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1部 ヤギと奇跡の器
第10話 悪魔の誘惑 ※
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這々の体で階段を登るも、戸を閉める頃にはクタクタで、戸に寄り掛かったらそのままズルズルとへたり込んでしまった。
階段を登ってくる最中もずっとあらぬところがひきつれて痛かった。それは今も継続して脈打っており、その事実が僕の心を真っ黒に染め上げる。
練習なんてルイスの優しさだったんだ。ルイスにあんなことをさせてはダメなのに僕はあんな施しを……。
「ルイスは元来、貴殿に奉仕するための要員ではございません」
アシュレイの冷ややかな叱責が心を引き裂く。僕はあの時この言葉の意味を正確に理解していなかった。仕事の分担くらいにしか思っていなかったのだ。だけどルイスの兄、ルークが言っていた。訪問も、愛し合うことも、アシュレイが許可を出したと。
アシュレイは全部知った上で僕を咎めたのに。僕はルイスに甘えていた。そして自分の不甲斐なさを、どこか他人事のように感じていたのだ。
昨日今日と務めは果たしていない。
自分だけでできるようにならなければならない。だからといってこの昂りを、今の感情のまま吐き出すことは罪悪を感じる。
そう感じているのに手が自分の昂りに伸びていく。心の中がぐちゃぐちゃで正常な判断ができない。
ルイスは綺麗だった。2人の愛を小さな体で震えながら受け止めて。そんな綺麗な愛に、人の愛し合っている姿に、昂っている自分が恥ずかしい。
伸ばそうとした手をギュッと握って地面に落とす。
さっきから心臓がうるさいくらいに鳴って、とても息苦しい。上を向いて何か違うことを考えようと、自分の呼吸を数え始めた。
「ノア、具合でも悪いのか?」
唐突に窓の外から投げかけられた声に、戸を鳴らすほどのけぞってしまう。
「なんで僕の名前を……」
僕はあなたの名前すら知らないのに。咄嗟に出た言葉はそんなどうでもいいことだった。不敵に笑う顔を見て、今度魔人に遭遇したらルイスを呼ぶように言われたことを思い出す。しかし今、彼を呼びにいくのは酷すぎる。さっきからまた、動物のような声が階下から聞こえてくるのだ。
「どうした? 立てないのか?」
「い、いえ」
僕は立ち上がり、ベッドの隙間に隠してあったパンの包みを持って窓際に歩いた。
「またパンをくれるのか?」
「はい、でももうここに来てはなりません」
「なぜだ?」
「きっと捕らえられてしまうでしょう」
「ルイスにそう言われたのか?」
「いいえ、いいえ。ルイスは僕を心配して言ってくれているのです」
「なら、お前が黙っておけばいいではないか」
「これ以上、ルイスに迷惑がかかることは……したくないんです……」
「そうか。これから腹を空かせたら、お前のように草を食むとしよう……」
幽霊はパンを取り上げて、包みの布だけを僕に手渡そうとした。その先の寂しそうな視線に耐えきれず、包みを受け取る時に聞こえるか聞こえないかの声で呟く。
「見つからないように……パンをもらいに来てください……誰にも言いません……」
幽霊の表情がパッと明るくなる。相当ひもじい思いをしているのだろう。僕が言い終わるや否や小さなパンをペロリと平らげた。
今日は風がないから窓際に立つと階下のルイスの声がよく響く。また腰の奥がじんわり熱くなり、人の行為に昂ることが恥ずかしくて俯いた。
「なにを恥ずかしがっているのだ。さっきへたり込んでいたのは、あれを見たからか?」
言い当てられてさらに恥ずかしくなる。鎮まったと思った鼓動が暴れ出し、下半身がひきつれた。
「確かにルイス兄弟の愛は常軌を逸してるな。よくもまあ飽きずに愛し合えるものだ」
「いいえ、いいえ。ルイスはとても綺麗でした」
「なんだ、お前はあんな風にされたいのか?」
幽霊はいつも思ってもみない言葉で僕の欲望を掻き立てる。我慢をしなければと思うのに、息が上がって呼吸が浅くなった。
「なかなか人の愛し合っている様を見る機会もないからな。知れていい機会だったではないか。今度はお前の意中の男に抱かれる想像をして責務を果たせばよい」
