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第八章
乾杯
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一旦、別室にメイドに通され、装いをメイドに軽く直される。その際にナディはそっと前髪を下ろし、いつもの様に顔の半分を隠した。その行為にお付きのポリーヌとカチャは顔を見合わせたが、結局、何も言わなかった。
「お早めに。もう騎士様とリンツ卿はお待ちのはずです」
メイドに急かされてナディは広間に向かう。そこで誰が待っているかがわかっているだけに怖い。怒られる? いいや、それ以上に悪い事だろう。
「あ、奥様」
だが広間の扉の前でナディとメイドらは立ち止まった。男爵家で一番怖い女性が待ち構えていたのだ。
「お、叔母様……」
じろりと睨まれた。三人が直立不動となる。特にナディは叔母の大きな目を前に血の気が引いていく思いだ。下ろした前髪も確かに見られた。
「そろそろよ。二人とも引きなさい。給仕をお願いするわ」
叔母の声は静かだった。ポリーヌもカチャもかくかくと頷き、大急ぎで振り返る。そのままナディを置いて、作法的に怒られないギリギリの早足で去っていった。
「さてナディ」
ずいと叔母が顔を寄せる。ひいぃとナディは呻きを漏らした。
「よくもやってくれたわね」
口をつける様にしての小声なのはそこの扉一枚向こうにお客人らが既に待っているからであろう。それでも十分にお怒りなのはわかった。怖い。
「せっかく皆で舞台を用意して応援してあげていたのに、この馬鹿娘は」
「で、でも叔母様」
何とかナディは抗弁を試みた。怖い。叔母も怖いが自分がさっきしでかした事がそれ程までに怒られる次元だと言う事が怖い。逃げたい。この扉の向こうの現実に会いたくない。
「叔母様は、わたしがどうしても嫌ならなんとかしてくれるって」
「ちゃんとお会いした上で、ならばね」
叔母は姪の言い訳を読んでいたかの様に即答した。
「あ、会いましたわ」
「あんたのは見て見られただけよ」
小さな怒声と言う器用な叔母である。
「そんな事ありません……」
「ほう、その言い訳で誰を説得する気なのよ? この扉の向こうにいる方にそれ言える?」
ぐうの音も出せないナディである。
「ですけど叔母様」
しょうがない。ナディは覚悟した。言いたくないけど言おう。涙が出そうになるけどここは。
「こんな……醜い痣があるんですよ。そんな男の人なんて……まして結婚なんて」
生まれてから何万回言われたか。嘲られたか。泣かされたか。これだけは自分にしかわからない。大好きなお母様も、大好きな叔母様でもわかってくれない。もうこの痣をとやかく言われる機会すら嫌なのだ。
だからこそ幼い頃から図書館の本の世界に耽溺していたのだ。あそこなら認められる。数ヵ国語の文字がわかる語学力。知識を吸い収る様に覚える記憶力。一日中でも本に埋もれる集中力。それらだけを認めて誉めてくれる世界。
「お黙り」
叔母はナディの口の端を摘まむと強引に引っ張りあげた。
「あた、あ痛い痛い、叔母様、痛いっ」
「痣くらい何よ」
本気で怒っている叔母の声だった。
「人間誰でも自分で不満な処も他人に笑われる処もあるのよ。それを前提に貴族も平民も、男も女も生きてんのよ」
怖くて怖くてナディはカタカタ震える。引っ張り上げられた口から頬が本気で痛い。
「あなたが図書館ではずば抜けているのは認めるわ。女でありながら王国唯一の司書様だなんて、同じ女としても嬉しいし、家族としては誇らしい」
誉めてくれるのは嬉しいけど、叔母様、もうちょっと引っ張るのを手加減を……あ痛たたたた。
「教会の聖職者や古臭い年寄りみたいに、結婚が女の幸せなんて言う気もないわ。わたしだって一回不幸になっているしね」
叔母が前の婚家とは大喧嘩して離婚した事も、それを恥だとした実の親とも関係は最悪である事もナディは聞いている。
