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14章:蜜月の夜

2話:温泉地

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 天気は快晴。王都から馬で半日程度の温泉地は、入った途端に僅かな硫黄の匂いと微かな湯気が見えている。山間の小さな観光地は、今は静かなシーズンらしく落ち着いていた。

「わぁ……」

 思わず声が漏れる。以前お花見をした場所も温泉地だったが、こことは湯量が違うのだろう。こちらはあちこちに温泉宿があり、日帰りなんてのもある。谷間を流れる川も僅かに湯気が出ている気がした。

「泉質もあれこれあるようだな。あちこちの宿を回って楽しむのが普通だ」
「自分の泊まる宿だけを楽しむんじゃないのか」
「宿の間で取り決めがされている。一律のお金を出せば他の宿でも入れる」

 それは楽しみだ。色々なお風呂を楽しみながら店先を見て、美味しそうなものがあれば食べたい。

「他にも温泉の蒸気を使った蒸し料理や、温泉の湯を使った料理なんかもあるみたいだな」
「食べたい」

 素直にそこには興味がある。言うと、ファウストは随分と楽しそうに笑った。

「まずは宿に荷物と馬を置いて、それからだな」

 こうして、まずは予約をした宿へと向かうことになった。
 宿は町の奥側にある老舗。しかも離れだった。

「こんな所、よく空いてたな」

 広々とした室内は一間だけだが、間仕切りで寝室がわけられている。玄関を入ってドアをあけるとそうした空間だ。リビングと繋がったベッドルームは窓側に透かし窓のはまった壁、リビングに面した方は引き戸で全部閉じられるようになっている。広々としたリビング側の窓の外には緑が広がり、室内露天が湯気を上げている。

「いい部屋だ」

 ファウストも気に入ったらしく、荷物を置いて窓の外を見ている。

「夕食は六時頃でよろしいでしょうか?」
「はい、それでお願いします」

 宿の案内をした女性に笑顔で返し、とりあえず室内を見回す。ベッドルームの棚にはローブのようなものが置いてあった。

「これって、なんだ?」
「温泉を回る時に着るものだ。いちいち服を脱ぎ着していると手間だからな」

 一枚布で作られたらしいそれは、ローブよりは合わせ目がしっかりとしている。別についている紐は太いから、多分腰に巻いて使うのだ。

「東方諸国の衣服で、『浴衣』というものらしい。温泉地では楽ちんだと取り入れられているんだ」
「何で詳しいんだ?」
「なんだかんだで、こうした温泉地は世話になる事が多いからな。傷にも効くんだ、温泉は」
「なるほど」

 確かに温泉には色々な効能があるらしく、傷や疲労回復、筋肉のコリによく効くらしい。騎士の中にはお世話になる人も多いと聞くが、この人も例に漏れずというやつだ。

「着せてやろうか?」

 ニヤリと笑う黒い瞳が、それだけを考えているわけじゃないと直ぐに分かる。幸い着方の説明が絵付きであるからやれるだろうが……やってもらうのが正解か?

「……自分でやる」
「つまらない」
「やっぱり悪戯するつもりだったな!」

 これから寛いで温泉に入りに行くぞって時に、跡などつけられたらたまらない。手早く衣服を脱いで着替えようとしたが、当然のように邪魔が入る。
 上の服を脱いだ所で背中に唇が寄せられる。首筋や背に触れる柔らかな感触と、僅かに吸われる刺激にビリッと甘い痺れが走る。

「んっ」

 口を引き結んでもどうにも甘い息が漏れてしまう。背中で悪戯をする人は低く「くくっ」と笑っている。

「ファウスト!」
「ついな」
「あんたは」
「怒るか?」
「……」

 怒るわけじゃない。ただ……どうしてもこうした雰囲気に慣れないだけだ。
 背後の人は困ったように笑い、体を離す。そして自分もさっさと着替えを始める。鍛えられた背や、腕の盛り上がり。それは決して暑苦しいものではなく、すっきりと引き締まって綺麗だ。
 でもよく見てみると、ほんの少し色の違う部分がある。とても薄らと、注視しなければ分からないような傷跡だ。
 進み出て、その背に手を当ててみる。痛みがないことは分かっているし、随分古いものなのも分かる。けれど、なんとなく痛くて悔しくもあるのだ。

