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8章:花の誘惑

4話:チョコの罠

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 夕刻くらいに宿に戻ると、宿の人が「少し早いですが、お食事になさいますか?」と聞いてきた。予定していた時間までは二時間あるが、これといった予定があるわけじゃない。ファウストを見て頷くので、それでお願いする事にした。
 部屋に戻って三十分程度で食事が運ばれる。旬の野菜や魚を使った目にも鮮やかな食事が所狭しとおかれていく。そして当然のようにお酒の瓶が二本ほどおかれた。

「そちらのセラーにもお酒はございます。何かあれば本館へ。二十三時まではルームサービスもございます」
「有り難うございます」
「二時間ほどで食器を下げに参ります」

 丁寧に対応して出ていく。テーブルに並ぶ温かな料理を前に、ランバートは穏やかに笑った。

「とりあえず、乾杯ですかね」

 グラスにワインを注ぎ、傾ける。そうして飲んだワインは、まだ若くフルーティーだ。

「なんか、春っぽい軽やかさがありますね」
「そうだな」

 口数はそう多くないものの、ファウストの笑みは穏やかで楽しげだ。だから何も心配はしていない。正直、公園でした会話の時には心配もしたのだが。
 あの一件以来、ファウストは時々不安を感じているように見えた。まぁ、当然と言えば当然だろう。人の、しかも近しい人間の死など近くに感じたい者はいない。この人は感じたんだ、そういうものを。そしてその選択をしてしまったのは、他ならぬランバートだ。
 不意に、ポスンと頭に手が置かれる。驚いて見ると、やっぱり困ったような笑みがあった。

「いいことは考えていないな?」
「え? あぁ」
「公園での事は忘れろ。俺も……少し場を考えていなかった。純粋に羽を伸ばしにきたんだ。お前も、楽しんでもらわないと困る」

 そう言った人が自分の手元にあったスティックのにんじんを、ランバートの口にくわえさせる。大人しくそれを食んでいると、愉快そうな笑みを浮かべた。

「ウサギみたいだ」
「させたの誰ですか」
「あぁ、すまない。それにしても、素直に食べるから」
「笑わないで下さいよ」

 こういう風に笑っているとこの人の年齢を思い出す。二十六歳、案外まだ若いのだ。
 咥えたにんじんを大人しく食べ下し、ランバートは代わりにセロリをファウストの前に持ってくる。だが意外にも、視線をそらされた。

 おや?

「もしかして、嫌いですか?」
「好まない。食べられないわけじゃないが、香草の類いはあまり好きじゃない」

 拗ねた子供みたいに返されて、思わず笑う。意外な一面を見た気がした。そして手にしたセロリはランバートが美味しく頂いた。

「お前は嫌いなもの無いのか?」
「蛇」
「案外美味いぞ。あと、カエル」
「それらを食べなくてもいいような行軍を望みます」

 素直なところを口にすると、楽しげに笑われた。
 美味しく食事は進んで、食べ終わる頃に宿の人が片付けていく。ついでに酒のつまみになるような物を少量置いて行った。

「至れり尽くせりだな」
「そうですね」

 リビングの寝椅子に体を預けるファウストは、のんびりとした様子で外を見ている。着ているシャツの前をほんの少し開けたそこからは、薄らと上気した肌とくっきりと見える鎖骨が覗いている。

「お風呂、入りますか?」
「もう少し酔いを覚ます。お前はどうする?」
「お付き合いします」

 少しけだるげな視線に見られ、それに笑みを返す。側に行くと、まるで愛犬でも撫でるような仕草で頭を撫でられた。

「それ、癖ですか?」
「ん?」
「頭を撫でるの」
「あぁ、らしいな。弟や妹にも言われた」

 あまり気にしていなかったのか、少しだけ驚いたように自分の手を見て、後は苦笑だ。

「まずいな、完全に仕事モードが抜けている」
「いいじゃないですか」
「お前、夜の心配しておけ」

 脅すような声音はその実本気じゃない。多分、照れたんだ。

「肩、揉みましょうか?」
「ん?」

 ランバートはファウストの背後に回り、肩を軽く揉む。予想よりもしっかりと硬い筋肉の付いた背中だ。

「気を使うな」
「やりたいと思う事しかしてませんけど」
「お前、世話好きだな」

 「それは貴方もだ」とは、言わなかった。

「やっぱり、立派な筋肉ですよね。でも、無理についているわけじゃないし、暑苦しくもないのに」

 滑らかな肌の下にある逞しさは、やはり触れているとより感じる。羨ましいと思うが、所詮手に入らないものでもある。それに、これでも日々の訓練で力はついてきたのだ。

「腰も揉みますか?」
「お前、本当に襲われたいか?」
「マッサージで欲情されるのもちょっと」
「しない。だが、本当に気にするな。これでも日々動かしているから、そんなに凝ってはいない」