「そんなこと……ダメです……」
「なぜだ?」
「お互いが愛し合っていなければ……!」
「お前はなにか勘違いしているようだが、人を愛することに制限はないぞ。むしろどんなに嫌われても愛し続けることの方が難しい」
「そんな……」
「愛されるより、愛する方が難しく、尊い」
まったくの正論を言われ、僕は黙ってしまう。しかしこの罪悪感に許しを与えられたようで、僕は腰の奥から這い上がる感覚に息切れしていた。
「もう少しこっちへこい」
助けて欲しい一心で僕は鉄格子に吸い込まれていく。
「ここからは見えない。今したいようにしてみろ。目を瞑って、お前がもう一度触れて欲しいと思うやつを思い浮かべるんだ」
僕はうるさい鼓動の合間から聞こえる声に確信する。
「はっ……あぁ……やっぱり……悪魔……なんですね……」
「違うよ、ノア……目をとじなさい……」
さっきまでの傍若無人さが消え、ルイスのような優しい声色で悪魔がささやく。
悪魔は鉄格子の間から手を伸ばし、僕の頬を優しく包む。その幸福感に耐えきれず目を閉じた。
「いい子だ、ノア。さっき伸ばせなかった手を思うところに当てなさい」
抗うことなどできなかった。僕はさっきからひきつれて痛みさえ感じる自分の体の中心を服の上から握った。次に命令されなくても手は勝手に上下に動く。
「そうだ……名前を呼んでみなさい……誰にも咎められない……」
「いいえ……いいえ……僕は卑しい人間です……」
「人は皆、卑しい……名前を呼んでおくれ……ノア……」
まるで彼にそう言われているみたいだった。ルークもジルも、ルイスに名を呼んで欲しいとねだっていた。そう思うと心臓あたりがぎゅうっと痛み、目頭が熱くなる。
「アシュリー……」
「そうだ、ノア……もう少しだから……もっと名前を呼んで……」
「はっ……あぁ……アシュリー……アシュリー……」
何度目かにその名を口にした時、僕はまた恐怖の中に飲み込まれ、目の前が真っ白になった。悪魔は僕の頬から手を離し、閉じた目に薄ら溜まった涙を拭ってくれる。
恥ずかしさからしばらく目を開けられなかったが、涙を拭ってくれたお礼を言おうと見開くと、眼下の湖面だけが輝いて、すでに悪魔の姿はなかった。
そしてこの時、痛感したのだ。僕は孤独だと。
階段を登ってくる最中もずっとあらぬところがひきつれて痛かった。それは今も継続して脈打っており、その事実が僕の心を真っ黒に染め上げる。
練習なんてルイスの優しさだったんだ。ルイスにあんなことをさせてはダメなのに僕はあんな施しを……。
「ルイスは元来、貴殿に奉仕するための要員ではございません」
アシュレイの冷ややかな叱責が心を引き裂く。僕はあの時この言葉の意味を正確に理解していなかった。仕事の分担くらいにしか思っていなかったのだ。だけどルイスの兄、ルークが言っていた。訪問も、愛し合うことも、アシュレイが許可を出したと。
アシュレイは全部知った上で僕を咎めたのに。僕はルイスに甘えていた。そして自分の不甲斐なさを、どこか他人事のように感じていたのだ。
昨日今日と務めは果たしていない。
自分だけでできるようにならなければならない。だからといってこの昂りを、今の感情のまま吐き出すことは罪悪を感じる。
そう感じているのに手が自分の昂りに伸びていく。心の中がぐちゃぐちゃで正常な判断ができない。
ルイスは綺麗だった。2人の愛を小さな体で震えながら受け止めて。そんな綺麗な愛に、人の愛し合っている姿に、昂っている自分が恥ずかしい。
伸ばそうとした手をギュッと握って地面に落とす。
さっきから心臓がうるさいくらいに鳴って、とても息苦しい。上を向いて何か違うことを考えようと、自分の呼吸を数え始めた。
「ノア、具合でも悪いのか?」
唐突に窓の外から投げかけられた声に、戸を鳴らすほどのけぞってしまう。
「なんで僕の名前を……」
僕はあなたの名前すら知らないのに。咄嗟に出た言葉はそんなどうでもいいことだった。不敵に笑う顔を見て、今度魔人に遭遇したらルイスを呼ぶように言われたことを思い出す。しかし今、彼を呼びにいくのは酷すぎる。さっきからまた、動物のような声が階下から聞こえてくるのだ。
「どうした? 立てないのか?」
「い、いえ」
