林檎の蕾

八木反芻

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ご『“友だち”の有効活用/ふれる冬』

10 ツギハギな記憶の牢獄

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 落ち着いた色の赤い絨毯に、柔らかな照明が落とされたホテルの廊下を、サキはカギを握りしめながら走る。
(どこまで走ればいいんだろう)
 廊下は入り組んでいて迷路のよう。なんだか同じ場所をグルグル回っている気がしてサキは足を止めた。
 息を整えている間、足元の赤い絨毯を見ていたサキ。
(あれ? そういえばここって……)
 サキは顔をあげる。見覚えのある廊下に、ふと横の部屋が気になった。部屋の番号を確認したサキの胸が高鳴りはじめた。
(……はやく戻らないと)
 サキは首を振って先へ進もうとしたが、どうしても気になってしまい、立ち止まったままジッと扉を見つめていた。

 ──ドサッ──

「ヒェッ!」
 サキは突然押し倒された。背中を打ったが痛くはなく、気づけばそこはベッドの上だった。
「捨てたいんだろ?」
 戸惑うサキに話しかけた人物は、倒れた体にまたがってこちらを見下ろしている。声は男性のようだったが、室内の照明を背にしているため、逆光で顔が見えない。
 目を細めるサキに、声の主はズイと顔を近づけた。
「アタシが手伝ってあげる」
 見覚えのある顔と聞き覚えのある声。
「紺ちゃん?」
 覆い被さる紺の髪が、顔をくすぐりサキは目をつぶった。
「ん……」
「あっと、ごめんね」と、紺は上体を起こす。
 そっと目を開けると、髪を束ねる仕草が見えた。その姿はやっぱりシルエットだったが、体の輪郭を縁取る光が紺の素肌を映し出した。
(わわわっ!)
 慌てて視線を外すサキに、紺はまた覆い被さる。
「そんじゃあ始めよっか」
「ままま待って!」
「もう待つことないでしょ? お互い準備万端なんだし」
 紺は目を背けるサキの無防備な髪をスルリと持ち上げ、毛先に軽くキスした。
「そんなに焦らさないで……」
 吐息混じりのしっとりとした声に、思わずチラリと視線を向けると、紺と目が合った。その鋭くも艶のある眼差しに、不覚にもドキッとしてしまう。
「でも……」
「じゃあそうやってずっと考えてなよ。アタシはアタシで好きにさせてもらうから」
 紺はサキの首筋に顔をうずめ、唇を這わせる。その唇から漏れる息や、濡れた舌先が肌に触れるたび、体がゾワゾワした。
(いいのかな……このまま……)
 顔を歪ませるサキは、ときおり苦しそうに小さく息をする。
「紺ちゃん、わたしね……」
 胸元に触れていた紺は顔を上げ、サキのぼんやりとした表情に誘われて、その薄く開いた唇に、ゆっくりと顔を近づける。
「ミャアオウ」
 サキはハッと目を見開いた。
 柔らかな黒い毛玉がサキの顔にのしかかっている。
「うんん~っ!」
 口に入った短い毛が、舌にへばりついて厭わしい。
 毛玉はピョンと跳ねてベッドから降りた。
「ミャン」
 サキは口をモゴモゴさせながら、ベッドの脇でクルクルと回る黒い子猫を睨んだ。
 紺は体を起こして、ベッドから降りるサキに「行くの?」と聞く。サキが振り向くと、紺はブレザーを着たいつもの姿になっていた。
「助けたい人がいるの。だから行くね」
 サキは部屋の入り口へ向かう子猫を追い、その後ろを紺はついていく。
 子猫は扉の前でチョンと座り、開くのを待つ。サキがドアレバーに手をかけたとき、フワリと抱きしめられた。
「行くなよ。ここにいればいいじゃん」
 子猫は「ミャオン」と鳴いて見上げた。向けられる丸い瞳をサキは見つめる。
「ここにいてよ」
 首に回された腕にグッと力が入った。
「紺ちゃん」
「勝手すぎるだろ! なにも言わずに出ていきやがって……! テメェのせいで今までどれだけ苦労したかわかってんのかよ!」
 サキの頭に顔をうずめる。
「寂しいんだ……いなくならないで……」
 その声は震えていた。
 サキはドアレバーから手を離す。今振り向いたらきっととどまってしまう。
「わたし、一つのことしか考えられないから……今は、紺ちゃんのそばにいてあげられない」
「……どうしても行かなきゃだめなの?」
「どうしても行きたいから」
 子猫は腰を上げ、サキはドアレバーを握る。
「起きたらもっともっといっぱい遊ぼうね!」
「……バカだな……ほんと……」
 呆れるように笑う声がして、抱きしめる腕の力がゆるんだ。