「でもね。今回みたいに相手から礼儀正しくきた以上はちゃんとしなさい。それが礼儀よ。世間様とやらにティンベルの女は礼儀も知らないと言わせる訳にはいかないのよ」
そこでようやく手を離してくれた。ナディは思わず手で押さえる。絶対に痕がついていると思う。
「それに男の一人や二人が何よ。その程度、しゃんとあしらえなくて、これからの女が務まるとでも思っているの?」
騒がしい人生を突破してきた叔母が言うと迫力がある。何せ元々は富商の妾腹の子だったそうだし。
「だいたいあんな天使か妖精みたいな男なんて奇跡よ。贅沢言うんじゃない。あんたが嫌ならわたしが欲しいくらいよ」
さらに危ない事を言い出す叔母様。冗談だとナディは思いたい。
「いやでも叔母様。あの方、女性ではないかと……」
これは言っておかねばならない。執事は疑っていなかった様だが、ナディの目にはどうしてもそう見えたのも事実なのだから。
「だから何よ? 堂々と申し込んできた以上は堂々と対応するのよ」
無茶苦茶だ。だが、騎士の美貌に叔母も性別を疑っているらしいのはうかがえた。
「たとえ姫騎士様でも家と家のつながりとしての義はありうるわ。知っているでしょ?」
「……ええ、義姉妹の結縁とか」
いや、確かに制度としてはあるんだけど、それは結婚じゃないわよね? とナディは混乱する。とにかくこの後、さっきの暴言の責任を取らされるのは間違いなさそうである。
ちなみに叔母はナディが痣を覆う為に下ろした前髪には手でも口でも触れなかった。
広間に入る。後ろに叔母がしっかりついており、気分は連行だ。
「おお、待ちかねたぞ。ナディ」
叔父の大きな声で迎えられた。ナディはドレスの両裾を摘まんで上げて頭を思いっきり下げる。女の作法だ。出来ればこのままずっと床を見つめていたい。
「ささ、席へ」
顔をあげたくないのにそう即された。それでもぐずぐずしていると見えないように叔母にお尻を蹴られる。痛いです。叔母様。それに結構いい音がしましたよ。
「ナディ。ご機嫌よう」
聞き慣れた声がした。リンツ卿だ。王立図書館長でナディの上司である。
「今日は良い席にお招き頂き、ありがとう」
この亡父の親友だった初老の紳士はナディにとっては上司であると共に尊敬する師でもあり、幼い時から可愛がってもらった。今の男爵家当主である叔父以上に敬意を払うべき存在だ。ナディの人生の慶事には是非お呼びすべき方だろう。ナディは小さく顔を上げ、ちらりとそのリンツ卿を確認してからもう一度頭を下げる。
「さあ、ナディ」
扉の辺りでまだ動かないナディを叔母が押す。強いです。叔母様。そのまま押されて自分の席につかされた。すぐに卓上を見る。顔を上げられない。
「これで皆揃った様だな」
姪と妻の着席を確認してから叔父がうんうんと頷きながら言った。まだ執事からの報告は行っていないのだろうか。上機嫌である。
「さあ、顔を上げなさい。ナディ」
広間には屋敷で一番豪華な長卓が中心に据えられている。席はこちら側に主人として三つ。向こう側に客人らが二つ。それぞれ上座から叔父、叔母、ナディ。あちらはリンツ卿ともう残るもう一人だ。
「始める前にご紹介を。これが我が姪のナディージュでございます。不束者ですが、どうかお見知りおきの程を」
下手な舞台俳優のように叔父が仰々しく言った。事前に対面しているのは叔父にもわかっているのだが、これも作法とやらの一環である。
「さあ、ナディ。お前も挨拶せんか」
それでも卓上を見つめたままのナディに叔父が言う。声に笑いがこもっているのは、姪が恥ずかしがっているとでも思っているのだろう。何せ御客人はこれだけの美形なのだから。
初い姪だ。色々心配させられたが、ここまで浪漫的な求婚者に声も出ないに違いない。さすがは女の子。
「は、はい……」
このまま椅子の付属品にでもなりたいナディだが、はっきり命じられては抗えない。隣の席の叔母も怖いし。そっと顔を上げる。
