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第一章 逆プロポーズ編
大勝負
しおりを挟むハルトはクロノスの鍬を振り下ろした。
進行方向と反対の肉床が耕されて、吐き気を催すグロテスクな挽肉になった。
マッドマーダーはまた足止めを喰らう。
こうやってハルトはギリギリのところで逃げ仰せていた。
だが、それも限界がきていた。
走れば体力が減っていくし、クロノスの鍬を使えば魔力がごっそり持っていかれる。
ここまで逃げ続けられたのが既に奇跡だと言えた。
(もう……ダメ……走れない)
ハルトの足が止まったのは奇しくも初めに転移されてきた部屋だった。
5秒ほど膝に手をついて深呼吸してから、くるりと身を返して鍬を構える。呼吸は整いきっていないが、押し寄せる魔物は待ってくれない。
武器を構えはしたが、ハルトの心はすでに折れかけていた。
(この数を相手にするのは無理だ……)
視界には、通路の先でマッドマーダーの群れがこれでもかと蠢いている。まだ大部屋には入って来ていないが、それも時間の問題だ。
挽肉となった床を着々と自らの体で埋めている。無理矢理進もうとする個体や壁に爪を突き刺して進む個体もいた。
ハルトはもう走ることは出来ない。かと言って闘ってまぐれで勝てるような相手でもなかった。相手は集団なのだ。まぐれ勝ちなどあり得ない。
ボトッと音がしたと思い、霞む目を下に向けると鍬を落としていた。もはや握る力もなかった。
それをきっかけに最後の1本の張り詰めた大事な糸が切れたように、ハルトの体は支えを失った。
膝から落ち、うつ伏せに倒れる。死が確定した、というのに未練がましく顔はマッドマーダーの群れに向けて警戒していた。
(早く……立たないと…………)
ハルトの意思は身体に届かない。身体はハルトの制御を離れ、ぴくりとも動かない。
(みんな…………心配してるかな……)
皆に何も言わないで出て来てしまったことが悔やまれた。
ただの日常の仕事の一貫、という認識だったのに。こんな命のやり取りをすることになるとは思いもしなかった。
(こんなことなら……皆に……挨拶して…………から……)
意識が薄れていく。
虚ろな目から涙が一筋、静かにつたい落ちた。
自分はここで終わる。
どんな残虐な殺され方をするのだろう。
なるべく早めに死ねるといいな。
体は震えていた。
異様に寒い。
『きゃはァァァアアアはははは』
『いたァァアアア』
『寝んねェェエエエ』
『食べぅゥウウゥウウ』
『どったのォォオ?』
マッドマーダー達が次々と大部屋に入ってくる。
飛び跳ねて、踊って、嗤う。
いやだ
こわい
誰か
「マリ……ア……さん……」
呼び掛けに応じるように、横たわったハルトの視界に青黒く光る足甲がうつり込んだ。
「もう大丈夫だよ、ハルトくん。頑張ったね」
視線を上げると鎧を着たマリアがいた。その目は魔物の群れを見据えている。僅かたりとも恐怖や躊躇いが見えない。
マリアが右手をマッドマーダー達に向けた。
直後、轟音と共に強烈な閃光がハルトの顔を照り返した。それから爆風がハルトの髪をかき上げた。
穢れた肉を焼く強烈な悪臭と煙が巻き上がる。
視界が開けた時には先頭にいたマッドマーダー達の姿はなく、血の跡と肉片だけが散らばっていた。
「ローラ」とマリアが呼ぶといつの間に現れたのか、『金獅子』のヒーラーであるローラが「分かってる」とハルトに駆け寄る。
その間に、またもいつ現れたのか不明だが、『金獅子』のウォーリアのジンが戦線に突撃し、マッドマーダーの進行を抑え、マリアと魔導士のレオンが範囲魔法で爆撃していく。
溢れた敵はアサシンのマチが一体ずつ消していく。
鮮やかな手並みだった。
「ボロ雑巾みたいだね~」とローラがハルトの横にしゃがみ込んで、回復魔法をかける。
ありがとう、と言おうとしたが「……ぁ」としか声が出なかった。
「黙って寝てろ小僧」と『深淵の集い』のマディが歩いてきた。
「私たちの出番まるでないわね」と『神秘の宝珠』のリラも一緒だ。
「まぁまだ帰りもあることだし、温存でいいと思うよ~?」
ローラが言うと「それもそうね」とリラが同意した。
——が、マディが「おい、そうも言ってられねぇぞ」と顎で戦線をさした。
とめどなく流れてくるマッドマーダーの中に、異様な黒い影が一つ。
隆々とした筋肉が黒くごわついた肌を丘のように押し上げ、太い血管が蛇のようにウネウネ動いていた。
頭部の双角は怨念を宿しているかの如く、見る者の心をざわつかせる。