僕は立ち上がり、ベッドの隙間に隠してあったパンの包みを持って窓際に歩いた。
「またパンをくれるのか?」
「はい、でももうここに来てはなりません」
「なぜだ?」
「きっと捕らえられてしまうでしょう」
「ルイスにそう言われたのか?」
「いいえ、いいえ。ルイスは僕を心配して言ってくれているのです」
「なら、お前が黙っておけばいいではないか」
「これ以上、ルイスに迷惑がかかることは……したくないんです……」
「そうか。これから腹を空かせたら、お前のように草を食むとしよう……」
幽霊はパンを取り上げて、包みの布だけを僕に手渡そうとした。その先の寂しそうな視線に耐えきれず、包みを受け取る時に聞こえるか聞こえないかの声で呟く。
「見つからないように……パンをもらいに来てください……誰にも言いません……」
幽霊の表情がパッと明るくなる。相当ひもじい思いをしているのだろう。僕が言い終わるや否や小さなパンをペロリと平らげた。
今日は風がないから窓際に立つと階下のルイスの声がよく響く。また腰の奥がじんわり熱くなり、人の行為に昂ることが恥ずかしくて俯いた。
「なにを恥ずかしがっているのだ。さっきへたり込んでいたのは、あれを見たからか?」
言い当てられてさらに恥ずかしくなる。鎮まったと思った鼓動が暴れ出し、下半身がひきつれた。
「確かにルイス兄弟の愛は常軌を逸してるな。よくもまあ飽きずに愛し合えるものだ」
「いいえ、いいえ。ルイスはとても綺麗でした」
「なんだ、お前はあんな風にされたいのか?」
幽霊はいつも思ってもみない言葉で僕の欲望を掻き立てる。我慢をしなければと思うのに、息が上がって呼吸が浅くなった。
「なかなか人の愛し合っている様を見る機会もないからな。知れていい機会だったではないか。今度はお前の意中の男に抱かれる想像をして責務を果たせばよい」
「そんなこと……ダメです……」
「なぜだ?」
「お互いが愛し合っていなければ……!」
「お前はなにか勘違いしているようだが、人を愛することに制限はないぞ。むしろどんなに嫌われても愛し続けることの方が難しい」
「そんな……」
「愛されるより、愛する方が難しく、尊い」
まったくの正論を言われ、僕は黙ってしまう。しかしこの罪悪感に許しを与えられたようで、僕は腰の奥から這い上がる感覚に息切れしていた。
「もう少しこっちへこい」
助けて欲しい一心で僕は鉄格子に吸い込まれていく。
「ここからは見えない。今したいようにしてみろ。目を瞑って、お前がもう一度触れて欲しいと思うやつを思い浮かべるんだ」
僕はうるさい鼓動の合間から聞こえる声に確信する。
「はっ……あぁ……やっぱり……悪魔……なんですね……」
「違うよ、ノア……目をとじなさい……」
さっきまでの傍若無人さが消え、ルイスのような優しい声色で悪魔がささやく。
悪魔は鉄格子の間から手を伸ばし、僕の頬を優しく包む。その幸福感に耐えきれず目を閉じた。
「いい子だ、ノア。さっき伸ばせなかった手を思うところに当てなさい」
抗うことなどできなかった。僕はさっきからひきつれて痛みさえ感じる自分の体の中心を服の上から握った。次に命令されなくても手は勝手に上下に動く。
「そうだ……名前を呼んでみなさい……誰にも咎められない……」
「いいえ……いいえ……僕は卑しい人間です……」
「人は皆、卑しい……名前を呼んでおくれ……ノア……」
まるで彼にそう言われているみたいだった。ルークもジルも、ルイスに名を呼んで欲しいとねだっていた。そう思うと心臓あたりがぎゅうっと痛み、目頭が熱くなる。
「アシュリー……」
「そうだ、ノア……もう少しだから……もっと名前を呼んで……」
「はっ……あぁ……アシュリー……アシュリー……」
何度目かにその名を口にした時、僕はまた恐怖の中に飲み込まれ、目の前が真っ白になった。悪魔は僕の頬から手を離し、閉じた目に薄ら溜まった涙を拭ってくれる。
恥ずかしさからしばらく目を開けられなかったが、涙を拭ってくれたお礼を言おうと見開くと、眼下の湖面だけが輝いて、すでに悪魔の姿はなかった。
そしてこの時、痛感したのだ。僕は孤独だと。
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