「な、ナディージュ・ティンベルでございます……」
何とか呟く様にそう言って目も上げ、前を見て――ああ、やっぱりあの美少女そのもののお顔。
「……初めまして」
恐る恐るのナディに対し、その正面の席の黒い瞳は微動だにしてなかった。相変わらずの吸い込まれる様な夜色の深みがじっとナディを見つめている。
「わたくしはブレイブのイジサ・リィフェルトの次子、カーリャ・リィフェルトと申します」
硬い声に合わせて騎士がナディに一礼する。
「この度は父の使いで上都致しました」
言い聞かせるかの様であった。ナディはどきりとする。その設定で通す気らしいとわかった。
「え?」
わずかに叔父の表情が揺れる。『縁談』とは言わないのか? と言う疑問である。経緯を知っている叔母は努めて表情を動かさない。リンツ卿は黙っていた。
「そ、そうなんだ。ナディ。カーリャ殿からは貴重な文献を寄贈頂いてだな」
それでもこの空気に何か感じたらしい叔父が喋るが、ナディは騎士の顔を見る事に耐えられず、また視線を卓上に戻していた。
「……」
その態度に騎士がどう反応したかは見えない。ただあちらも口はつむんだようである。会話が途絶えた。今日の実質的な主賓同士のこの反応に、周囲にしばし沈黙が流れる。
「あなた。お客様をお待たせしては」
「そ、そうだな。モルガン。始めてくれ」
会食が始まった。
この時代の亜大陸の一般的作法では宴席での料理は皆の前で主催者側が捌き、参加者に手ずから配る。その捌き手が主人の事もあれば跡継ぎ息子の場合もある。貴族だと執事や家令であるのも普通で、今日のそのお役目のモルガンはそれなりに張り切っていた。
「では不肖、わたくしめが」
厳かにそう宣言してからモルガンは長卓の傍らに立つ。最初の料理は『いんげん豆と鶏肉のスープ』である。たっぷりの鍋を台車に乗せてメイドのポリーヌが押し、各自の後ろに回ったモルガンが客人の前に置かれた深皿に注いでいく。
まずは主賓のお客人のリンツ卿。次が(本当の主賓の)カーリャ・リィフェルト卿。そして当家主人の叔父。伴侶の叔母。最後にナディだ。モルガンが重々しく作法通りに振る舞う為に一巡するのに少々時間がかかりそうだ。
「カーリャ様は騎士であらせらるのですね?」
その間を埋める様に叔母が話しかけだした。
「は。未熟者ですが」
話しかけられた騎士が言葉少なに応える。
「まあ、素敵。では昔は聖歌隊に入っていらっしゃったのでは?」
「いえ」
「あら、勿体ない。せっかく教会に飾られた天使像みたいに見目麗しいのに」
「……はい」
何かと盛り上げようとしている叔母に対し、騎士はほとんど『はい、いいえ』だけの返事である。お機嫌やっぱりまだ悪いのかしらとナディは身が縮む思いだった。
その様に二人だけで喋っている内にスープは行き渡る。ポリーヌが台車を押して下がり、カチャが籠を持ってモルガンにつく。パンだ。ナディですらも滅多に見ない真っ白なパンをモルガンがまた一巡して参加者に配っていく。
「そうそう。今日は取って置きの馳走がございますのよ」
そこで叔母が宣言する様に言った。それを待ち構えていたかの様にポリーヌが台車を押してくる。今度は陶器の瓶が五本乗っていた。各自の席にはすでに酒杯が用意されている。中くらいのゴブレットだ。
「さあ、リンツ様。カーリャ様。どうぞ。わたくしの実家から取り寄せたカスピ産の極上ものでございます。モルガン。お願い」
「はっ、奥様」
叔母に言われてモルガンは勇んで瓶を握り、各自の前の酒杯にその赤い酒を注いでいく。その漂ってきた香りと色に叔父がやや驚いたのは、そのワインが本当に男爵家秘蔵品の値打ちものだったからである。リンツ卿にもそれがわかったらしく、厳格な初老の顔がややほころぶ。
(うわあ)
自分にも注がれたのを見て、ナディも驚いた。濃厚な香りと色。美味しそう。しかもまだ昼間なのに水で割っていない。今までは年齢を理由に生では絶対に飲ませて貰えなかったのに。
「……」