 ムズムズとしているファウストを見ると、普段されていないのだと分かる。笑って、ランバートは体を離した。ちょっとからかってみたかったのかもしれない。

「俺、風呂の用意しますね。露天ですか?」
「あぁ、せっかくだからな」

 室内風呂からタオルとローブを持ち出して室内に用意する。そうして脱いで外に出ると、春先の夜風が全身を過ぎる。酔いが適度に覚める感じだ。

「綺麗だな」

 同じように衣服を脱いだファウストが隣に立って、桜を見上げる。室内の明かりにほんのりと照らされた桜が、枝を下げている。腕を伸ばせば触れられそうな、そんな感じだ。

「お湯、浸かりましょうか」

 こうしていると、意識をする。隣にある雄々しい体を見ていると、少しだけ触れたくなってしまう。悪戯と誤魔化してしまえばいいけれど、今はもっと静かな時間を過ごしたかった。
 湯はトロリとして、肌を滑らかに包む。温かなそれは体の芯に染み入るようだった。

「生き返りますね」
「年寄りみたいな事を言うな」
「だって、言いませんか?」
「言わない」

 かたくなに否定しながら、ファウストは肩まで湯に浸かる。黒い髪がふわりと湯に浮く。そしてその隣に、自分の髪も。

「やっぱりお前の髪は、月のようだな」

 不意にそんな事を言われ、髪が一房すくい取られる。それを見ながら、ファウストはとても柔らかく笑っていた。

「綺麗な色だ」
「俺は、ファウスト様の髪の色も好きですよ」

 照れ隠しのように言った言葉に、ファウストは首を傾げる。黒い瞳が機嫌良さそうに、柔らかく細められる。

「黒髪って、ミステリアスで好きです。ファウスト様は瞳の色も」
「母親がこうだからな」
「お母さん似?」
「どうだろうな。周囲はそういうが、俺はあまり実感がない。母は元気だったが、女性的だった。あぁ、妹は似ている」
「そうなんですか」

 この顔の女性となると、かなりの美人だな。そんな事をぼんやりと思う。

「お前は兄弟と似てるのか?」
「似てませんね。俺だけが母親似です。一番上の兄は完全に父と同じ顔をしていますし、直ぐ上の兄は目は母に似ていますが、全体的には父親似です」
「ヒッテルスバッハ夫人は、こういう顔なのか」

 ふむふむと改めて見られるのは少し恥ずかしい。お湯に鼻くらいまで沈んで睨むと、楽しそうに笑われた。


 湯から上がってそれぞれローブを着る。ファウストはセラーの中を漁っている。その横に、ランバートは帰りがけに買ったワインを置いた。
 薄い桜色のロゼワインだ。その瓶の底には綺麗な桜の花が沈んでいる。

「飲みませんか?」
「いいのか?」
「今日飲むのに買ったので」

 ニッコリと笑って新しいグラスを用意する。そしてふと、貰ったチョコの存在を思い出した。長く置いてはせっかくの物が食べられなくなってしまう。そう思って荷物の中から取りだした。

「オリヴァーのチョコか」
「流石に今日食べないと、悪くなってしまいそうですから」

 高級そうな黒の包装紙に、金のリボンが掛けられた小さな箱。丁寧にリボンを外して包装紙を取ると、中には立派な箱がある。その蓋を開けても、やはり高級感が凄い。
 四角いショコラは見た目シンプルだ。上に金粉が丁寧に乗せられている。

「確か、ボンボンチョコだと言っていましたね」

 一つを口に放り込んでみる。四角いショコラの中からは濃厚なウィスキーがトロトロと舌にまとわりついてくる。案外度数が高いだろう。一気にカッと喉が熱くなった。

「うわ、けっこう濃い」
「大丈夫か?」
「これ、弱い人だと酔っ払いますよ。でも、美味しいです」

 濃厚なチョコとボンボンの芳醇な味わいが広がる。ほんの少し鼻の奥に感じるのは、スパイスだろうか。ほんの少しでもバランスが崩れると調和が崩れて美味しくなくなりそうだ。そこがショコラティエの腕なんだろう。

「食べますか?」
「いや、酒の前に甘い物は食べない。お前が食べろ」
「案外分かれますよね、お酒と甘い物のちゃんぽんって」

 そう言いながらもせっかくなので美味しく頂く。体の中が熱くなるような感じは、強い酒を飲んだときのものに似ていた。

「あっ、でもロゼワインか。一度水飲んだ方がいいかな」
「お前、案外考えなしだな」
「美味しい物は食べてみたい」
「子供みたいだ」
「一応、まだ十九ですよ。子供と言えば子供です」
「こんな不遜で不敵な子供はいない」

