壬生狼の戦姫

天羽ヒフミ

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ニ股口に再び新政府軍が押し寄せたのは、四月二十三日午前四時ごろのことだった。
再び激しい銃撃戦となり、旧幕府軍は、あまりの連射に銃身が熱をもつと沢から汲み上げた水で冷やして、再び射撃を続けたという。

「鉄砲はまどろっこしいわね…!」

旧幕府軍に混じって戦う君菊は激しい戦闘の中、そう漏らした。
彼女にとっては直接斬りかかった方が速い。
だがこの銃撃をかい潜りりながら敵に斬りかかるのは不可能に近い。
今はまだ耐えるしかないと舌打ちをしながら鉄砲を撃ち続けた。

攻めあぐねた新政府軍はある奇襲に出た。
旧幕府軍兵士を浮き立たせるために、側面の山でラッパを鳴らし嬌声を上げさせたのだ。

背後からの攻撃を恐れた旧幕府軍兵士に動揺が走ったが、歳三はあのように派手に行動するのは旧幕府軍を撤退させるための策略であると諭し、さらに、「退くも者は斬る」と激励している。

陽動作戦を見破られた新政府軍の攻撃はなお続いたが、ニ股の台場が破れることはない。

新政府軍が台場の攻略を断念して撤退を開始したのは、実に三十五時間後の二十五日午前三時のことだった。

「なんとか撤退させましたね、君菊さん!」
「そうですね…流石に疲れた…」

興奮して話かける兵士に欠伸をかみ殺しながら返事をする君菊。
自分は剣で戦う方がいいなと思いながらかみ殺していた欠伸をした。
三十五時間も戦いながら睨み合っていたのである。
精神的にも疲れているというのは当然のことだった。

「元気がないですね、君菊さん」
「そりゃあ、もう若くはありませんからね…疲れは溜まりますよ…」

若い兵士に聞かれてそう答える君菊。歳三と同じく齢三十五だった。
その若い兵士は君菊は歳三の小姓であることしか知らない。
そのため、好意を寄せいていた。
歳を重ねるにつれて更に美人になっていく君菊。
男が何も思わないはずがないのである。

だが、それを許さない男が一人、ここには居る。

「よぉ。俺の許嫁に何か用か?」

土方歳三である。指揮を執りながらもきちんと周囲に目を光らせていたのである。
若い兵士の肩に腕を置くと、その嫉妬心を隠さずに言った。

「許嫁!?」
「知らなかったのか。俺、最初に言ったと思うんだが」

兵士は青ざめた顔をしている。
斬り殺されてもおかしくないことをしようとした。
自分の命は大丈夫だろうか──そう思った時だった。

「別にお前さん、まだあいつに何もしてねぇだろ。んなことで斬るかよ。次から気をつけてくれたら良い」

まるで兵士の心を読んだかのように歳三はそう言った。
歳三の口調はとても優しいものだった。
その口調は戦時中、「退く者は斬る」と言った時とはまるで違うもので兵士は驚きを隠せなかった。

歳三は自ら酒樽を片手に格胸壁をまわり、大激戦に耐えた兵士たちを労った。

「あら。歳三があんなことしてるだなんて…明日は大雪かしら」

兵士たちを労っている様子を見て君菊は目を点にして見ていた。
あのような歳三を見るのは生まれて初めてだ。
誰かに自ら進んで優しくあろうとする姿などこれまで君菊は見たことがない。
それだけ自らの最期を覚悟しているということがわかることでもあった。

「大雪なんて降るかよ馬鹿」

一通り兵士に酒を振る舞ってきた歳三が君菊の言葉が聞こえていたのかそう言った。
君菊は「馬鹿とは何よ」と反論する。

「あれだけ耐えてもらったんだから、これくらいして当然だろ」
「へぇ…どの口が言うんだか」
「何か言いたいことでもあるのか」
「別に。なーんにもございません」

この男は自分がどれだけ乱暴者だったのを忘れたのかということを言うのを君菊は我慢した。
周りには兵士がいる。誰が聞いているかわかったものではない。
今の歳三からもらった酒を飲み、また戦おうとしている。
その気概を奪いたくはなかったのだ。

「なんか含みのある言い方だな」
「自分の記憶をよく探ってみることね」

そう言ってその場を後にする君菊。
兵士と歳三の交流の邪魔をしたくはなかったのである。

二度の新政府軍の攻撃を撤退した難攻不落の台場だったが、二十九日になって撤退命令が下がる。
新政府軍が海岸線を走る松前口の矢不来台場を突破し、有川まで進んだことから、ニ股口台場の背後が遮断され、そして孤立する恐れが出たからだ。