 サキは部屋の外にいた。扉を開けた記憶はない。
 子猫は赤い絨毯の上に座りながら、サキをじっと見て、大きく尻尾を振っている。
 迷ったサキはかがんで子猫に聞いてみることにした。
「ねぇ、部屋までの道って知ってる?」
「ミャーオ」と鳴いて走り出した子猫は、来た道を戻っていく。
「えっ! わたし通りすぎたのかな……」
 子猫はときおり立ち止まって、追いかけてくるサキを気にしながら走った。子猫が角をピョンと曲がると、一本道の廊下が現れた。その奥に緑の光が見える。
「あれだ!」
 サキは光を目掛けて一直線に走り、そのままの勢いで扉を押し開け飛び込んだ。

 この内臓が浮く感覚。

(あ、落ちる)

 ──ドブゥン……!──

 水しぶきが上がる。

 ──ゴポゴポゴポ……──

 深い青い色をした薄暗い視界の中で、気泡が上がっていくのが見えた。
 口の中から酸素が逃げているんだとわかったが、ここが海の中だと気づく前から呼吸はできていた。
 暗い海の中、体はどんどん沈んでいく。それでも不思議と怖さはなく、サキは目を閉じて、重力に身をまかせた。
 揺らめく青白い光がまぶたに映る。
 海の底から放たれる明るい光が、沈む体を照らす。
 底にフワリと足がつき、サキは目を開けた。
 足元には反転した水色の空が広がっていた。
 明るい空と暗い海は、ガラスのような透明なプレートで区切られている。湖に張った薄い氷の下に足をついて、逆さまに立っているよう。
 向こう側の空を覗いていると、プレートに4つの黒い足跡がついた。あの子猫の足跡だと気づいたが姿は見えない。
 サキはプレートに触れてみた。子猫はおそらく反対側にいる。
 足跡をツンツンするサキの真横を、巨大な瞳が通りすぎた。ヒレが8つ付いた青い体に、白い斑点模様。
(名前なんだっけ、ピラクルじゃなくて……)
 グルリと回って戻ってきた深海魚の、黄緑色した瞳と目が合う。瞳だけでもサキの体をゆうに超える大きさ。
 深海魚が泳ぐその先に、緑の光を見つけた。
(あそこだ)
 水の抵抗を受けながら、大股でゆっくりと進む。

 ──ピシッ……ピキピキッ……──

 サキは足元を見た。
 プレートに亀裂が入っている。

 ──ミシミシミシミシ──

 猫の足跡が走り出す。
 ひびはどんどん広がり、サキも急いで向かおうとしたとき、

 ──バッキン──

「ガフゥッ!」
 突然息ができなくなった。
 心拍数が急激に上がる。
 大きな裂け目から水が勢いよく放出され、混乱するサキの体は引きずり込まれそうになる。
 体を激しくバタつかせパニックに陥いるサキ。ひどく焦る瞳に突進してくる深海魚が映る。
 ヒレの形が鋭く、尾びれが二股にわかれている。
 深海魚は大きく口を開け、

