⁉」
停車した神籠から出てきたのは――酒月美夜であった。
氷太朗はその言葉を信じて、神足通で屋根から屋根に飛び移って神社を目指した。依然として不安を抱えながら――今、氷太朗の心の中には様々な不安が渦巻いている。その中でもとびきり大きな不安は、『果たして現世の神社と常夜の神社は同じものなのか』というものである。
もしもこの世界の『神社』が、氷太朗の知っている鳥居と社のある宗教的建物でなければ、探し当てることも辿り着く事も出来ない。そうなれば、氷太朗は現世に戻る手立てを失う事になる。それは考えうる中で最も悪いオチである。
神社を見つけられなかったらどうしよう――そんな事ばかり考えてしまう。
結果を述べるならば、それは杞憂であった。
すぐに見覚えのある『神社』に辿り着いた。
大きな鳥居。砂利の上に敷かれた石畳。麗しい水が流れる手水舎。立派な拝殿。煌びやかな夜店――どれも見覚えがあった。いや、見覚えなんてレベルではない。この神社を氷太朗は知っている。
そう。針姫町にある針姫大社に瓜二つなのだ。
まさか、と思った氷太朗は神社の正面に回り込み社号標を確認した。すると、そこには『針姫大社』ではなく『月夜神社』と書かれていた。すぐに、先程弥七が言ってた月夜菊須神という神様を祀っている神社であることを察した。
氷太朗は安心感と共に吹きだした汗をぐっと拭ってから、鳥居をくぐった。
月夜神社はツクヨ祭りの中心に位置しているらしく、大変な混雑を見せていた。境内には夜店も沢山開かれており、かなり賑わっている。氷太朗は人込みを掻き分けながら、ゆっくりと着実に前に進んだ。
最初、氷太朗は本殿に向かおうと思った。本殿に行けば宮司や巫女と言った神社のスタッフを捕まえられるから。しかし、その道中、一際大きな建物が目に入った。建物はレンガ造りの六階建てで、町で見たどの建物よりも立派な面持ちであった。
この建物が社務所である事を直観した氷太朗は、職員が大勢いることを期待し、恐る恐る建物に這入った。
建物の正面出入口を抜けると、だだっ広い空間にポツンとカウンターが置かれており、綺麗な女性が一人立っていた。受付嬢だろう。
氷太朗は受付嬢に近づく。が、言葉が出てこない。なんと言ったらいいかわからない。
言葉を選んでいると、女性は笑顔を顔に張り付けて「いかがなさいましたか?」と尋ねてきた。
「え、あ、えーっと……た、太三郎さんはいらっしゃいますか?」
「恐れ入りますが、お約束はいただいておりますか?」
「いえ……。でも橋姫のアシさんの紹介で……」
「少々お待ちください」
女性は丁寧に会釈をして、手元の受話器を耳にあてる。
「お客様がお見えです。……いえ、アポイントメントは無いそうで……ただ、アシ様のご紹介だとか……。ええ、はい。はい。わかりました」
静かに受話器を置くと、女性は「こちらです」と歩み出した。門前払いされなかった事に一先ず胸を撫で下ろした氷太朗は、その後ろを付いて行く。付いて行きながら――氷太朗は『太三郎』という人はどんな人なのか、と想像を膨らませた。アシの情報では『ジジイ』で『変態』で『狸』であるらしいが……。
そう言えば――氷太朗は、現世に『太三郎狸』という有名な妖怪がいることを思い出した。
太三郎狸は日本三名狸の一柱で、平安時代に平重盛に助けられたことから平家の守護を誓った守護神ならぬ守護狸である。もし今から会う人物がその太三郎狸ならば、大変な偉人である。その人物でなかったとしても、常夜の維持・管理を執り行う行政事務所の責任者となれば、大層なお偉いさんであると考えられる。受付嬢相手ですら言葉が詰まる氷太朗だ、そんな人物を前にスムーズに話せるだろうか。
緊張を高めつつ廊下を進み、階段を上ると、立派な扉の前で止まった。二メートル以上ある重厚な木製の両開き扉の前だ。女性はその扉にコンコンとノックをする。
すぐに「どーぞー」と言う声が返ってきた。
「失礼いたします」
女性はゆっくりと扉を開くと、部屋には這入らず、一歩引いた。
最初、氷太朗だけが部屋に這入れという合図だと思った。しかし、すぐに違うとわかった――扉を開けた瞬間、熱気と酒臭さと騒々しさが一気に噴き出してきた。それもそのはずである。部屋の中は酒瓶と酔っ払いが舞う大宴会場だったのだから。
