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19章:建国祭ラブステップ

3話:お疲れ様を言いたくて1(トレヴァー×キアラン)

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 騎兵府第三師団長ウルバスが数年後には隊を離れる。
 その知らせは騎士団内部で大きな衝撃となった。ある者は惜しみ、ある者は多少の不安を抱き。だが寿退団ということで大きくは祝福モードだ。しかも相手はファウストの妹。未来のシュトライザー公爵だ。

 だがここに、それを素直に祝うことのできない奴がいる。


「トレヴァー、今年の新年はどうするつもりだ? もしも予定がないなら出かけ……」

 年末が見えた頃、キアランの部屋で穏やかな時間を過ごしているのだが、ここ数週間の恋人の様子がおかしい。トレヴァーはぼーっと覇気のない顔で呆けていて、こちらの話も聞こえていない様子だった。

「トレヴァー、聞こえているか?」
「…………」
「トレヴァー!」
「わ! あっ、ごめんキア先輩。えっと……なに?」

 もうこんなのが数週間続いている。明日は安息日でお互い休みだというのに。

 ウルバスは海軍の指揮官としてトレヴァーを指名した。そしていつも以上に大変な訓練をさせている。
 最初こそウルバスに期待されている事を喜んでいたトレヴァーだが、徐々に萎れてきた。訓練の厳しさや疲労もあるだろうが、とにかく訓練以外の時間はこんな様子で何でもない所で転びそうになったり、階段から落ちそうになったりしている。数日前には風呂で寝て沈みかけ、チェスターとドゥーガルドが慌てて引き上げたとか。

 流石に、黙っているわけにはいかなくなった。

「お前、少し無理をしすぎていないか? 辛い時は辛いと言った方がいいぞ」

 トレヴァーの隣に腰を下ろしてきつめの声で言うが、それに返ってくるのは気力のない渇いた笑いばかりだ。

「確かにちょっと大変だけど、大丈夫ですよ」
「大丈夫そうにないから、こうして声をかけているんだが」

 呆れて言えばまた困った顔。こんな顔をされるとこちらが虐めているような気がしてくる。

「あの、さっきの話なんですか?」
「年末をどう過ごすか聞いていたんだ。全く耳に入っていなかったのか?」
「すいません」

 これは重症だ。キアランは溜息をついて立ち上がり、ベッドへとトレヴァーを引っ張った。
 約一年前から恋人という関係を築いたが、進みはとてもゆっくりだ。もっと性急に求められるかと思えばそうでもなく、優しくされるばかり。時には本番なしで互いに扱きあうだけというのもある。アレはアレで気持ちいいが、最近では少し物足りない。
 不思議なものでデートなどをして、体の関係もあるのにどっぷり溺れていく感じはしていない。上官シウスを見ると随分どっぷりに思えるのだが。
 まぁ、元々恋愛に向いているとは思っていないが。

 くたびれた大型犬が、とことこと近づいてくる。そして招かれたベッドに入るとキアランを抱きしめて、スンスンと匂いを吸い込んでいる。

「落ち着きます」
「しないのか?」
「…………」
「仕方ない。寝ろ」
「すいません」

 まったく、どれだけ疲弊しているんだ。

 小言を言いたい気分だが、今は案外悪くない。逞しい腕の中で、キアランもトレヴァーの匂いを確かめている。高ぶっている気分もこれで落ち着いていくのだ。
 トレヴァーはもう寝ている。規則的な寝息と胸の上下。見つめる顔は幼さがある。髪も洗いざらしだからだろう。

