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第三章 農村防衛編

アラクネ

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 地響きが始まった。
 地底深くから沸き上がるような連続的な振動が体に響く。振動に目の前のモリフがブレて見えるようだった。
 結界術媒介のクリスタルは割れた。つまり結界が解けた、ということだ。
 であれば、この地響きの原因も容易に想像がつく。受け入れがたいその想像は間もなく、形を伴ってこの洞窟から溢れ出すだろう。

 足音が近い。大群の中に巨大な何かが混ざった足音が段々と近づいてくる。
 ハルトがモリフに目を向けると、モリフは悲しそうに目を伏せた。

「人間死んだらお終いだよ」モリフが言う。「笑うことも、泣くことも、ふざけることも、何もできない。美味しいオーク肉を食べることも、酒豪の実で酔っぱらうことも」

 モリフが過去を懐かしむように俯いたまま静かに頬を緩めた。切なさを秘めた目が細くなる。

「でも生きてさえいれば——死にさえしなければ……またやり直せる。何度だって。たとえ村が滅んだとしても」

 モリフが顔を上げた。
 だから生きて、と訴えかけるような強い願いをその瞳に宿して、モリフがハルトを見据える。ハルトは読み取り切れなかったモリフの気持ちの断片を、今モリフから受け取った。

「モリフ……お前——」

 ハルトが言いかけた丁度その時だった。洞窟から高温の湯気が噴き出し、一瞬で周囲の温度を上昇させた。
 直後、大量のスモッグスパイダーが洞窟から飛び出してくる。ギチギチギチギチギチ、とスモッグスパイダーの関節が動く音が重なる。スモッグスパイダーの群れは洞窟を出ると大地を覆いつくす勢いで左右に大きく広がった。

 ハルトは慌ててモリフを抱えて木の上に避難する。嫌な予感がする。ハルトは未だかつて『嫌な予感』が外れたためしがないことに気付き、憂鬱になる。
 スモッグスパイダーがとめどなく流れてくる洞窟の入り口を半ば確信めいた思いで注視していると、間もなくソレは姿を見せた。

 スモッグスパイダーよりも1周りも2周りも大きい。3メートルはあろうかという巨大な蜘蛛型の魔物——いや、蜘蛛型とも言い難い。なぜなら、下半身は確かに巨大な蜘蛛の足をしているが、その上には異様なほど肌の白い女性の上半身が生えているからだ。
 白い裸体に赤い目がよく映える。その赤い目が左右に激しく振られた。自分を洞窟に閉じ込めた者を探しているのか、怒りをまき散らすかのように金切り声を上げて喚いていた。

 蜘蛛の脚の関節にある穴から、燃え盛る憎悪をまき散らすが如く、勢いよく周囲に熱を帯びて橙色に発光する粉を噴射した。ちらちらと輝く雨が降るような光景は、思わず息を呑むほど、幻想的なものだった。
 綺麗だ、と反射的に感じた次の瞬間には、それは暴力的な大爆発に変わった。

 轟音と爆風がハルト達に正面からぶつかる。
 顔が焼けるように熱い。ハルトは瀕死のモリフを抱きかかえながら樹にしがみついて耐えた。
 スモッグスパイダーが爆風で吹き飛んで来て、近くの樹の枝をへし折って巻き込みながら、森の中に吸い込まれるように消えて行く。ぞっとした。いつハルト達が足をついている枝が折れるかも分からない状況で、それでもハルトは太い幹にしがみつくしかなかった。

 爆風が止んだ。
 目を開けると、辺り一帯は火の海だった。ハルトは急いでモリフを抱えて樹上を伝い、安全なところまで避難する。

「——なんちゅうもん封印してんだよ」

 心からの非難をモリフに向ける。
 しかし、何故かモリフ自身もその魔物を見て怯えていた。

「私、知らない……! 多分、アレ最初から洞窟にいたんだ……」モリフの声が震える。ハルトは、はぁ、とため息をついてから額に手を当てる。
「あれ、おそらくアラクネ種だよ。冒険者ギルドならS級案件の魔物だ」

 アラクネは周囲に人影がないことを確認すると、スモッグスパイダーの行軍の流れに沿って、猛烈に走り出した。
 鋭い足を大地に突き刺すように進む。足を踏み下ろす度にスモッグスパイダーが串刺しになり、アラクネの進んだ道にスモッグスパイダーの死体が転がった。