皆が無言で静かに盛り上がっている中、唯一別の反応だったのは主賓の騎士だった。並々と赤ワインを注がれた酒杯を前にやや身体が引いている。よく見れば無表情を作っている顔もかすかに強張っているのがわかっただろう。
「あら、カーリャ様?」
それを目敏く叔母が見つけた。
「ワインはお嫌いで?」
「いえ、あの、そう言う訳では」
嫌いなんて言える訳がない。この時代の亜大陸における酒では葡萄から作るワインが上級。麦類から作る麦酒は中級以下とされている。貴族ならばワインを常飲し、それ以外は何か理由がないと飲まないのが常識だった。
ベルガエ王国はそれ程に葡萄作りには適した気候でも地味でもない為、大抵は外国からの輸入になり、その分、高価になる。だからこそ、今日の様な重要な席では堂々と出されるのだ。
「ではどうぞ。どうぞ」
叔母がにこやかに言う。その空気に、あ、なんか見つけたんだとナディだけはわかった。
「は、はあ」
明らかに怯んでいる騎士の声に今まで極力目を背けていたナディも見てしまった。あれ? 本当に何か狼狽えているよう。
「あなた。乾杯を。お客様がお待ちですわ」
「おお、そうだな。エロイーズ」
よくわかっていない叔父は全員の酒杯が満たされたのを確認してから立ち上がる。皆も酒杯を持って主人にならった。
「では――」
そして厳かに祈りの言葉を数節述べてから乾杯を宣言する。唱和が人の数だけ続く。そして酒杯を唇にあて、思い思いの角度に傾けた。
「っ――」
美味しいとナディは思った。うわ、本当に美味しい。生のワインってこんなに染み渡るんだ。こんなの初めて。
「うむ。いいワインだ」
リンツ卿も上機嫌の声を上げた。まったくナディも同意である。叔母と叔父が毎晩こっそり二人だけでワインを楽しんでいるのは知っている。ずるいと今も美味しそうに飲んでいる叔父を見ながら思う。
唯一、ワインを楽しむ皆とは違う方向を見ていたのは叔母だった。
「おやあ? カーリャ様?」
甘い声で言った。ねとつく様だった。
「どうなされましたぁ?」
ドキリとしたのだろう。カーリャの身体がびくんと震える。あれ? とナディがそちらを見る。耽美な容貌の騎士は酒杯をすぐに卓上に戻していた。まあ、飲まないのかしら。こんなに美味しいのに。
「ひょっとしてお口に合いませんか?」
「いえ、そのような」
そう早口で言って騎士は酒杯を口につける。そのままぐいと傾けた。ゴッゴッ と喉が鳴り響く。一気に飲み干したのだ。
「け、結構なお味で……」
酒杯を置き、苦しそうな息と共に何とか言っている。取り繕う様が誰にも見え見えだった。あららとナディは呆れた。ひょっとしてこの人。
「まあ、お見事な飲みっぷり。さすがは騎士様」
なのに叔母は感心した様にわざとらしく騒いだ。実はにんまりと笑っている。
「お若いのにお酒も嗜まれるのですね。そのワインの味がわかるとは中々のご教養。さすがは『騎士の鑑』と詠われるアルフェンス様のお弟子であらせられますね」
「あ、いや、それとは関係なくて」
「嬉しいですわ。こんな素敵なお客様を迎えられて。当家は『文』の家柄の故に本物の騎士様だと緊張しておりましたが、この様に風雅のわかるお方だとは」
「……恐縮です」
ぺらぺらと誉めあげる叔母に、本当に強張った表情で顔を薄く赤くする騎士。それは今の一気飲みさせられたワインのせいだけではあるまい。明らかにこの後の展開を予想してだろう。
「さあ、モルガン。カーリャ様の杯が空いてるわよ。お注ぎしてあげて」
「は、はあ」
モルガンは躊躇する。誰が見てもこの騎士は困っている。おもてなしとしても、ここで更に勧めるのは礼法としてもどうだろうか。
「あの、奥様」
「御客人のカーリャ様もでなくては、リンツ卿も主人もお心苦しいでしょう」
確かにそうかも知れないが。後の二人は大酒飲みだし。
「……これもナディの為よ」
「カーリャ様。お注ぎします」