新政府軍に制海権を握られた結果だった。
開陽を失った影響はやはり大きいものだった。



五月十日夜。
新政府軍による箱館総攻撃を翌日に控え、旧幕府軍幹部は武蔵野楼という妓楼で別れの杯を交わしていた。
君菊もこれに参加している。主にお酌をするためだ。
ここにも君菊の美貌に惹かれ、上等な着物に着替えさせた妓女が居た。
君菊は京都でもこのようなことがあったな、と以前のことを少し思い出していた。

「おお!君菊くん、美人じゃないか!」
「大鳥さん、声が大きいですよ…」

久しぶりの女装姿だった。刀も持ってきているが、妓女に預けている。
蒼い絹地に桜の模様が入った着物を着せられていた。
頭には歳三から貰った菊の簪が刺さっている。
そのことに気がついた歳三は、気が良くなった。

「お酌頼めるか?」
「仕方ないから良いわよ」
「態度…」
「あら。お酌しなくていいの?」
「してください」
「いきなり敬語になってどうしたのよ」

そう言いながら君菊は歳三にお酌をした。
大鳥はその姿を見ながら、絵になる二人だと思った。
一人は美男子、一人は傾国。
これ以上ないほど似合わない二人だ。
それは他にいた幹部全員が思っていることだった。

「大鳥さん。どうぞ」
「あ、あぁ。すまないね」

いつの間にか傾国と思えるほどの美女は大鳥の隣に座っていた。
歳三と変わることなくお酌をしてくれている。
彼女にとって歳三にお酌することは、特別なことのようではなかった。

「許嫁だと聞いたけど、その割にはなんだかそうは見えないね」
「あぁ…そうかもしれないですね」
「他にも何かあるのかい?」
「許嫁の前に、幼馴染なんですよ」
「そうなんだ!そりゃ、距離が近いわけだ」
「そんなに近いですか?」
「うん。そう見える」

美味しそうに酒を飲む大鳥。
やはり美女からお酌された酒は味が違うらしい。

「ずっと君を許嫁のままにしとくとは、なんだか土方くんらしいね」
「そうですよね。それについては私も同意です」
「不満はないのかい?」
「あったらここには居ませんよ。…私は決めたので」
「そうかい。もう一杯お願いできるかな」
「はい。喜んで」

そう言って君菊は全員の幹部にお酌をして回った。
これが別れなのだと思うと、少し胸が痛くなるような気がした。

そんな中、海上から新政府艦隊の砲撃が轟いた。
攻撃開始は午前三時と予定されていたが、それよりも早く攻撃を開始したらしかった。

君菊は別の部屋に行くと素早く洋装に着替え、刀を帯刀する。

──これが最後の戦いだ。

そう思うと背筋が少し伸びるような気がした。

歳三と君菊は五稜郭へ向かい、相馬主計は弁天台場に帰っている。
五稜郭に向け、新政府軍が進撃を開始し、旧幕府軍の意識が五稜郭方面に集中した時、箱館山への新政府軍の奇襲上陸は行われた。

箱館は三方の海に囲まれており、早朝の陸兵との交戦は予期されていなかった。
その裏をかかれたのだ。

新撰組、伝習士官隊、砲兵隊の守備する箱館は、新政府軍に一気に制圧されてしまう。
新撰組と砲兵隊は弁天台場で籠城戦に入り、伝習士官隊が五稜郭に向かって援軍を要請することになった。

箱館が新政府軍の攻撃によって奪われたとの報を受けた五稜郭では、歳三が前線に出撃することになった。
千代ヶ岡台場で額兵隊二小隊を整えた歳三は、海際の一本木関門まで前進する。

一本木関門は箱館地区と五稜郭地区を隔てる木戸で、旧幕府軍の詰所が設けられていた。
また箱館からの街道は、この関門から五稜郭へ向かう道と七重浜方面に向かう街道に分岐している。