 それにしても、少しウルバスには言わなければならない。どうにもあいつはやるときと気を抜いている時の落差が激しすぎる。このままではトレヴァーが壊れてしまう。

 明日にでも言おう。そう決めて、キアランは眠りについた。


 翌日、まだ眠そうなトレヴァーを部屋に残して、キアランはウルバスの部屋を訪ねた。幸い住人はご在宅だ。

「どうしたの、キアラン?」

 なんとも気の抜けた声で問いかけるウルバスに多少の苛立ちがある。トレヴァーを考えると当然のことだ。

「ウルバス、トレヴァーの事なんだが」
「トレヴァーがどうしたの?」
「少し、訓練を緩めてくれないか。疲弊しきって危ないぞ」

 本来他府のキアランが訓練内容に口を出すのはいけない事だ。基本その部隊の事は部隊を管轄する上官に任される。これに異議を申し立てられるのは団長クラスくらいだろう。
 分かっていても口を出すのは、トレヴァーの様子があまりに違うからだ。あんなにボーッとしたトレヴァーは見たことがない。

 伝えると、ウルバスは首を傾げた。

「そんなに疲れてる? 訓練ではしっかりしてるけれど」
「その後が抜け殻だ。ずっと心ここにあらずだぞ」
「でも、あまり悠長にしてられないからな。覚えて貰う事が多すぎるし」
「だからって壊したら元も子もないだろ」

 あんなのが続いたらいつか疲弊して大怪我になりかねない。既にちょっと危ないんだ。
 そう伝えているはずなのに、ウルバスは考えている。考えるまでもなく休息を与えるのが上官の仕事だろうに。少なくとも時間外の勉強を少し緩めて欲しい。
 なのに、ウルバスは少し困っているのだ。

「自分事で彼に負担を掛けているのは申し訳ないんだけれどね。でも本当に、覚えてもらう事が多いんだ。海図の読み方ももっと勉強して欲しいし、陣の取り方。操船の方も暖かくなったら本格的に教えるし」
「おい待て! そんなにしたらあいつが本当に壊れる!」
「でもこれ、トレヴァーじゃなきゃダメなんだよね」
「どうしてあいつばかりなんだ! 他じゃダメなのか!」

 第三師団は人が多い。トレヴァーだけに負担をかけなくても他にも人はいるはずだ。
 そう主張するキアランに、ウルバスは珍しく仕事の、鋭い目をした。

「他の奴には、俺が見えているものが見えないんだよ」
「お前が、見えているもの?」
「なんて言えばいいのかな…………俺にはね、海の上に道が見える。どんなに敵艦隊に囲まれても、突破するための道が見える。潮を読み、空を読み、全てを感じて見えるものがある。この感覚はなかなか持っている奴がいない。俺の知る中ではトレヴァーだけだ」

 迫力のある声音で言われて、ぐっと言葉に詰まる。こいつの目にはそんなものが見えていたのかと思うと、改めて凄いと思う。全戦無敗の海軍総督の言葉は重い。
 そして、そんな男と同じものをトレヴァーは見ているのかと思うと誇らしい気持ちにはなる。

 だが、それとこれとは別物だ!

「このままじゃその才能が開花する前に壊れると言っているんだ!」
「大丈夫でしょ、あいつタフだから」
「そのタフな奴の体力やメンタルをここまで削るお前のやり方はどうなんだ!」

 これはもう恋人だからじゃない。普通に上官としても見過ごせない話だ。第一、体力馬鹿過ぎるんだ騎兵府の師団長連中は。自分と同じものを下に突然求めたらそりゃ疲弊するだろう。

「止めろとは言わない。もう少し速度を緩めてくれと言っているんだ。それでなくても突然の事であいつも心の整理が出来ていないんだろう。事を急ぎすぎていると言っているんだ」
「できるだけ早く仕上げたいんだけれどね。それこそ、海上に穴があくよ?」
「お前はどれだけ早期退団予定なんだ! 未定なんだろうが!」
「まぁ、そうなんだけれどね。俺も早めにしないと落ち着かないし。時間が余ったらそれだけ多く実戦とか色々できるからいいかなって」
「そんな理由であいつを追い詰めないでくれ!」

 ウルバスの言うことも分からないではない。おそらくキアランはこのタイプだ。仕事を後に残しておくのは気持ちが悪いし不安なので、可能ならば前倒しする。
 だがこれは自分だけが関わるから出来る事で、他人に求めはしないんだ。