叔母の一言の意味は他の男どもには伝わらなかったが、モルガンだけは反応した。すぐにもその席の横に立ち、せっかく空けた酒杯にまたなみなみとワインを注ぐ。ナディの見た処、騎士様は唇を硬く閉じ、斜め横目で酒杯を睨んでいた。
「お早めに。もう騎士様とリンツ卿はお待ちのはずです」
メイドに急かされてナディは広間に向かう。そこで誰が待っているかがわかっているだけに怖い。怒られる? いいや、それ以上に悪い事だろう。
「あ、奥様」
だが広間の扉の前でナディとメイドらは立ち止まった。男爵家で一番怖い女性が待ち構えていたのだ。
「お、叔母様……」
じろりと睨まれた。三人が直立不動となる。特にナディは叔母の大きな目を前に血の気が引いていく思いだ。下ろした前髪も確かに見られた。
「そろそろよ。二人とも引きなさい。給仕をお願いするわ」
叔母の声は静かだった。ポリーヌもカチャもかくかくと頷き、大急ぎで振り返る。そのままナディを置いて、作法的に怒られないギリギリの早足で去っていった。
「さてナディ」
ずいと叔母が顔を寄せる。ひいぃとナディは呻きを漏らした。
「よくもやってくれたわね」
口をつける様にしての小声なのはそこの扉一枚向こうにお客人らが既に待っているからであろう。それでも十分にお怒りなのはわかった。怖い。
「せっかく皆で舞台を用意して応援してあげていたのに、この馬鹿娘は」
「で、でも叔母様」
何とかナディは抗弁を試みた。怖い。叔母も怖いが自分がさっきしでかした事がそれ程までに怒られる次元だと言う事が怖い。逃げたい。この扉の向こうの現実に会いたくない。
「叔母様は、わたしがどうしても嫌ならなんとかしてくれるって」
「ちゃんとお会いした上で、ならばね」
叔母は姪の言い訳を読んでいたかの様に即答した。
「あ、会いましたわ」
「あんたのは見て見られただけよ」
小さな怒声と言う器用な叔母である。
「そんな事ありません……」
「ほう、その言い訳で誰を説得する気なのよ? この扉の向こうにいる方にそれ言える?」
ぐうの音も出せないナディである。
「ですけど叔母様」
しょうがない。ナディは覚悟した。言いたくないけど言おう。涙が出そうになるけどここは。
「こんな……醜い痣があるんですよ。そんな男の人なんて……まして結婚なんて」
生まれてから何万回言われたか。嘲られたか。泣かされたか。これだけは自分にしかわからない。大好きなお母様も、大好きな叔母様でもわかってくれない。もうこの痣をとやかく言われる機会すら嫌なのだ。
だからこそ幼い頃から図書館の本の世界に耽溺していたのだ。あそこなら認められる。数ヵ国語の文字がわかる語学力。知識を吸い収る様に覚える記憶力。一日中でも本に埋もれる集中力。それらだけを認めて誉めてくれる世界。
「お黙り」
叔母はナディの口の端を摘まむと強引に引っ張りあげた。
「あた、あ痛い痛い、叔母様、痛いっ」
「痣くらい何よ」
本気で怒っている叔母の声だった。
「人間誰でも自分で不満な処も他人に笑われる処もあるのよ。それを前提に貴族も平民も、男も女も生きてんのよ」
怖くて怖くてナディはカタカタ震える。引っ張り上げられた口から頬が本気で痛い。
「あなたが図書館ではずば抜けているのは認めるわ。女でありながら王国唯一の司書様だなんて、同じ女としても嬉しいし、家族としては誇らしい」
誉めてくれるのは嬉しいけど、叔母様、もうちょっと引っ張るのを手加減を……あ痛たたたた。
「教会の聖職者や古臭い年寄りみたいに、結婚が女の幸せなんて言う気もないわ。わたしだって一回不幸になっているしね」
叔母が前の婚家とは大喧嘩して離婚した事も、それを恥だとした実の親とも関係は最悪である事もナディは聞いている。
「でもね。今回みたいに相手から礼儀正しくきた以上はちゃんとしなさい。それが礼儀よ。世間様とやらにティンベルの女は礼儀も知らないと言わせる訳にはいかないのよ」
そこでようやく手を離してくれた。ナディは思わず手で押さえる。絶対に痕がついていると思う。