軍事上、交通上の要衝だった。

一本木関門には箱館から敗走した伝習士官隊が屯集しており、海上には旧幕府艦隊・幡龍と新政府艦隊・朝陽の構成んする様が手に取るように見えた。

歳三と君菊が一本木関門に到着して、まもなくのことだった。
海上に轟音が起こり、火柱が立ち上った。
朝陽が、幡龍の一弾を火薬庫に受けて撃沈するさまだった。

この時刻は午前七時三十五分と記録されている。
あまりにも大音響に敵、味方も一時、戦闘を止めてその有様を眺めたという。

戦場に訪れた静寂の後、戦場の各所で旧幕府軍兵士の声が沸き上がった。
これまでの敗色を払拭するものだったからだ。

歳三はこの勝機を逃さなかった。

「この機、失するべからず」ち、伝習士官隊と額兵隊に箱館方面への反撃を命じると、
「我、この橋(一本木関門)にありて退く者を斬る」と言い放った。

こうして箱館方面の敵を退却させた歳三だったが、今度は七重浜の旧幕府軍が一本木関門近くまで後退してくる。
歳三はこれを指揮して押し戻したものの、再び七重浜方面の戦線が徐々に後退してきた。

君菊が七重浜方面の戦線に参戦しようとするその時だった。




一発の銃声が鳴り響いた。





銃声が鳴り響いた方向を君菊が見ると、歳三は落馬していた。

「歳三!!!!」

君菊の叫び声が響いた。涙声になっていた。



俺は。
俺は、最期まで武士らしく生きられただろうか。誠を貫けただろうか。

死の間際、男はそう考える。
人は死ぬ時、聴力が最期まで残るそうだ。男はそのことを身を持って知った。
敵の砲弾の音が鳴り止まない。部下達の咆哮が聞こえてくる。戦力の差は歴然だった。
それでも戦うと決めたのだ。例え勝てない戦いであったとしても。
武士よりも武士らしく生きると決めたその日から。戦うと誓った。
男の瞼が閉じていく。箱館の空はその日、雲一つない青空であった。

──君菊、すまねぇ。何も言えなかった。

君菊の叫ぶ声が聞こえた。泣いているような声にも聞こえた。

──お前、そんな風に泣くのか。

男は最期まで己の誠を貫いた。しかし、最愛の人へ想いを伝えることは出来なかった。
いいや、正しくは。最期までしなかった。

享年三十五歳。土方歳三は黄泉へと旅立った。






「日野に帰ってたとは聞いたが、本当に傷ひとつないとはな…」
「流石、壬生狼の戰姫と言われただけはある」

歳三の死後、君菊は最後まで戦うことを相馬主計に告げたが、日野に帰るように告げられる。
もう勝つ見込みはないと言われたからであった。
誠を貫けたのだろうか、そんな疑問を抱えながら君菊は帰郷することになった。

日野に帰った君菊は、彦五郎からの提案で剣術道場で師範をつとめることになる。
歳三も失い、新撰組とも別れた君菊。
喪失感に耐えながら稽古に打ち込んでいたそんな日々の中で、客人が道場にやってきたのである。

斉藤一と永倉新八の二人であった。

「お二人とも、お元気そうで」
「君菊も元気…じゃないだろ。それ、空元気だろ」
「すみません。ずっと戦場にいたから、なんだかおかしくて…」

二人は君菊の肩を抱いた。
もう咎める男はどこにもいない。

──あれ、なんで泣いているんだろう。

涙など、家の教えを叩き込まれた時に枯れたと思っていた。
なぜ今、自分が泣いているのか、わからない。

「泣け泣け。お前さん、トシさんが好きだったんだよ。そしてトシさんもお前のことが好きだった」

──私、歳三のことが好きだったの?

ぶっきらぼうでも優しいやつだった。
乱暴ものだったけど本当は優しいと知っていた。
誰よりも頑固で、そして、誰よりも武士らしい男だった。

──愛していた。

歳三も、自分を愛してくれていたのだとようやく気づくと、涙が溢れて止まらなかった。
しばらくの間、二人の腕の中で泣いた。
馬鹿野郎という歳三の言葉が聞こえた気がした。












「ねぇ。どうして君菊ばあちゃんは誰にも嫁がなかったの?」
「ふふ。それはねぇ、許嫁が居たからだよ。」
「許嫁!その話聞きたい!」
「ちょっと長くなるよ。それでもいいかい?」
「いいよ!」

道場の子供にせがまれて年老いた君菊は話し始めた。
歳三と新撰組の話を。


そして全て語り終えると、眠るように息を引き取った。
齢八十五歳。長寿を全うした。

壬生狼の戰姫は最期まで土方歳三の許嫁のままだった。




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