 やんのやんのと話して、疲れ果てて「もういい」と言ってウルバスの部屋を出る。これはもう少し上の人間に判断を任せるべき事だと判断して部屋に戻ると、なんだかボーッとしたトレヴァーがベッドに座ったままいた。

「トレヴァー、起きてたのか」

 溜息をついて近づいてもなんだか反応が鈍い。疑問に思い近づいていくと、頬の辺りが少し赤いように感じた。

「どうした? 具合が悪いのか?」

 そう言って額に触れると、思ったよりも熱い。首筋に触れるとそれはより確かになった。

「医務室に行こう、トレヴァー」
「あ……でも」
「でももなにもない! 行くぞ!」

 鈍いトレヴァーの腕を引っ張っても動かない。そもそもキアランがどれだけ頑張ってもトレヴァーを動かす事は無理だ。
 こうなればこっちは諦める。トレヴァーをとりあえず寝かせたキアランはそのまま部屋の外に飛び出して、医務室へと急いだのだった。


「過労というか、知恵熱というか。どちらにしても過度の疲弊が原因ですので、休みが必要です」

 診察にきたリカルドが診断を下す。それをキアラン、そしてウルバス、ファウスト、シウスが聞いている。全部キアランが呼んだのだ。

「ごめんなさい、ウルバス様ぁ」
「何を謝るの、トレヴァー。寝なさい」

 ウルバスを見た途端、トレヴァーはとても苦しい顔をする。申し訳ないような、そんな様子にキアランの方が胸を痛めた。

「まだ軽度なので、薬の投与と休息をさせれば明日には動けると思います。ですが、可能なら数日休ませたいのですが」
「分かった、少し調整してみる。それについては追って報告する」

 頷いたファウストがトレヴァーの頭を一つくしゃりと撫でて、リカルド以外を残して全員出るように促す。そうして向かった騎兵府執務室で四人、顔をつきあわせての話し合いだ。

「休ませるべきです。ここ数週間のトレヴァーは様子がおかしかった。これ以上、無理をさせるべきではないと思います」

 差し出がましいとは思うが、言わずにはいられなかった。
 キアランの言葉にファウストが強く頷いた。

「少し詰め込みすぎだったみたいだな。ウルバス、構わないな」
「ドクターストップに異議を申し立てることはできませんから」

 仕方がないという様子のウルバスに腹が立って仕方がない。第一こいつが一番気に掛けなければいけないことだ。なのに……

 気づけば睨み付けて、立ち上がって、ウルバスの胸倉を掴んでいた。驚いた顔をしたシウスとファウストだが、ウルバスは実に静かなものだ。

「だから言ったんだ! 大事な後継者なら大切に育てろ!」

 分かっている、こんなのただのポーズでしかない。キアランではこいつの胸倉を掴んだって立ち上がらせる事すらできない。殴ったって、大した痛みも与えられない。今この腕を掴み上げられたらそれだけで音を上げるのはキアランの方なのだ。

 だがウルバスは凄く静かに頷いて、頭を下げた。

「すまない」
「っ!」

 「ごめん」ではなく、「すまない」という音に驚いた。ウルバスが普段使わない言葉だ。

「まぁ、キアランも落ち着け。どうじゃファウスト、休養として年始まで休ませるというのは」
「え?」

 シウスが腕に軽く触れて宥めてくれ、キアランは手を離した。そして提案に、少し驚いてシウスを見た。
 確かに年末までは残り三日ほど。その後年始の三日間は休みだから、今から休みをとれば六日の休暇になる。

「俺はそれで構わない。訓練なんかも緩めている頃だし、これと言って急ぐ事は騎兵府としてはない」

 ファウストが頷いて、ウルバスも頷く。シウスがそれを受けて頷くと視線はキアランだ。

「キアラン、お前も同じタイミングで有給を取るとよいぞ」
「え? ですが……」

 大分仕事を前倒しに年末の決済をしているから書類仕事は大分いいが、残ってもいる。毎年騎兵府の年末決済がネックだったが、ランバートが補佐に入った事でどこの部署よりも早く完璧な書類が提出されている。ここが終わっていれば、後は簡単だ。