 ──バクンッ──

 サキを食べた。
 深海魚は緑の光に向かって全速力で泳ぎ、その下の扉に突っ込んで豪快に破壊した。

 吐き飛ばされたサキは、顔から滑り込むように着地した。
 体を起こし、擦れた顔面を両手で覆うと、声援を送るたくさんの声と、一人の男性の声が聞こえてきた。
 どうやらここはライブハウスのようだ。
 エレキギターが鳴り、ボーカルの男性が合図をすると、シンバルがカウントを始めた。
「あっ!」
 サキは手のひらを見る。握っていたカギがない。
 ドッと汗が吹き出たサキは、コンクリートの床に這いつくばりながら、その場で飛び跳ねる人たちの足の合間を縫ってカギを探す。
 ステージの真下に、キラリと光る物が見えた。
 サキはぶつかる人たちに謝りながら前へ進む。
「あった~!」
 それを握りしめ、立ち上がったサキは気づく。
 ここにいる人たちは全員マネキンだった。客もミュージシャンも全員裸のマネキンで、さっきまで動いていたはずなのにフリーズしている。鳴り響いていた音楽も全く聴こえない。
「なんだかうちの犬に似ていてさぁ」
 サキの肩がビクリと跳ねる。
 ステージ上から話しかける声に、振り向くと、ド派手なメイクをした長髪の男性が、ステージの手前ギリギリでしゃがみ込んでサキを見ていた。
「……へ?」
「捨て犬でね、子犬だったんだよ。放っておけなくて連れて帰ったんだ。小学生の頃の話」
 戸惑うサキに手のひらを差し出す。
「アガる?」
 サラリと長髪を揺らした男性は、サキの手を掴み引っ張り上げる。
 男性の顔が近づく。素顔を隠すメイクをしていても、美人だとわかる顔立ち。
(キレイなひと……)
 サキはステージの上に立った。
 フロアを見下ろすと、マネキン軍団は消えていて、真正面に緑の光が見えた。扉がある。
「これ、探してたんでしょ?」
 男性の手のひらにはカギがあった。
「あれ?」
 サキは手を開く。握っていたのは瓶の王冠だった。
「これと交換ね」
 男性は王冠をとって、代わりにカギを乗せる。
「大切なものでしょ? もうなくさないように、しっかりしまっときな」
 カギを静かに見つめるサキは、つぶやくように言う。
「本当は、いらないお世話だって、気づいてるんです。もしかしたら嫌われてしまうかもしれない。それでもわたし、諦めきれなくて……」
「諦めが悪いって、悪いことなの? それだけ好きってことでしょ?」
 その言葉に、薄く開いた瞳が動く。
 カギを握りしめたサキは大きくうなずいた。
「あなたが思うその気持ち、まっしぐらに突っ走ればいいじゃないの」
 サキはステージから飛び降りた。
 男性はエレキギターを構え、マイクの前に立つ。
 フロアに声援が戻る。
 その真ん中をまっすぐ走るサキ。
 男性の声がスピーカーを通して聞こえてくる。
「それでは聴いてください……」
 サキは扉を開けた。

『Go back!』


「発車しまぁーす……」
 サキはバスの一番後ろの広い座席に座っていた。
 他に乗客はいなく、貸し切り状態のバスは街の中を走っている。
 前方のドアの上が緑色に光っているのが見え、サキはボタンを押した。

