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本編

第2話 どうせわかってくれない

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俺という人生からの退場者は多い。

ことの発端は父親の蒸発だった。父アルファ、母オメガの家庭にとって、父が蒸発するということはつまり、母は満たされない体で生き続けなければならないことを意味する。

バース性。その言葉で思い出すのは、母の匂い。父の蒸発を機に精神を蝕まれていった母は、俺が中学校から帰ってきたら、首を吊っていた。ついでにかわいがっていた犬も逃げ出し、葬儀からずっと俺を支えてくれた母方の祖父は、高校卒業を見届けてこの世を去った。

彼らは大きな宿命を残し、俺の人生から退場した。これからさまざまな困難に天涯孤独で挑み続ける、そう感じるたびに思い出すのだ。

秋の雲ひとつない青空、乾いた空気に、母が吊された部屋。そしてむせ返るような、発情期特有の雌の匂い──。




「新名さん、打ち合わせの資料、共有フォルダに入れたいのですが、権限がないようで……」

会社特有の静かなのに騒がしい雑音の中に、少し高い声が響いた。

「ああ、今招待し……」

 女性の契約社員に答えた時、甘い匂いが鼻の奥を刺激する。普段表情に出さないようにしているのだが、これだけはどうしても慣れずに、顔がひきつってしまう。

「あ……すみません……共有の招待はあとでもいいのでお願いいたします」

契約社員は俺の表情を汲みとり、足早に去っていく。それを目で追うと、契約社員は女性社員の輪に入りヒソヒソと話しはじめた。きっと俺をフェロモンセンサーとバカにしているに違いない。以前、給湯室で彼女たちが俺をそう呼んでいたのを聞いたことがある。

オメガという性を持つ者は、一昔前よりさらに希少になった。以前は差別的な階級として存在したそれも、バース性検査の向上により一気に情勢が変わった。

つい10年前まで、思春期にしか判別できなかったバース性が、出産前診断で可能となったのだ。その結果どうなったのか。

「今時あんな態度、許されないよね。時代錯誤も甚だしい。ああいう時代遅れな男は、オメガが悪いって言い出すから近寄らないほうがいいよ」

「アルファなんてちょっと賢いだけのレイプ魔じゃん、ほんと、気にしないでね」

契約社員を慰める女性社員たちが、ご丁寧にも聞こえる音量で話してくれる。その光景をどこか他人事でぼんやり眺めた。

出産前診断でバース性が判別できるようになってから、オメガの中絶率が格段に上がった。それはそうだろう。アルファ優遇社会が差別的な扱いをオメガに強いてきた。そんな運命を我が子に背負わせたくないと思う親心は理解ができないわけではない。

母も結果的に絶望して死んだのだ。それは母にだけに起きた悲劇ではない。もっと陰惨で目を背けたくなるような事故や事件はこの世の中に溢れかえっていた。




俺は頼まれた共有を設定して先ほど話しかけてきた契約社員にメッセージを送ろうとキーボードに指をのせた。なにも迷うことなんてないはずなのに、指が動かない。

──なにを書こうとしてるんだ……。

発情期中に発狂した母が自殺してから、その匂いがダメなんだ。君に欲情しているわけでも、軽蔑しているわけでもない──そんなことを言えるわけない。しかしそれよりももっと重い思考が俺の心に蓋をする。

──どうせ話したところで理解されない。

オメガの希少性が高まるほどに、それまでのアルファ優遇社会への風当たりが強くなった。掌を返しアルファの存在自体をまるで戦犯のように糾弾する者たち。かつてオメガの人権を蝕んだ罪をアルファが背負う。それは少子化が加速した世の責任転嫁でもあった。
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