「年末の決算が」
「そのくらい私がやっておく。既に大体が終わっておろう? 気にするでない」

 穏やかに笑い肩を叩くシウスが、とても頼もしい顔をしている。
 だからだろう、素直に頷く事ができた。

「有難うございます」

 素直に頭を下げると、シウスは一つ頷いた。

「どこか旅行にでも行くかえ? 場所くらいは把握したいが」
「とりあえず実家に一度顔を出しますが、その後はトレヴァーの様子とかもありますので未定です。ですが移動する前に宿舎に手紙を出しておきます」
「分かった。お前も一年疲れたであろう。ゆっくりと休むとよい」

 思わぬ長期休みになんだか思考が追いつかないが、とりあえずそうなれば引き継ぎはしなければ。頭を下げて退室し、宰相府の仕事部屋に赴いて取り急ぎ引き継ぎをした。
 それでも案外時間が経っていて、自室に戻ったのは夕方頃だった。

 トレヴァーは変わらずキアランの部屋で寝ている。リカルドの姿はなかったが、顔を見れば少し楽になったのだと察せられた。
 ベッドの縁に腰掛け、額に触れる。もう熱はないようで、呼吸も規則的だ。

「まったく、無理をしてくれる」

 いつもはトレヴァーのほうが口うるさくキアランに言っているのに、立場が逆になってしまった。
 けれどそれだけ、プレッシャーだったのかもしれない。突然ウルバスの後を引き継げと言われたようなものだ。全体はルシアンがまとめるし、師団長もルシアンが引き継ぐが、海軍総督という肩書きはこいつの上にあるのだ。
 自分よりも上の隊員は沢山いる。なのに自分が指名されたことは、こいつにとって重荷なのかもしれない。調和を考える奴だから余計に気にするだろう。
 もしくは先輩から何かしらの圧や、陰口のようなことがあるのかもしれない。

 そんな、答えの分からない事を色々考えている間にドアが開いて、薬やらを持ったリカルドが入ってきた。

「お疲れさまです」
「あぁ。すまない、任せて出てしまって」
「いえ、構いません」

 物静かなリカルドは必要最低限の事を口にして、サイドボードに薬を置いた。

 この人物も必要な事しか話さない。だが、不思議と居心地は悪くない。入隊当初はもう少し空気が鋭いというか、壁のある感じだったが、いつの間にか柔らかくなっている。
 トレヴァーに聞いたが、おそらくそれは恋人との恋愛が上手くいっているからなのだろう。

「先ほどシウス様からお話は伺いました。容態の説明をいたしますか?」
「あぁ、頼む」

 場所をソファーに移し、リカルドは持ってきた薬を前に置き直し、キアランへと向き直った。

「とりあえず熱は下がりました。彼の体力を考えると、ここから上がる事はないと思います。無理をすればわかりませんが」
「そうか」

 回復傾向なのは見ても分かる。随分楽そうだから。

「原因は、過労か?」
「精神的な負担も多少あるだろうとは思いますが、軽度のものですので休んでいただければ」
「そうか」

 やはり、プレッシャーがあったのか。分からないではない。毎度プレッシャーに押しつぶされて胃の痛い思いをしているから。

「もう薬はいらないと思いますが、一応解熱剤がこちらです。熱が高い時だけ使ってください。後こちらは、リラックス効果のあるお茶です」
「有難う」
「キアランさんは、今年は胃痛で担ぎ込まれる事がありませんでしたね」
「え?」

 ……そういえば、そうかもしれない。

「年末の健康診断も、今年は異常なしです。よく眠れているようですし、食事量が増えて体重も平均値まで行きました。毎年痩せすぎと体力のなさで必ず引っかかっていましたから」