 あの方角、とハルトは気が付き、血の気が引く。「村だ……村がヤバい!」

 ハルトは慌てて樹から降りて、村の方へ駆け始めた。が、すぐにモリフに振り向いて、

「モリフ。お前はここで待ってろ! いいか、絶対待ってろよ!」

 再びモリフに背を向けて、普段のハルトからは考えられない猛烈なスピードでアラクネの後を追った。
 モリフはふぅ、と一つ吐息をついて、ハルトの背中を見送る。愛しい人との最後を惜しむような眼差しは、ハルトが見えなくなるまで——見えなくなっても、その余韻を噛みしめるように、じっと注がれていた。

 ハルト様とマリア様なら大丈夫。そう呟いてから、モリフは手を合わせて祈った。
 深い祈りを終えてから、モリフはゆっくりと立ち上がる。

「さよなら。ハルト様」

 モリフは燃える樹の間をよろめくように歩き、まだ火の届いていない暗い森へ消えて行った。


 
♦︎

 
 
 連戦はきつい。
 きついが、あんな化け物が村を襲えば、一瞬で村は消し炭になる。それだけは避けなくては。
 ハルトは悲鳴をあげる体に鞭打ってまた走る。飛行する敵の魔術師から逃げたり、モリフを追ったりと走ってばかりいる気がする。そして、今は蜘蛛を追いかけて走っていた。

 アラクネは速かった。
 だが、追いつけない程ではない。青い魔力を纏ったハルトならば、簡単に追いつくことができた。
 しかし、追いつけるから言って問題が解決するとは限らない。ハルトはひとまずアラクネに『サーチ』がてら一発入れようと接近した。
 ところが、

「熱っ! あっつ! やっば! やばいよやばいよ!」

 周囲のスモッグスパイダーが一斉に熱を噴射し、湯気が立つ。あまりの熱さにハルトは前世の記憶を無意識に再現していた。気を抜けば「お・ま・え・は・馬・鹿・か?」とアラクネに向かって頭をトントンしたくなってくる。前世の記憶がかせになるのは初めての体験だった。
 堪らず、ハルトはすぐさまスモッグスパイダーの行軍から距離を取る。

(ダメだ。アラクネに近づくことさえできない。いやでも、仮に近づけても近づき過ぎて奴にバレたら、さっきの爆裂魔法で吹き飛ばされるのがオチか)

 先ほどモリフと樹上にいた時、スモッグスパイダーがすごい勢いで飛んで来て太い枝をへし折っていく姿が思い出された。
 その時だった。脳裏に何かがスパークしたような閃きが生じた。
 上手くすれば、このスモッグスパイダーの大群をどうにかできるかもしれない。
 だが、それを実行するにはハルトだけでは不可能だ。
 この作戦に必要なのは——

(ラビィだ!)

 ハルトは樹の影に隠れながら、アラクネとスモッグスパイダーの大群を追い抜いて、村に全力疾走した。
 村までいち早く戻れたとして近くにラビィがいなければアウトだ。1秒でも早く、とハルトは森を駆ける。
 
 もう少しで村に辿り着くという頃、ハルトは濃いピンク色のモヤが一か所に留まっているのを見つけた。ラビィが仕掛けた置き型幻魔術だ。

 置き型幻魔術は、そこを通る者に何らかの感覚障害を起こす効果がある。熟練者ほど、モヤの透明度が増し、気付かれにくくなるが、ラビィのはまだ未熟故に濃い魔力の色が浮き出ていた。
 その上、そこを通っても特に相手に感覚障害は生じない。ただし、そこを通過した者の輪郭を捉えることはできる。つまり、遠くにいながら、何がそこを通ったのか知ることができるのだ。
 野党の奇襲対策にいくつか森に設置するようラヴィに事前に命じていたのをハルトは思い出す。一縷の望みを掛けて、あえてそのピンク色のモヤを頭から通過した。

 それだけでラビィがこちらに来てくれるかは、賭けだった。気にも留めない可能性もあるし、戦闘中で来られない可能性もある。だが、やらないよりはずっと良い。

 ラビィがいてくれることを祈って、ハルトはさらに足を速めた。
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