「ブラッディ・ジェネラル・オーガ」
と、誰かが呟いた。
ローラが目を細めて「あれは手強いね~」と言った。
「やるしかねぇな」とマディの姿が透過して消える。今どこにいるのか、もう既に分からない。おそらく戦闘に加わりに行ったのだろう。
「仕方ないわねぇ」とリラが前衛に駆け寄り、強化魔法をかけた。「言っておくけど、アイツの角は私がもらうからね」
マリアが先頭に立ち、オーガを見据える。
「私のハルトくんに手を出した報いは受けてもらうよ」
ハルトが気を失うのは、マリアがオーガに斬りかかるのとほぼ同時だった。
♦︎
ハッと目を見開くと、覗き込むようにしてこちらを見つめるマリアの顔があった。
その顔は心配そうに眉根を下げ、目に涙を浮かべていた。
マリアの透き通るような金髪がハルトの頬にあたり、くすぐったかった。
「マリアさん」とハルトが言うとマリアは「良かった」と溜めていた涙を一粒落とし、それから手で顔を隠して泣いた。
ハルトの頬に落ちたマリアの涙は温かかった。
マリアはしばらくして「ごめん」と鼻をすすって、落ち着きを取り戻す。
「無事……なの?」とハルトが問う。皆、無事だったのか、と。だが、マリアはハルトが自分のことを聞いていると誤ってとらえた。
「うん。疲労困憊なだけで、少ししたら動けるようになるってさ。良かったね」
頭を横に向けて皆の無事を確認する。『金獅子』のパーティとマディとリラ、来ていたのはこれだけだったはずだ、と人数を数え、全員五体満足でいることに胸を撫で下ろした。
と、同時にハルトの頬に当たる肌色の柔らかい感触と微かに香る甘い匂いにハルトは固まった。
(膝……枕…………だと……!?)
慌てて起きようとすると、マリアの手がハルトのおでこに添えられ、押し戻されるように再び寝かされた。
S級は伊達ではない。とんでもない反射神経と力だ。抵抗は不可能に思えた。
「安静にしてないとダメだよ? 帰りは私がおぶって行くから心配しないで」とマリアが微笑む。
「わ、悪いよ」
「怪我人は大人しく救助されてなさい? 心配しなくてもハルトくんをおぶりながらでも闘えるし」
そういう問題でもないのだが、何を言ってもマリアには通じそうになかった。
「な、ならせめて男同士のマディさんに——
「——私が」とマリアが強調してから「おぶるから」とにっこり笑った。有無言わせない圧力がそこにはあった。
こうなればハルトが「はい」としか言えなかったのも仕方がないと言えよう。
マリアの太腿の温かさに、ぽーっとしていると、「私ね」とマリアが呟くように言った。「ハルトくんに言いたいことがあるの」
ドキリ、とした。転移のトラップなんぞ踏んで、皆に迷惑をかけたことに対するお叱りか、と身構えた。だとすれば、何の言い訳の言葉もない。ただ受け入れて誠心誠意、謝るだけだ。
「な、何かな?」とハルトは聞く。覚悟を決めていても、やっぱり怖い。ハルトはマリアの目を見られなかった。
——が、続くマリアの言葉がない。
ゆっくりマリアに目を向けると、耳まで真っ赤に染めて口をぱくぱくしている。何かを言おうとして、やめて、また言おうとして、またやめる。
(何で金魚のモノマネしてるんだろ……?)
やがてマリアが「わ」と一文字だけ言葉を発した。
かと思えばまた黙る。
仕方なくハルトは「わ?」と続きを促す。
「わ、わ、わわ私と!」と少し進展するがまた止まる。
「私と?」と促す。
「私と、領主になってください!」
注射に備える子供のように目を瞑って、何故か敬語で、マリアが叫ぶように言った。
各々休憩中だったメンバーが一斉にマリアに顔を向ける。
「言ったね~」とローラが言えば、
「言ったよ」とマチが頷く。
「なんだ、ありゃ」とマディは白けた顔をリラに向けると、
「恋ね」とリラが答える。
ハルトははっきりと返答した。
「はい」
マリアの顔がパァっと明るくなった。
「これからよろしくね、ハルトくん」とマリアが笑う。その女神の如き美しさに、ハルトは心中でマリアへの絶対の忠誠を誓った。
かくしてマリアの一世一代の大勝負は大成功に終わった。
——かに思われたが、実はハルトはただ官僚としてスカウトされただけとしか認識していないということをマリアはまだ知らない。
————————————
【あとがき】
第一章『逆プロポーズ編』はここまでです。
明日からは第二章『農村開拓編』を始めます。
12時頃に1日1話進めますので、よろしくお願いします!
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