 もう、言い返す言葉もない。
 キアランは毎年の健康診断で必ず何かしらの項目に引っかかっていた。その筆頭が食欲不振と不眠、体重のなさと筋肉量のなさだ。
 エリオットにまで溜息をつかれ、「とりあえず最低限、現状維持で」と言われる始末だ。

 回復の理由など分かっている。トレヴァーといると外に出かけて食事をする。嫌いなものも少し食べるとこいつが褒めるから、なんとなく食べるようになった。そして、散歩などが多くなって少し体力がついたと自分でも思うのだ。当然体を動かすから、よく眠れるようになった。

「お互い、よい恋人をもったということだろう」
「……そう、ですね」

 少し驚いたリカルドが見せた、蕩けるような柔らかい笑みを見ると本当に、幸せなのだと実感できた。


 リカルドが退室して三十分ほど経った頃、トレヴァーが起きた。
 起き抜けのぼんやりした顔は初めて見た。こいつはいつも先に起きるから、寝顔なんてほぼ見ていないのだ。

「キア先輩?」
「具合はどうだ?」
「んっ、少しスッキリしてます」
「そうか」

 硬い焦げ茶色の髪を撫でてやると、くすぐったそうに目を細める。けれど悪くないんだと思う。

「すいません、折角の休みだったのに」
「構わん。それに、休みなら明日から沢山できた」
「え?」

 訳が分からないと目をぱちくりするトレヴァーは、いっそ面白い。年下のくせに妙に大人の顔をするようになったこいつの、年下らしい顔だ。

「お前は明日から俺と年始まで休暇だ」
「えぇ! あの、でも……」
「ファウスト様とウルバスの許可は取ってある。俺も引き継いできた。何よりお前はドクターストップだ」

 伝えると、トレヴァーはとても申し訳ない顔をして項垂れてしまった。

「……そんなに、仕事がしたかったのか?」

 あまりに落ち込むから、聞いてみた。少し声に棘があるのはこの期に及んでという気持ちがあるからだ。
 トレヴァーは慌てて顔を上げて首をぶんぶんと横に振る。その後は、少し落ち込んだ。

「仕事がしたかったんじゃなくて、なんか自分が情けなくて、申し訳なくて。俺、もっと出来るって思っていたので」

 この期に及んでまだそんな馬鹿な事を思っていたのか。睨み付けると、トレヴァーは余計に小さくなった。

「お前、俺に働き過ぎだと五月蠅く言っていなかったか?」
「言ってました」
「今度は俺が言うぞ。働き過ぎだ、休め」
「面目ないです」
「まったく」

 溜息をついて…………それで全部流せるのだ。
 色々、聞かなければいけない事はある。聞きたい事もある。だがとりあえず、今はいいだろう。

「それで?」
「え?」
「とりあえず明日は俺の実家に連れて行くつもりだ。その後は、どうする?」
「え? …………えぇ! キア先輩の実家ですか! 俺も!」
「あぁ」

 意外と大きな反応にキアランの方が面食らう。なぜならトレヴァーは一度、キアランの母に会ったことがある。家にも来たことがあるのだ。
 ランバートの婚約式をしたとき、ヴェールの宛てを探していたトレヴァーから相談を受けて実家に眠っている物を思い出した。本当は自分だけが受け取りに行くつもりだったが律儀なトレヴァーは自分も行くと言って受け取りに行ったのだ。
 そこでキアランの母ハリエットとも話をしている。
 正直、あの人を攻略済みなのだから後はもうなんてことはないだろう。

「お前、うちの母親に会っているだろ。今更だ」
「それはそう、ですけど……。あの、それなら俺の家族にもキア先輩紹介しても……」
「一晩で胃に穴が空くが、いいか?」
「いいわけないですよ!! もう、分かりましたよぉ」

 潔く諦めたらしい。そういう部分もキアランとしては好ましい部分だ。無駄な労力を使わなくていい。

「でも、突然で大丈夫ですか? あと、夕方くらいにおいとま……」
「何を言っているんだ? そのまま泊まれ。翌日から一緒に動くつもりでいるんだから、わざわざお前の家に迎えに行くとか面倒だろ」
「泊まり!! え、本気で? ……うわ…………」