『つぎ、とまります』

 バスは停留所を通りすぎる。
「あれ?」
 すぐに次のバス停が見えて、もう一度押す。
 だけどバスは止まらない。
「なんで?」
 サキはボタンを押し続けたが、バスは止まってくれない。むしろ、連打するたびに加速しているような……。
 直接頼もうと、サキは仕方なく運転席へ向かう。
「すみません降りたい、ん、です……けど……」
 運転手は座席から落ちそうなほど浅く座り、グッタリとうつむいていた。その運転手の首元と、運転席の背後にある上部の棒の間に、ピンと突っ張られた紐がある。
 運転手不在で走り続けるバス。
 ドアの開閉スイッチを探していると、ふと、遠くの方に女の子が立っているのが見えた。
 いつの間にかバスは山道を走っていて、その道のど真ん中に女の子は立っている。
「危ない!」
 道幅は狭く、横は崖。対向車が来ないことを心から祈るほどすれ違うにはギリギリすぎる。
 女の子はバスが迫ってきても棒立ちで、こちらを真っ直ぐと見ている。
「まさか……」
 目前に迫る女の子の姿がハッキリと見え、目を見開いたサキは思い切りハンドルをきった。

 ──ゴリ! ゴリ! ゴガガギギギリギリギギリ!──

 バスはガードレールをこすりながら、火花を散らして走り続ける。
 衝撃で転んだサキは、手すりに掴まり立ち上がろうとするが、ガードレールにもたれかかるバスは傾き、体はドアの方へ滑り落ちそうになる。
 バスは横倒しになって、押し潰したガードレールを乗り越える。
 下は崖。
 体がフワッと浮いた。
 手すりを掴んでいた手が離れ、体はドアに向かって飛ばされる。
 全てがスローモーションに見えた。
(そういえば前にもこんなことあったなぁ……)
 ゆっくりまばたきすると、目の前を平然と横切る黒い子猫が現れた。
 ジャンプする子猫は運転手の頭をピョンと踏んづけ、運転席側の窓辺にある小さなレバーをバチンと叩いた。

 ──プシュー──

 ドアが開き、体は外へと放り出された。


 気がつくとまた暗闇の中で、地面に寝ころぶサキは、上から空気の壁で強く押し付けられているような感覚に襲われていた。
 重苦しい嫌な圧迫感から逃れようと、体を起こそうとした。
 動かない。
 どんなに動かそうとしても、指先さえも全く動かない。
 硬直する体に焦り始めたサキは、声も出せないことに気づいた。
 口はわずかに開くが、声が喉に引っかかって上手く発することができない。
 不安感と恐怖に襲われるサキの心臓はバクバクと速まり、体を押し潰すような圧力はどんどん強くなる。
 サキは動かない体を必死に揺らし、喉の奥から声を絞り出すように精一杯叫ぶ。

(うわああああああ!!)

 声が出そうになったとき、サキはハッと目を見開いた。
 だが視界は変わらず暗い。
「夢……?」
 息を切らすサキは深呼吸しながら、辺りを探るようにキョロキョロと目を動かす。いつものただ暗いだけの空間とは違う気がして、胸の前で組んでいる両手をそっと伸ばしてみると、すぐにぶつかった。
「壁?」
 手のひらを這わせて確認すると、四方八方、壁に囲われていることがわかった。身動きが取れないほど狭い、人一人がピッタリと収まるサイズの壁の中にいる。
(どうしよう。出口がないなんて……)
 途端に息苦しさを感じはじめたサキは、必死に壁を叩いた。
「誰か! 誰か助けて! 誰か……!」
 速い心拍音が頭に響く中、サキの耳に、モゴモゴとした話し声が聞こえてきた。その声には抑揚がなく、誰かと話をしているというよりは、一人でぶつぶつとなにかを唱えているようで、その声とともに、一定のリズムを刻む音も鳴っている。

 ──ボン、ボン、ボン、ボン、ボン……──

 と響く低い音は、太鼓に似ていた。
 誰かが太鼓を叩きながら、わけのわからない言葉をぶつぶつと唱えている。
 それを聞き取ろうと、サキは耳を傾けた。
「……お経?」