「それに男の一人や二人が何よ。その程度、しゃんとあしらえなくて、これからの女が務まるとでも思っているの?」
騒がしい人生を突破してきた叔母が言うと迫力がある。何せ元々は富商の妾腹の子だったそうだし。
「だいたいあんな天使か妖精みたいな男なんて奇跡よ。贅沢言うんじゃない。あんたが嫌ならわたしが欲しいくらいよ」
さらに危ない事を言い出す叔母様。冗談だとナディは思いたい。
「いやでも叔母様。あの方、女性ではないかと……」
これは言っておかねばならない。執事は疑っていなかった様だが、ナディの目にはどうしてもそう見えたのも事実なのだから。
「だから何よ? 堂々と申し込んできた以上は堂々と対応するのよ」
無茶苦茶だ。だが、騎士の美貌に叔母も性別を疑っているらしいのはうかがえた。
「たとえ姫騎士様でも家と家のつながりとしての義はありうるわ。知っているでしょ?」
「……ええ、義姉妹の結縁とか」
いや、確かに制度としてはあるんだけど、それは結婚じゃないわよね? とナディは混乱する。とにかくこの後、さっきの暴言の責任を取らされるのは間違いなさそうである。
ちなみに叔母はナディが痣を覆う為に下ろした前髪には手でも口でも触れなかった。
広間に入る。後ろに叔母がしっかりついており、気分は連行だ。
「おお、待ちかねたぞ。ナディ」
叔父の大きな声で迎えられた。ナディはドレスの両裾を摘まんで上げて頭を思いっきり下げる。女の作法だ。出来ればこのままずっと床を見つめていたい。
「ささ、席へ」
顔をあげたくないのにそう即された。それでもぐずぐずしていると見えないように叔母にお尻を蹴られる。痛いです。叔母様。それに結構いい音がしましたよ。
「ナディ。ご機嫌よう」
聞き慣れた声がした。リンツ卿だ。王立図書館長でナディの上司である。
「今日は良い席にお招き頂き、ありがとう」
この亡父の親友だった初老の紳士はナディにとっては上司であると共に尊敬する師でもあり、幼い時から可愛がってもらった。今の男爵家当主である叔父以上に敬意を払うべき存在だ。ナディの人生の慶事には是非お呼びすべき方だろう。ナディは小さく顔を上げ、ちらりとそのリンツ卿を確認してからもう一度頭を下げる。
「さあ、ナディ」
扉の辺りでまだ動かないナディを叔母が押す。強いです。叔母様。そのまま押されて自分の席につかされた。すぐに卓上を見る。顔を上げられない。
「これで皆揃った様だな」
姪と妻の着席を確認してから叔父がうんうんと頷きながら言った。まだ執事からの報告は行っていないのだろうか。上機嫌である。
「さあ、顔を上げなさい。ナディ」
広間には屋敷で一番豪華な長卓が中心に据えられている。席はこちら側に主人として三つ。向こう側に客人らが二つ。それぞれ上座から叔父、叔母、ナディ。あちらはリンツ卿ともう残るもう一人だ。
「始める前にご紹介を。これが我が姪のナディージュでございます。不束者ですが、どうかお見知りおきの程を」
下手な舞台俳優のように叔父が仰々しく言った。事前に対面しているのは叔父にもわかっているのだが、これも作法とやらの一環である。
「さあ、ナディ。お前も挨拶せんか」
それでも卓上を見つめたままのナディに叔父が言う。声に笑いがこもっているのは、姪が恥ずかしがっているとでも思っているのだろう。何せ御客人はこれだけの美形なのだから。
初い姪だ。色々心配させられたが、ここまで浪漫的な求婚者に声も出ないに違いない。さすがは女の子。
「は、はい……」
このまま椅子の付属品にでもなりたいナディだが、はっきり命じられては抗えない。隣の席の叔母も怖いし。そっと顔を上げる。
「な、ナディージュ・ティンベルでございます……」
何とか呟く様にそう言って目も上げ、前を見て――ああ、やっぱりあの美少女そのもののお顔。
「……初めまして」
恐る恐るのナディに対し、その正面の席の黒い瞳は微動だにしてなかった。相変わらずの吸い込まれる様な夜色の深みがじっとナディを見つめている。