 トレヴァーががっくりと肩を落とす。だが、それだけで後は頭をガシガシかいている。分かっている、こういう時は折れてくれる時だ。

「……とりあえず、お土産何がいいですかね?」
「気を遣うな」
「最低限のラインなんで、これは譲りません」
「……分かった。土産は何でもいいぞ」

 どうにか受け入れてくれたらしく、キアランは満足に笑う。翌日の予定は、とりあえず決まったようだった。

◇◆◇

 翌朝、朝食後に荷物をまとめて落ち合う事になり、キアランは数着の着替えを鞄に詰め込んだ。実家だし、それで十分だと思っているとノックがあり、出ると何故か大荷物のトレヴァーがいた。

「……その荷物、なんだ?」
「え? だって、六日分の着替え……」
「そんなにいるか! 洗濯でも何でもすればいいだろ!」
「え!!」

 こいつ、洗濯する気がなかったのか。

 部屋に引っ張り込み、荷物を少し減らして出発し、下町で手土産を買ってキアランの実家へ向かった。

 今日は急だったので手紙も何も書いていない。だが、誰かしらいるだろうと実家のドアを叩くと、意外な事に母ハリエットが出迎えて、眼鏡の奥の目をまん丸くした。

「キアラン! あんたどうしたの? もしかして、暇出された?」
「そんなわけあるか!」

 出会い頭になんてことを言うんだこの人は。しかも自分の息子に向かってだ。

「あら、トレヴァーくんもいらっしゃい!」
「ご無沙汰しています、ハリエットさん」
「うんうん、今日もいい体してるわね。疲れてるから余計に涎が……」
「え?」
「ううん、こっちの話!」

 誤魔化すように明るい声で言ったが、キアランにはバッチリ聞こえている。本当にどうしようもない母を持ったと溜息が漏れるばかりだ。

「あの、こちらよかったらどうぞ」
「あらあら、いつも悪いわね。……って! これ、下町にあるビルさんとこの焼き鳥とチキンレック! トレヴァーくん、分かってるわね!」
「いや、はははっ」

 ハリエットが目を輝かせて大はしゃぎをしている。それだけこの人はあの店の焼き鳥が大好物なのだ。ビールに良く合うという。

「母さん、とりあえず入りたいんだが」
「あぁ、はいはい。それにしても荷物ね。もしかして、帰ったの?」
「働き者に少しばかりの長期休暇がもらえたんだ。トレヴァーも泊めたいんだが」
「いいわよ、部屋は一緒につか…………夜中に変な声出さないでね?」
「出すか!!」

 下世話に「ブフゥ」と笑う母をこんなにも殴りたいと思う事もない。最後には大声で笑って、「本当に女性なのか?」と疑いたくなる大股で奥へと歩いていった。

 部屋の中は意外とがらんとしている。時間的には昼だから、父と兄は仕事に出ているのだろう。お手伝いのミリアは既に休みを取っているようだ。

「ごめんね、ちょうどミリアが休みに入ったのよ。大したもの出せないけれど、その分気楽にしてちょうだい。あっ、トレヴァーくんお酒飲める?」
「はい」
「よっしゃ! 付き合いなさいな。キアったらお酒全然でしょ? もう、つまんなくて」
「悪かったな。これでも昔よりは飲める」
「あら! やだぁ、トレヴァーくんに影響されて背伸びしちゃって。可愛いわねあんたも」
「そんなんじゃない!」

 実はそうなのだが、この人にだけは言いたくない。腕を組んでそっぽを向くと、ハリエットはニヤニヤ笑い、トレヴァーは気の毒そうな顔をした。

「お茶淹れるわ。後もう少ししたらキャリーも来るそうだから」
「え!」

 使い慣れた茶器を取り出し、計っているのかいないのかな茶葉を放り込むハリエットの言葉に、キアランは少しだけ気持ちを浮上させる。椅子を引いてやってトレヴァーを座らせたキアランは、久々に会う妹に既にちょっとデレている。