 ──コンコン──

 突然のノック音にサキはびくつき目を丸くしていると、壁の外から「入ってます?」と声をかけられた。
「はっ入ってます!」
「出るまで、あと何分くらいかかりますかねぇ」
「今すぐ! 今すぐです!」
 そう答えると、緑色の光の線が現れ、目の前の壁を縁取った。
(そっか。これは壁じゃなくて、扉だったんだ!)
 今まで見てきた緑色より少し黄みがかっていたのが気になったが、サキは扉に手をついて押してみた。どこか引っかかっているのか、扉は固く、ギコギコとサビついた音が鳴るだけで開けられない。
「すみません! 開けてください!」
 サキは扉を叩いて助けを求めた。
「誰かいませんか! 誰かー!」
 どんなに大きく叫ぼうが、どれだけ強く叩こうが、誰も応えてはくれなかった。
 空気がヒヤリとした。
 触れた扉が冷たい。
「え?」
 吐き出した息が白く見えた。
 サキは身震いする。
 冷凍庫の中にいるような寒さだ。
 壁の隅に霜ができている。霜は徐々に範囲を広げていき、壁を覆おうとしている。
「どうしよう!」
 このままでは扉が凍結して、脱出がもっと困難になってしまう。
 サキは扉に向かって体を押し付けた。
「ふんんっ!」
 力を込めて、無理矢理押し開けようとする。
『頑張らなくてもいいんだよ』
 柔らかな声が聞こえた。その声の主はすぐそばにいるけど、姿は見えない。
『春が来たら氷が解けて、扉は自然と開くから』
「春は、いつ来るの?」
『わからないけれど、待っていればそのうち、春は来るから』
「待ってられない」
 凍りついていく扉を、力強く押すかじかんだ手は、赤く腫れ上がっている。凍えるほどの寒さに、霜は顔にまで侵食しはじめていた。
『ごめんね。その扉は、力では開かない』
「じゃあわたしは、来るかもわからない春を、ずっとここで待つの?」
『それしか方法はないんだ』
「……春なんて来ないよ」
 サキは扉から、そっと手を離した。
「わたしは、春が嫌い。春なんて来なければいいって思ってる」
『迎えに来る春は、優しいよ。来るまでゆっくり待とう』
「ここにいるかぎり、春は来ないってわかってるから……」
『この向こう側は、きっと恐ろしい。だからここにいた方が良いよ』
「ここにいたって同じでしょ……?」
『大丈夫。凍ってしまえばなにも感じなくなる』
 霜のついた顔、動けなくなっていく体、見つめる手のひら、感覚はもうない。
「わたしは、誰かに助けてほしかった。でも、助けてって言うのが怖かった」
 じんわりと目頭が熱くなる。
『大丈夫。すべて消える。来るまで待っていよう』
「来ないよ。誰も来ない。閉じこもっていたら、その姿は誰にも見えないから」
『そのままでいい』
「どこにいても、私が変わらないかぎり、私が望む春なんてやって来ない」
『やめようよ』
「だからわたしは、勇気を出して『助けて』って伝えた。ハルさんは、わたしの声を聞いてくれた。そして助けてくれた。何度も。今も助けられてる」
 目尻に溜まった涙は、凍らずに、頬を伝って流れ落ちる。
「……きっと、ハルさんは閉じ込められているんだ。わたしにはわからないなにかに。だから助けたい。一緒に外へ抜け出したい。思い過ごしでもいい。ただの夢でもいい」
『もうやめよう』
「教えてあげるよ。わたし、春よりもっと嫌いなものがあるんだ」
『もういい』
「もっと嫌いなのは、やれることがあるのに、なにもしないわたし。わたしが一番大っ嫌い!」
 サキは扉に向かって思い切り体当たりした。力一杯何度もぶつけていると、 周り一面を覆い尽くしていた氷が、ポタリポタリと解けはじめた。
『迷惑だ』
 滴り落ちる水はサキの顔を濡らし、大粒の涙と混ざり合って、底に溜まっていく。
 水の量はどんどん増え、耳のあたりまで浸かってしまった。
 氷は解けたのに、扉は開かない。
 扉に両手をついて必死に押していると、突然、視界の端を黒い影がシュルリと横切った。
(へっ?)
 サキは口をふさがれ、頭が水の中に引き込まれた。

