林檎の蕾

八木反芻

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いち『時は金に換えろ』

8 小さな傘

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 外へ出るとサアサアと雨が降っていた。
 ホテルの前に停まっている空車のタクシーに乗り込む。一緒に乗るものだと思って、サキは奥の座席へ座ったものの、彼は乗らなかった。
 ホテルを出る前、フロントへ向かった彼がカードキーを返却しているところを見た。
(歩いて帰るのかな……?)
 サキがタクシーに乗る前、ハルは運転手となにかを話していて、それがなにかわかったのは、家に着いた時だった。
 ハルはタクシーから離れ、出発を促す。運転手がドアを閉めようとするのをサキは止めた。
「あ、待ってください!」
 急いでタクシーを降り、ハルの下へ駆け寄る。
「あの!」
 その時、左足を少し引きずるように歩いていることに気づいた。
「ハルさん……!」
 名前を呼ばれようやく立ち止まったハルは振り向く。
 サキは鞄から折りたたみ傘を取り出しハルに差し出した。
「あのこれ、使ってください」
「……結構だ」
「でも、濡れちゃいますよ」
「借りを作りたくない」
「……あげます!」
 驚いたのか、ハルは黙った。
「あげます。だから使ってください。捨ててもいいですから」
 少し強引にハルの胸元に押し付ける。
 その様子がさっきまでの泣き虫で気弱な女の子と違い、気後れしたハルは思わず傘を受け取った。
 せっかく渡せた傘を返される前にサキは素早く頭を下げ「今日はありがとうございました」と、お礼を言うと逃げるように待たせているタクシーまで走った。
 自分に向けられた感謝の言葉がハルには理解出来ず、遠ざかる背中を黙って見届けた。
 

 タクシーに揺られる少女の瞳ははれている。赤く、そしてさっぱりと澄んでいる。
 手首にはきつく縛られた痕がまだうっすらと残っていた。その痕にそっと触れると、胸がキュウと締め付けられたが、不思議と嫌な感覚ではなかった。感じたことのないおかしな感覚に身を委ねるようにまぶたを閉じると、あの人の顔が浮かんだ。手も指も唇も声も、思い返すと触れられた部分が熱くなった。
 苦しかったはずなのに、どこか清々しい気持ち。後悔もしたが(あの人に会えてよかった)そう思ってしまう自分がいる。

 サキはおもむろに目を開け、離れない感情を消すように視線を窓へ移す。タクシーから眺める景色はどれも滲んでいた。



『時は金に換えろ』おわり。
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