「キャリーさん?」
「あぁ、妹だ。年末帰ってくるのか?」
「今日だけよ。あの子も今日で仕事納めだから、売れ残ったパンとか持ってくるって。明日は旦那の実家に顔出して挨拶するそうよ」
「そうなんだ。あっ、義姉さんは?」
「息子連れて今日は自分の実家。あの子も働き者だから、早めに休みだしたのよ。幸い、納品の品はもうないしね」

 お茶とお菓子を持って座ったハリエットは、そういう割りに疲れている感じがした。

「その割に疲れてないか?」
「少し片付けてたのよ。あんた達の古い服とか、もういらないでしょ? 教会に寄付しようかと思ってね」
「あぁ、なるほど」

 これでハリエットは物が捨てられない。整理が出来ないと言うよりは、思い入れが強くて捨てられないそうだ。ただ、それが結構な量ある。

「ふんぎりついたのか?」
「まぁ、孫も大きくなると物が増えるし、ちっちゃいのを着ていたあんた達は可愛げなく育っちゃって着れなくなったしね。次に回すのが、服のためでもあるかもって」

 そういうハリエットは少しだけ、年を取って見えた。

「あの、何か手伝える事があれば言ってください。服って、意外と重いし」

 話を聞いていたトレヴァーがそんな事を申し出て、ハリエットはパッと目を輝かせた。

「さっすがトレヴァーくん! そうなのよ、重くてちょっと腰が痛くなってきちゃって」
「俺、持ちますよ」
「トレヴァー、お前休むためにきたんだろ!」

 過労で昨日倒れた奴が何を言っているんだ!
 という思いなのだが、当の本人はまったく大丈夫な顔をしているのだ。

「このくらい、訓練に比べればほぼ仕事してないくらいの労働ですよ」
「重いぞ」
「いや、普段から船の帆を持ったりロープ持ったりと第三は体力いるんで」

 確かに、それに比べれば軽いかもしれないが。

「本当にいいの?」
「はい。泊めていただくのに何もしないのも心苦しいので」
「はぁぁ、いい子」

 トレヴァーは間違いなく、この母のお気に入りになったのだと分かった瞬間だった。


 その後、出るわ出るわの衣装箱が六つ。その全部をトレヴァーは二階から一人で運んできた。
 中からは懐かしい服があれこれ出てくる。なんと洗礼を受けた時に着ていた赤ん坊の服まで出てきたのだから驚きだ。

「キア先輩、こんなに小さかったんですね」

 子供用の服をあれこれ見ながらトレヴァーはなんだか嬉しそうだ。それを横目にキアランは丁寧に服を確かめ、直しが必要そうな物を弾いてそれ以外をしまい直している。

「当たり前だ、俺にも子供の頃はあった」
「そうなんですけれど。なんか、想像がつかなくて」
「俺で想像がつかないんじゃ、団長達は余計につかないぞ」
「…………あの人達、生まれた時にはあのサイズ」
「そんなわけがあるか」