「どうした?」

 首だけを捻って見下ろす瞳は穏やかなもの。それに視線を合わせられないまま、ランバートは古い傷の残る脇の部分や腕に触れた。

「あぁ、分かるのか。気にするな、随分古いものだ」
「……いつか……でも早く、この背を守れるようになりたい」

 この人の背を守る、そのくらい強くなっていきたい。今はまだ力が足りないけれど、もっと実力も経験も積んで、訓練もして、いつか守られる側じゃなくて守る側になりたい。それが、ファウストという人を恋人にして思った、ランバートの誓いだった。
 ふわりと手が頭を撫で、見上げると柔らかなキスが降りてくる。とても嬉しそうな瞳は彼の感情をそのまま表している。柔らかく受け入れて、舌を絡めて、絡められて。切なくて甘いこうしたキスを最近好むようになってきた。

「あまり可愛い事を言うな。このままどこにも行かずに押し倒したくなる」

 柔らかく抱き込まれ、囁かれる言葉にランバートは反応して……スルリと腕の中から逃げ出した。

「おい!」
「さぁ、遊びにいこう!」

 顔が真っ赤なのはバレている。でも、素直じゃないから逃げ出した。何よりせっかくの旅行を宿に籠もって抱き合うばかりじゃ勿体ない。
 背後で、ファウストは思い切り不機嫌そうだ。

「剣を覚える前に素直に俺に身を任せる事を覚えろ」
「それ覚えたら絶対に鍛えてくれないだろ」

 それに、そのスキルを身につけるにはまだまだ気恥ずかしく、ランバートは素直じゃないのだ。

 程なく着替えて表に出た。宿に泊まっている客は皆、同じような服を着ている。腰に巻いた帯や浴衣には店の名前が入っていて、それぞれ柄も違う様だ。
 ファウストの浴衣は黒地のシンプルなもので、帯にだけ金のラインが入っている。
 一方ランバートのは白地に青い笹の葉文様が入っている。帯は濃いめの青だ。
 これにサンダルを履き、髪は濡れるのが嫌なのでランバートは結い上げた。高くしっかりと結ってバレッタで止めたので、項の辺りに風が通って少し慣れない。

「後ろだけなら女で通るな」

 少し後ろを歩いているファウストが、そんな事を言って笑った。
 とにかくそんなで町散策。まずは楽しみな温泉とした。宿でもらったガイドによると場所によって泉質が違うらしい。

「ファウストはいつも、どんなの入るんだ?」

 温泉旅行など初めてだから勝手が分からない。マップを見ながら聞くと、一つをトントンと叩かれた。

「硫酸塩泉。外傷にいいんだ。それに、痛みも和らぐ」
「へぇ」
「別に、あまり気にする事もない。怪我をしているわけでも、不調があるわけでもない。気になった所に行けばいいんだ」

 穏やかに微笑まれ、それに返してとりあえず色々種類の多そうな所に行くことにした。
 結果、のぼせそうなほど入った。白くほんのりと濁った湯は入ると少しトロンとしていたし、傷にいいと言っていた湯は案外普通だがぽかぽかと芯まで温まった。他にも少し肌に刺激を感じる場所や、薬の匂いのする湯、打たせ湯なんてのもあった。そして、冷泉というのにとにかく縮み上がった。
 たっぷり堪能してぼんやりとしていると、ちょんと項に冷たい水滴がかかって「ひっ!」という変な声が出てしまった。

「ほら、水分」
「あぁ、有り難う」

 温まって薄らと白い肌を上気させたファウストが、手に水を持って差し出してくる。それをもらい、隣り合って座りながら外の景色をぼんやり眺めた。

「冷めたか?」
「お手数かけます」
「いいさ。楽しそうならそれでいい」
「子供だっていいたいんだろ」

 随分満足そうな顔をしているから多分間違いない。少し拗ねた気分になると、ポンポンと頭を撫でられる。少しだけ、悔しい。

「楽しい事はいいことだ。それに、こういうお前が俺は好きだしな」
「ショタコン」
「お前を見て誰が子供だと思う。俺を変態扱いするな」

 ジロリと睨まれる。その目に少し笑う。やっぱりどこか困ってみえる。ほんの僅か目尻が下がるからか。

「俺、旅行の記憶ってないんだ」
「ん?」

 素直な気持ちを伝えてみた。別にそれを寂しいと思うわけではなくて、仕方がないと諦めていたこと。行こうと思えば行けるのに、そんな事も思わなかった。

「家族旅行って、行った事ない。仕事の随行はあったけど。だからこんな風に楽しむ旅行って、したことがないんだ。だから気持ちもはしゃぐし楽しいし、過ごし方が分からなくて戸惑う」

 楽しいを沢山知る。嬉しいを沢山知る。温かさを知って、大切なものが増えた。実家での暮らし、下町での経験、得た仲間。全部大事だと思ったし、そこに不満があったわけじゃない。でも、騎士団で過ごす多くの時間はそれよりもずっと密で、優しい時間をくれる。
 大きな手が肩に触れて、引き寄せられる。湯に温まっていつもより高い体温が肌に触れてくる。