女性はこんな空間に足を踏み入れたくなかったのだ。その証拠に、氷太朗は気圧されながらゆっくりと部屋に這入ると、女性はすぐに扉を閉めて去った。
三〇畳は超える大広間には人が沢山居た。何故か天井にへばりついている人、フローリングなのに座布団も敷かずに正座をしている人、大事そうに酒瓶を抱えて座り込んでいる人、何故か地団駄を踏む人。その他大勢居た。シラフな人は居ないようだ。氷太朗の登場に気が付いている人もいない。皆、宴に夢中である。
「た、太三郎さーん」
どの酔っ払いが太三郎なのかわからなかった氷太朗は取り敢えず呼んでみると、すぐ足元で転がっていた初老の男性が「奴ァあそこだよ」と窓際を指した――見てみると、窓際には、一人夜空を見上げる人物が居た。だが、その人物は氷太朗が思い描いていた『太三郎像』からは大きく懸け離れていた。とても美しい少女なのだ。歳は一五歳くらいだろうか。雪のような白い肌に、稲穂のような黄金色の長髪。八頭身というモデル体型に、豊満な胸――恐らく、氷太朗が今まで出会った女性の中で最も美しい美少女だ。
狸にもジジイにも常夜維持管理行政事務所の責任者にも見えないその風貌。だが、たった今教えてくれた酔っ払いが嘘をついているようにも思えなかった。
少し考えてから、氷太朗は少女に近づいた。
すると、意外にも、少女の方から話しかけてきた。「美しいとは思わんかね?」
「はい……?」
「美しいと思わんのか、と訊いておるんじゃ」
何のことを言っているのかわからなったが――少女の視線を追ってみると、そこには月夜神社と、大勢の参拝客と、多くの夜店があった。確かに、それらからは人の営みや生命が感じられて美しかった。
「そうですね。とっても綺麗です」
「じゃろ? ガラスに映ったワシもキレイじゃな。やっぱこれに化けて正解じゃったわい」
「そっちですか」
「他に何がある?」
「………」
なるほど。美人に化けた狸だからアシは彼の事を『変態狸』と呼んだのか。
実物と事前情報の乖離の原因を理解した氷太朗は「ちょっとご相談したいことがあるんですが」と言いながら覗き込んだ。
ここで初めて目が合った太三郎は――直後、驚愕の色を浮かべた。
「お、お主! もっと近う寄れ!」
そして、顔をグッと近付けた。
またか、と思った。また美人に間違えられるパターンか、と。
だが、違った。
「お主、小輪か⁉」
「え――」
久しく聞いていなかった名前に、氷太朗は呆気にとられた。
「小輪じゃよな⁉ お主、あんなものをワシに押し付けておいて、自分はどこに行っとったんじゃ⁉ えぇ⁉ 千年も音信不通になりおって!」
「ちょちょちょ! ちょっと待ってください!」
話が猛スピードで違う方向に進み始めたことに気付いた氷太朗はワンテンポ遅れて否定した。「人違いをしてます!」
「しとらん! お主、鈴鹿姫のところの小輪じゃろ⁉」
「違います! 僕は坂之上氷太朗です!」
「坂之上? 坂之上じゃと⁉ まさか――小輪の子孫か⁉」
「そうです!」
「マジで⁉」
氷太朗と太三郎が指す小輪を説明するには、まず、その父である坂之上田村麻呂と、その母である鈴鹿御前を説明しなければならない。
坂上田村麻呂とは平安時代の大将軍だ。彼は幼少のころから滅法強く、その武勇から二八歳にして貴族となった。三九歳には征夷大将軍に任命され、朝廷と対立していた東日本『蝦夷』討伐の遠征に何度も成功した。まさに日本史の大英雄であり、軍神である。
対して鈴鹿御前は同時代に生きた鈴鹿山の大妖怪で、無類の腕っぷしと六神通で辺り一帯を守護するその姿から女神として信仰されていた。
そんな坂之上田村麻呂と鈴鹿御前はひょんな事から結ばれ、幸せな事に一人の娘を授かった――そう、その授かった子こそが、小輪である。
そして、小輪の子孫こそが、氷太朗と氷華なのだ。
「小輪は今、どうしてるんじゃ? まさか死んだのか?」
「小輪様は千年前に流行り病で亡くなったと聞いています」
「そうか……」
表情が少し暗くなる太三郎。
「美人が死ぬのはいつの世も悲しいのう……」
「そ、そうですね……」
「して、小輪の子孫とやらがワシに何の用じゃ?」
「あ、はい。僕は現世に住んでいたのですが、気付いたら常夜に居まして……なんとかして帰りたいのですが……御力を貸していただけませんか?」
「無理じゃな」
太三郎は一蹴した。
氷太朗は「何故です⁉」と反射的に返すと、「法律だからじゃ」と更に一蹴された。