「わたくしはブレイブのイジサ・リィフェルトの次子、カーリャ・リィフェルトと申します」
硬い声に合わせて騎士がナディに一礼する。
「この度は父の使いで上都致しました」
言い聞かせるかの様であった。ナディはどきりとする。その設定で通す気らしいとわかった。
「え?」
わずかに叔父の表情が揺れる。『縁談』とは言わないのか? と言う疑問である。経緯を知っている叔母は努めて表情を動かさない。リンツ卿は黙っていた。
「そ、そうなんだ。ナディ。カーリャ殿からは貴重な文献を寄贈頂いてだな」
それでもこの空気に何か感じたらしい叔父が喋るが、ナディは騎士の顔を見る事に耐えられず、また視線を卓上に戻していた。
「……」
その態度に騎士がどう反応したかは見えない。ただあちらも口はつむんだようである。会話が途絶えた。今日の実質的な主賓同士のこの反応に、周囲にしばし沈黙が流れる。
「あなた。お客様をお待たせしては」
「そ、そうだな。モルガン。始めてくれ」
会食が始まった。
この時代の亜大陸の一般的作法では宴席での料理は皆の前で主催者側が捌き、参加者に手ずから配る。その捌き手が主人の事もあれば跡継ぎ息子の場合もある。貴族だと執事や家令であるのも普通で、今日のそのお役目のモルガンはそれなりに張り切っていた。
「では不肖、わたくしめが」
厳かにそう宣言してからモルガンは長卓の傍らに立つ。最初の料理は『いんげん豆と鶏肉のスープ』である。たっぷりの鍋を台車に乗せてメイドのポリーヌが押し、各自の後ろに回ったモルガンが客人の前に置かれた深皿に注いでいく。
まずは主賓のお客人のリンツ卿。次が(本当の主賓の)カーリャ・リィフェルト卿。そして当家主人の叔父。伴侶の叔母。最後にナディだ。モルガンが重々しく作法通りに振る舞う為に一巡するのに少々時間がかかりそうだ。
「カーリャ様は騎士であらせらるのですね?」
その間を埋める様に叔母が話しかけだした。
「は。未熟者ですが」
話しかけられた騎士が言葉少なに応える。
「まあ、素敵。では昔は聖歌隊に入っていらっしゃったのでは?」
「いえ」
「あら、勿体ない。せっかく教会に飾られた天使像みたいに見目麗しいのに」
「……はい」
何かと盛り上げようとしている叔母に対し、騎士はほとんど『はい、いいえ』だけの返事である。お機嫌やっぱりまだ悪いのかしらとナディは身が縮む思いだった。
その様に二人だけで喋っている内にスープは行き渡る。ポリーヌが台車を押して下がり、カチャが籠を持ってモルガンにつく。パンだ。ナディですらも滅多に見ない真っ白なパンをモルガンがまた一巡して参加者に配っていく。
「そうそう。今日は取って置きの馳走がございますのよ」
そこで叔母が宣言する様に言った。それを待ち構えていたかの様にポリーヌが台車を押してくる。今度は陶器の瓶が五本乗っていた。各自の席にはすでに酒杯が用意されている。中くらいのゴブレットだ。
「さあ、リンツ様。カーリャ様。どうぞ。わたくしの実家から取り寄せたカスピ産の極上ものでございます。モルガン。お願い」
「はっ、奥様」
叔母に言われてモルガンは勇んで瓶を握り、各自の前の酒杯にその赤い酒を注いでいく。その漂ってきた香りと色に叔父がやや驚いたのは、そのワインが本当に男爵家秘蔵品の値打ちものだったからである。リンツ卿にもそれがわかったらしく、厳格な初老の顔がややほころぶ。
(うわあ)
自分にも注がれたのを見て、ナディも驚いた。濃厚な香りと色。美味しそう。しかもまだ昼間なのに水で割っていない。今までは年齢を理由に生では絶対に飲ませて貰えなかったのに。
「……」
皆が無言で静かに盛り上がっている中、唯一別の反応だったのは主賓の騎士だった。並々と赤ワインを注がれた酒杯を前にやや身体が引いている。よく見れば無表情を作っている顔もかすかに強張っているのがわかっただろう。
「あら、カーリャ様?」
それを目敏く叔母が見つけた。