「これから、いくらでも行けばいい」
「ファウスト」
「どこへでも連れて行ってやる。俺だけじゃない。ゼロスやレイバン達とも遊びに行け。そこで、沢山知ってこい。お前はもっと心から楽しむ事が必要だ」
「……うん」

 素直に嬉しくて笑みが浮かぶ。これからもっと大切なものが増えていく。抱えきれないほどの物が増えていく。昔はとても不安だった。大切が増えれば増えるほど、守り切れるか分からなくて手を伸ばせなかった。全部で守っていかないと、失ってしまう気がしていた。
 けれど最近は少し違う。一人じゃなくなった。足りない手を、違う誰かが貸してくれる。支えきれない部分を、守らなければと思っていた人が支えてくれる。一人で抱えている時は終わって、周りにいる沢山の人に自分も支えられていると感じるようになった。
 そして、こうして触れているこの人が一番、そうしてくれている。これから沢山の時間を共有してくれる人との幸せを温かく包んで歩いていけたら。最近、そんな風に思えるようになってきた。
 貸してくれる胸に頭をおいて、恋人らしくよりそって、少しだけ穏やかな時間を堪能していた。

◆◇◆

 町に戻ってもう少し。名物だという「温泉まんじゅう」も食べてみたが……あんこというのはいまいち合わない。味は嫌いじゃないのだが、舌にザラリと残る感じが好きじゃなかった。
 ファウストは雑食だと判明。何でもそれなりに美味しく食べている。
 そうしてもう少し行くと見世物小屋があった。色んな動物を飼育しているような場所だ。

「見てみるか?」

 ランバートは二つ返事で入っていく。動物は好きだ。あまりに大きいと圧倒されるし、危険なものに不用意に触れる事もないけれど、なんとなく温かさを感じるから。
 中ではトラやライオンといった動物が檻の中にいる。他にも、兎や羊などはもう少しゆるめの展示方法だ。

「あっ、兎は触れるんだ」

 手の上にコロンと乗るような大きさの兎が、口元をはむはむとしている。飼育をしている人がそのうちの一匹をランバートに手渡してくれた。
 腕の中で温かく大人しくしている頭を、ほんの少し撫でてみる。柔らかな毛に触れると気持ちいいのか少しだけ目を細めた。

「可愛い」

 思わず頬が緩む。別にウェインのようなモコモコマニアではないが、可愛いものは素直にそう思う。なんとなく癒やしだ。
 ただ、それを後ろで見ているファウストが面白そうにしているのだけはいたたまれない。

「あっちで生まれたばかりの子も触らせてくれるようだぞ」
「はい、赤ちゃん動物とのふれあいコーナーがありますよ」
「行く」

 兎を飼育員にそっと戻し、連れられるようにそちらに。行ってみると……少し感じが違った。

「猛獣の赤ちゃん、だ」

 確かにまだおぼつかない足取りだが、その足は猛獣らしく逞しい。ただ、体の大きさに対して不釣り合いな大きな耳やクリクリとした目はぬいぐるみのように愛らしい。
 ファウストと一緒にそこへと行くと、とても簡単にゲートを開けてくれる。そして、言われるがまま柔らかなラグの床に座った。

「え? ここから?」

 どうしたら。そう思っていると、なんと向こうから来た。
 トテトテと近づいてきたライオンの子供がランバートの膝にじゃれる。爪は肉を裂く鋭さはなく、牙もまだ丸い。そんなので浴衣の裾や膝で遊ぶのだ。可愛くて仕方がない。
 隣を見ると……黒ヒョウか?
 何か黒いネコ科の動物が膝の上に乗っている。ファウストとしてはどうしていいかと困り顔だ。それを見て、ランバートは可笑しくて笑った。

「おい」
「だって」
「……可愛いが、どうしたらいいんだ?」
「寝かせてあげればいいんじゃないのか?」

 気に入ったらしいそいつは、ファウストの膝の上でまどろみ始めている。少し距離をつめてファウストに触れる位置に座ったランバートは、じゃれついているライオンの子を抱き上げてファウストの腕に乗せた。

「可愛い」

 勿論、猛獣(の子供)に囲まれたこの人の事だ。思わず口元に手をやってこらえきれなくて震えてしまい、最終的には吹き出した。

「おい」
「猛獣使い」
「誰がだ」

 いやいや、騎士団だってなかなかの猛獣と珍獣だ。特に第五師団なんて猛獣が多い。その上に立つこの人は、本当に猛獣使いみたいだ。

「ランバート」
「ん?」
「あとで覚悟しろよ」

 ジロリと睨まれて、ランバートは笑みを引っ込めた。
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