「今はそうでもなくなったが、昔は一年に何人もの霊がこの常夜に迷い込んでのう――いちいち対処していたらキリがないんじゃ。じゃから、四〇〇年前に、迷い込んだ霊を見つけても無視をすることに決めたんじゃ」
「そ、そんなぁ……! なんとかなりませんか⁉」
「なんともならんのう、法律じゃから。違反したら二〇〇円以下の罰金に処される。ワシでも、な」
「軽っ……」
どう見ても軽犯罪の類だが――罪は罪だ。自分を家に帰すために法を破ってくれと言える程、氷太朗は身勝手には出来ていない。もっとも、だからと言って「はいそうですか」と受け入れられる程、諦めが良いわけでもない。
「じゃあ現世に帰る方法だけでも教えてください! 僕一人でやりますから」
「方法と言ってものう……。お前さん、小輪の子孫じゃから、当然妖術は使えるんじゃよな?」
「つ、使えません……」
「じゃあ方法は無いのう」
「そんなぁ……」
妖術の才能が無い事が人生のあらゆる局面で氷太朗を悪い方向に引っ張ってきたが――まさか、この期に及んで足を引っ張られるとは思わなかった。
臆病な事と言い、才能が無い事と言い――人の性分というのは、生霊になった程度では変わらないらしい。
「な、なんとかなりませんか⁉」
「無理じゃな。妖術以外に現世に通ずる術はない。諦めろ」
「諦めろって……」
現世に帰るのを諦めるという事は、即ち、死を受け入れるということだ。
友達も家族もいないこの世界で生きていく決意をするということだ。
そんなの――簡単に出来ることではない。
「僕は……どうしたら……」
途方もない無力感に打ちのめされた氷太朗はその場で頽れた。
流石に気の毒に思ったのか、太三郎はしゃがみこみ、彼の背中を摩った。
「小輪の忘れ形見よ。人の生とは『さよなら』の連続じゃ。その『さよなら』は大抵の場合、突然やって来る。『さよなら』を言う暇も無いくらい突然じゃ」
「だからって……すぐに心を整理することは出来ませんよ……」
「誰もすぐにとは言っておらん。時間はかかっても良いから、生きる決意をするんじゃ。ここで生きる決意を、な――じゃないと、死んだように生きる羽目になるぞ」
「………」
沈黙で返答をする。
太三郎も沈黙を以て背中を摩り続ける。摩り続けながら、掛ける言葉を探す――すると多三郎は外が騒がしくなっている事に気が付いた。
「ほれ、氷太朗。外を見てみぃ」
太三郎は無気力になった氷太朗を無理やり立たせ、窓の外を見せた。
外は、観光を終えた神籠が戻ってきた所であり、大層な賑わいを見せていた。
「これから神籠の中の月夜様が本殿に戻り、ご祈祷される。それが終われば、月夜様が割った樽酒を民に振る舞い、神社で大宴会を行う。どうじゃ? お前さんも参加せんか?」
「遠慮しておきます。僕、未成年なんで」
「お前さん、何歳じゃ?」
「一七歳です」
「じゃったら大丈夫じゃ。常夜は一五歳が成人じゃからな」
「いえ……本当に遠慮しておきます。そんな気分じゃないんで」
「いつまで終わった事を引き摺っておるんじゃ」
「さっき『時間をかけても良い』って言いましたよね?」
「ほれ! 嫌な事は飲んで忘れろ!」
先程の背中を摩っていた優しい手はどこへ行ったのやら――完全に吞兵衛モードになった太三郎は、何度か氷太朗の尻を叩く。
「皆の衆も! うかうかしてると後巡祭が始まってしまうぞ! さっさと準備に取り掛かれ!」
「へーい」
酒を注いでいた人も、出来上がって寝ていた人も、傍観者を気取っていた人も、次々と部屋を出る。
氷太朗の足は少しも進み出さない。当然だ。今さっき死亡宣告をされたところなのだから。寧ろ、気分的には、この抜け殻のような室内の空気の方がよっぽど肌に合う。だが、それは太三郎が許さないらしく、「ほれ行くぞ」とまた尻を叩かれた。
「……わかりました」
これ以上尻を叩かれるのも嫌なので、氷太朗は重い重い一歩を踏み出した。――けれども、すぐに踵を返すことになった。
「まさか……⁉」
視界の隅にとある少女の横顔が映ったからだ。
氷太朗は目を擦り、壁にへばり付く。そして、天眼通を宿る目を凝らす。
間違いない。
「酒月さん……⁉」
停車した神籠から出てきたのは――酒月美夜であった。
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