 ──ジャバンッー!──

 水面が大きく揺れ、激しく水しぶきが上がる。
 サキはもがきながら、顔に張りつくなにかを引き剥がそうと掴んだ。
 それは手の形をしていた。
 サキはうっすらと目を開ける。顔を覆う黒い指の隙間から、水面に揺らめく黄色の光を見た。

 ──ゴボゴボゴボ……──
 
 見えない水の底から伸びる二本の黒い腕は、この体を沈めようとしている。
 サキは必死に手足を動かす。水面から出た指先が扉に触れた。

『……のせいだ』

 水面が揺れ、指がふっと離れる。
 サキは精一杯伸ばした手を扉に押し当てた。
(あったかい……?)
 黒い腕がサキの体に巻きつくと、素早く水中へ引き込んだ。その力はさっきよりも強く、いくら抵抗しても、体は扉からどんどん遠ざかっていく。
 サキは暗い水の底へ引き込まれながら、水面に映る光を見続けた。その光は赤い色へと変化していく。ユラユラ揺れる赤い光は、大きく広がっていき、まるで激しく燃える炎のよう。

『無理に開けようとしてはいけない』

 耳元で聞こえた。声の主がすぐ後ろにいる。
 振り向こうとしたとき、

 ──ガシャン──

 と音がして、激流が起きた。
 渦を巻いて流れるその激しさに、体は人形のようにグルングルンと振り回される。
 黒い腕がサキの体を抱きしめ口をふさいだ。

『さからったら痛い』

 下へ吸い込まれるほど、流れは速くなっていく。
 足がちぎれた。痛みはない。意識もハッキリしている。流されていく自分の足をサキは呆然と眺める。
 体はどんどんバラバラに切断され、なすすべもなく、水の底に吸い込まれていく。遅れてやってきたサキの眼球が、水の底で放つ緑色の光を捉えた。