 ソファーに座りグラスにワインを注ぐファウストに笑い、デカンタから水を汲んで飲み込む。それでも、体の奥が熱いような感じは残っている。よほど強かったのか、使われたスパイスの効果なのか。
 それでも口の中はさっぱり。対面に座って同じくワインを注ぎ、軽く乾杯をする。そうして飲み込むワインは甘い。でも体に入り流れ込んでいくそれが、やっぱり熱い気がする。

「どうした?」
「あぁ、いえ」

 気にするほどの事ではない。そう思って微笑み、じゃれるようにお酒を飲みながらつまみのチーズを少しずつ食べる。時間が過ぎるのが早い、そう思わせる時間だった。

 飲み始めて一時間程度がたったか。ランバートは自身の体に起こっている変化を無視できなくなっていた。
 体が熱い、だけならいい。だが、その熱は体の芯を疼かせるように甘い痺れを訴えている。上がる息をどうにか落ち着けているが、それももう限界だ。顔が熱い。そして、自分で動いて擦れる肌の感触に声を上げてしまいそうになっている。
 何より隠したいのは下肢の熱だ。誰も触れていないし、色気のある状況でもない。なのにそこは熱く痺れて頭をもたげ、トロトロと蜜をこぼしそうになっている。
 どうして突然こんなことになっているのか、分からなくて混乱する。既にまっとうに思考が働いていない。「どうして」「なんで?」という焦りばかりが頭に浮かび、対策も原因も思い浮かびはしない。

「ランバート?」

 ビクンッと体が跳ねた。直ぐ側にファウストがいる。対面に座っていたはずなのに、なぜか隣にいるのだ。

「あ、の」
「どうした?」
「あの、あの……」

 何か言わなければ。思えば思うほどに出てこない。肌に感じるファウストの熱に、声が漏れそうだ。でもこの人にだけは絶対に隠したいのだ。知られたくないのだ。
 指がくすぐるように肌に触れる。走った刺激に「ふっ」と熱い息が漏れて、焦って見上げる。ファウストが戸惑ったような、驚いた顔をしていた。

「あの、これは」
「お前、何かおかしな物を食べなかったか?」
「え?」

 おかしなもの? 思い浮かばない。泣きそうだ。こんな姿をこの人に見せたいとは思わない。むしろ、他の誰に見せても平気だがこの人にだけは見せたくなかったんだ。
 目の端に、食べたチョコの箱が映る。「あっ」と頼りなく漏れた声に反応して、ファウストの視線も箱へと向かった。

「これか」
「あの」
「薬が入っていたわけではないと思うが……何か悪さしてるのか」
「え?」

 薬?

 頭が回らない。感じるのは側にある人の視線と、触れる肌ばかりだ。それだけで芯が痺れて腰に重苦しいものが走る。またトロリと、先端から熱いものが溢れてフルリと震えた。

「媚薬を盛られたように見える。辛いか?」

 声は出せない。でも、フルフルと首を横に振った。心配そうな人の手を今は払わないと。そう思って見上げる視界は、薄らと揺らいだ。

「あの、散歩に……」

 立ち上がろうとして、膝に力が入らなかった。カクンと落ちた体を慌ててファウストが支えてくれる。けれどその手の感触に、熱い息が漏れていく。

「今は大人しくしておけ」
「では、お風呂に」
「こんな状態で風呂に入れば倒れるぞ」

 黒い瞳が厳しくすがめられる。だがどうしろって言うんだ。こんな熱に侵されたような体をどこに持って行けと。知られたくない人に浅ましい姿を晒している今だって恥ずかしくて辛いのに、これ以上どうしろと言うのだ。
 情けなくて、切なくて、わだかまる熱が辛くて泣けた。目頭を伝って涙が落ちるのを感じた。感情がぐちゃぐちゃだ。子供みたいに自分の事が伝えられなくて、ただバカみたいに泣いた。
 指が目頭に触れる。ビクッと体が震える。少し硬くて温かい手が頬を撫でて涙を拭っていく。

「こい」

 柔らかくて温かい声がそう言って、腕を引いた。力など入っていない体は簡単にファウストの腕の中に落ちる。肌に触れて、ゾクッと背に甘い痺れが走った。
 そのままお姫様抱っこなんて恥ずかしい状態にされる。抵抗できないまま、一度触れた肌を離せなくてしがみついた。そうして直ぐに、ランバートは寝室へと移された。
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