「ワインはお嫌いで?」
「いえ、あの、そう言う訳では」
嫌いなんて言える訳がない。この時代の亜大陸における酒では葡萄から作るワインが上級。麦類から作る麦酒は中級以下とされている。貴族ならばワインを常飲し、それ以外は何か理由がないと飲まないのが常識だった。
ベルガエ王国はそれ程に葡萄作りには適した気候でも地味でもない為、大抵は外国からの輸入になり、その分、高価になる。だからこそ、今日の様な重要な席では堂々と出されるのだ。
「ではどうぞ。どうぞ」
叔母がにこやかに言う。その空気に、あ、なんか見つけたんだとナディだけはわかった。
「は、はあ」
明らかに怯んでいる騎士の声に今まで極力目を背けていたナディも見てしまった。あれ? 本当に何か狼狽えているよう。
「あなた。乾杯を。お客様がお待ちですわ」
「おお、そうだな。エロイーズ」
よくわかっていない叔父は全員の酒杯が満たされたのを確認してから立ち上がる。皆も酒杯を持って主人にならった。
「では――」
そして厳かに祈りの言葉を数節述べてから乾杯を宣言する。唱和が人の数だけ続く。そして酒杯を唇にあて、思い思いの角度に傾けた。
「っ――」
美味しいとナディは思った。うわ、本当に美味しい。生のワインってこんなに染み渡るんだ。こんなの初めて。
「うむ。いいワインだ」
リンツ卿も上機嫌の声を上げた。まったくナディも同意である。叔母と叔父が毎晩こっそり二人だけでワインを楽しんでいるのは知っている。ずるいと今も美味しそうに飲んでいる叔父を見ながら思う。
唯一、ワインを楽しむ皆とは違う方向を見ていたのは叔母だった。
「おやあ? カーリャ様?」
甘い声で言った。ねとつく様だった。
「どうなされましたぁ?」
ドキリとしたのだろう。カーリャの身体がびくんと震える。あれ? とナディがそちらを見る。耽美な容貌の騎士は酒杯をすぐに卓上に戻していた。まあ、飲まないのかしら。こんなに美味しいのに。
「ひょっとしてお口に合いませんか?」
「いえ、そのような」
そう早口で言って騎士は酒杯を口につける。そのままぐいと傾けた。ゴッゴッ と喉が鳴り響く。一気に飲み干したのだ。
「け、結構なお味で……」
酒杯を置き、苦しそうな息と共に何とか言っている。取り繕う様が誰にも見え見えだった。あららとナディは呆れた。ひょっとしてこの人。
「まあ、お見事な飲みっぷり。さすがは騎士様」
なのに叔母は感心した様にわざとらしく騒いだ。実はにんまりと笑っている。
「お若いのにお酒も嗜まれるのですね。そのワインの味がわかるとは中々のご教養。さすがは『騎士の鑑』と詠われるアルフェンス様のお弟子であらせられますね」
「あ、いや、それとは関係なくて」
「嬉しいですわ。こんな素敵なお客様を迎えられて。当家は『文』の家柄の故に本物の騎士様だと緊張しておりましたが、この様に風雅のわかるお方だとは」
「……恐縮です」
ぺらぺらと誉めあげる叔母に、本当に強張った表情で顔を薄く赤くする騎士。それは今の一気飲みさせられたワインのせいだけではあるまい。明らかにこの後の展開を予想してだろう。
「さあ、モルガン。カーリャ様の杯が空いてるわよ。お注ぎしてあげて」
「は、はあ」
モルガンは躊躇する。誰が見てもこの騎士は困っている。おもてなしとしても、ここで更に勧めるのは礼法としてもどうだろうか。
「あの、奥様」
「御客人のカーリャ様もでなくては、リンツ卿も主人もお心苦しいでしょう」
確かにそうかも知れないが。後の二人は大酒飲みだし。
「……これもナディの為よ」
「カーリャ様。お注ぎします」
叔母の一言の意味は他の男どもには伝わらなかったが、モルガンだけは反応した。すぐにもその席の横に立ち、せっかく空けた酒杯にまたなみなみとワインを注ぐ。ナディの見た処、騎士様は唇を硬く閉じ、斜め横目で酒杯を睨んでいた。
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