 ──スポンッ!……──


 サキは勢いのあまり、つんのめって目の前のドアにベチャリと張りつくようにぶつかった。
「うぇ、酔った……」
 激しいめまいにサキは目元を覆う。
 ここは暗い公衆トイレの個室。
 照明が不規則に点滅していてわずらわしい。
 隣から咳き込む音がする。
 サキはうなだれながら、ドアの鍵を開ける。個室を出ると、男子トイレだとわかった。 
 サキは顔をしかめた。
 すごく寂れていて汚い。出てすぐ正面にある洗面台の鏡が割られていて、血のような色した汚れがついている。
 目を凝らして見ていると、閉まっているもう一つの個室から聞こえてくる咳き込む音が激しくなり、えずきはじめた。
 気味が悪く、サキは急いでトイレを出る。
 外はどしゃ降りの雨で、飛び出したサキは慌ててトイレの庇下へ戻った。ほんの一瞬なのに体はビショビショ。
「ひゃ~……」
 黒色の分厚い雲が空全体をスッポリと覆っていて、見える景色はどれも薄暗く灰色に染まっている。
「あっ」
 サキはポケットに手を突っ込んだ。
「よかった、あった」
 その手にはカギ。失くさないように、ポケットの奥深くにしまった。
 サキは辺りを見渡す。ここは見知らぬ公園。緑の光を探したいが、今までと比べて範囲が広すぎる。
 公園の出入口を見ていると、青い傘を差した、黒いスーツ姿の人が通りすぎていった。
 サキは迷ったが、その人の後をつけることにして、大雨の中、走って追いかけた。
 公園の横は片側三車線の大通りだった。自動車は一台もなく、降りしきる雨音だけが聞こえる。
 青い傘を差す人は歩道橋を上る。その背中を見上げるサキも、距離をとって上りはじめる。階段に水溜まりができていて滑りやすい。サキは手すりに掴まり、ときおり足元を見ながら上る。
 先に上り終えた青い傘の人は、道路の向こう側へスタスタと行ってしまう。距離が離れ焦るサキは、残りの段数を駆け足で上った。
 歩道橋の真ん中辺りで青い傘の人は、黒いワンピースを着た妊婦とすれ違う。その人は傘を差していなかったからサキは気になった。
 青い傘の人が立ち止まる。
 足を止めたサキと妊婦がすれ違い、サキは振り向く。
 妊婦は階段の手前で立ち止まり、下をじーっと見ている。
 突風が起きた。
「わっ!」
 顔を背けた視線の先に、飛ばされる傘。さっきまで青かった布が、黒く変色していた。
 サキはなびく髪を押さえながら、傘の人に目を向ける。
 その人は柵から身を乗り出し、鞄から取り出した白い紙の束を、歩道橋の上からばらまいた。
 風で舞うたくさんの白い紙が、サキの視界を遮る。
 驚くサキの足元に一枚落ちた。しゃがんで見るとそれは原稿用紙で、黒字でびっしりと書かれていたが、雨でにじんで一文字も読めなかった。
 サキが顔をあげると、その人はもういなくなっていた。振り向くとあの妊婦もいない。辺り一面に撒き散らされた原稿用紙とサキだけが取り残された。
 サキは立ち上がり、傘の人が身を乗り出した柵に近づいた。そこから下を覗こうとしたとき、黒いタクシーが歩道橋を渡った向こうの階段近くで止まっているのが見えた。しかも、行灯の色は緑。
 サキは急いで向かう。階段を下りる寸前、そのタクシーに乗り込む人を見た。
(傘の人!)
 ドアが閉まり、慌てて駆け下りるサキは足を踏み外した。
「ヒッ」
 手すりに掴まったが濡れた階段は滑りやすく、サキは尻餅をついてそのまま下まで滑り落ちた。
「なんでこうなるの……」
 尻をさすりながら起き上がる。
 タクシーはまだ、ハザードランプを点滅させて止まっている。空車と表示されていたが、運転手もいない。
 サキは「ふぅ」と息を整えて、タクシーに近づくと、後部座席側の窓ガラス越しに人影が見えた。
(ん?)
 前部に視線を移すが、やはり運転手はいない。客だけが乗っているタクシー。トイレにでも行っているのだろうか。
 夢とはいえ、勝手にドアを開けるのは気が引けて、サキは窓をノックする。「すみません」と声をかけたが、後部座席の奥に座る人影は微動だにしない。
 サキは今一度、タクシーの屋根の上で光っている色を確認する。
「……行くしかない」
 ドアノブに手をかけ思いきって開けた。が、そこに人はいなかった。
 不思議がるサキに「どちらまで?」と、運転手が話しかける。その声に驚いたサキは、戸惑いながらも「あの部屋まで……」と答えて乗り込んだ。
「ドア、閉めますね」
 運転手の声かけに、サキは開いたままのドアに目を向ける。
 ドアがゆっくりと動き出すと、まぶたを閉じるように、視界の周りが徐々に暗くなっていった。
 目はしっかりと開いているが、車内は闇に包まれていく。
 見えていた光は、とうとう一本の細い線になった。

「お忘れ物をなさいませんよう、お気をつけください」

 運転手がそう告げると、暗い視界の中央に残った地平線が、閉まるドアの音と共に消えた。


 ──バタン──




 相も変わらず、今日も真っ白な手紙と向き合う背中を見つめるサキは、背後から聞こえたその音に振り返る。
 サキは光の届かないその暗闇を眺めたが、なにもなく、首をかしげた。

(いつになったら出られるんだろう……)

 見慣れてしまったこの部屋に、サキは今日もたどり着く。
 そして、机に向かう見慣れた背中に近づき、何度見ても慣れない表情をする彼に、サキはいつもどおり挨拶をする。

「こんばんは、ハルさん」
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