 一瞬想像してみたのだろうが、放棄したらしい。動きを止めたトレヴァーが目を白黒させてそんな事を言い出した。

「そういえば、ランバートも想像つかないな」
「アレも特殊だからな。子供の頃の肖像画とか、ありそうだが」

 おそらく天使のようなのだろうな。今では迫力が凄いが、美人は美人だ。

 そんな事をしていると玄関の開く音と、若い女性の「ただいまー」という声が聞こえる。そうしてリビングに顔を見せた妹が、目を丸くしてキアランとトレヴァーを見た。

「お兄ちゃん! あっ、もしかしてこの人が噂の彼氏!」
「キャリー、母さん化してきているぞ……」

 まさかの第一声がこれかと思うと、あれこれ先が思いやられてしまった。

 妹キャシーは兄の欲目もあるが、明るくて気立てがよくて愛想がいい。長い銀髪に大きな青い目で愛らしい顔立ちをしている。母に似て小柄だが……なかなか成長がいいのだ。

 キャリーは手でパッと口元を隠し、改めて丁寧にトレヴァーに向き直り深くお辞儀をした。

「すみません、母から色々と伺っていたもので」

 何を話していたんだ、あの母は。

「キアランの妹で、キャリーと申します。兄がお世話になっています」
「あっ、トレヴァー・ワイネスです。こちらこそ、キア先輩にはいつもお世話になっています」

 トレヴァーも立ち上がってお辞儀をしている。その後で、キャリーは可笑しそうに吹き出した。

「なんだか、お兄ちゃんの恋人って全然想像つかなかったけれど。いい人そうで良かった」

 気の抜けた顔で笑うキャリーの笑みは、どこか安心したようにも見えた。

 程なくして父と兄も帰ってきて、トレヴァーを見て一瞬固まった。というか、父は固まりっぱなしで少し心配になったが、そこはハリエットが上手く動かしている。
 トレヴァーは遠慮しながらも笑っていて、騒がしいが安心した。やはりこいつはこのくらい賑やかでなければ。疲れた顔のこいつを見るのはどこか痛んだから。

 お湯をもらって戻ってくると、トレヴァーは兄クラークとハリエット、そしてキャリーに囲まれて、酒を飲まされていた。

「それにしても、キアに恋人なんて聞いた時には想像もつかなかったが」
「いい子捕まえてきたわよね、あの子! 見てこの筋肉! 腕筋とかパンパンよ!」
「うんうん、本当に素敵」
「あっ、いや、はははははっ」

 もう、どう対処していいか分からないのだろう。とりあえず上手く合わせて愛想笑いの状態だ。頼りない犬の目がこちらを見てピンと耳を立てる。その反応で、他もキアランに気づいたのだろう。

「おっ、キアも戻ってきたか!」
「兄さん飲み過ぎだぞ」

 長く飲めるが直ぐに赤くなる兄のクラークは既に出来上がっている。おそらく明日、一部の記憶がないだろう。
 その隣に座っているトレヴァーはハリエットに腕を撫でられて困っている。この母も既に出来上がっている様子だ。

「母さん!」
「あら、いいじゃない減らないし」
「そういう問題じゃない!」
「腰も締まってるし、腹筋は六つだし、尻回りギュッとしてるしで最高よ」
「私は胸筋がいいな。このみっちり詰まった感じが触りごたえあっていい」

 この光景を見ると、母子の遺伝の恐ろしさを知る。母と娘揃って筋肉馬鹿だ。

「……なんか、うちの女子って怖いよな」
「今更気づいたのか、兄さん」

 兄の酔いも醒める光景だった。

 何にしても湯上がりで気持ち良かった。適当に座ると目の前にスッと水が出され、トレヴァーが穏やかにこちらへと笑いかけていた。

「まだ髪乾いてませんよ、キア先輩」
「あぁ。そのうち乾くだろ」
「ダメですよ、ちゃんとしないと。風邪ひきますよ」

 スッと立ち上がり、後ろに立ってタオルを手にして丁寧にキアランの髪を乾かしていくトレヴァーに、キアランは僅かに肌を染める。本当は自分でできるのだが、付き合ってからこいつがしてくれるのが心地よくて時々、こうして濡れたままにしてしまうのだ。
 筋張って、少しごつい手が丁寧に髪を梳いて乾かしていく。僅かに耳の後ろや首筋に触れる指の感触がくすぐったい。

「……エロいわぁ」
「はぁ?」
「キアラン、すっかりメロメロなのね。あんた今、女の顔してたわよ」
「はぁぁ!」

 酒を飲みつつ観察していたのだろうハリエットがそんな事を言い、キャリーもうんうんと頷く。そしてクラークは思いっきり引いていた。

「いや、お前が男役なわけはないとどこかで思ってはいたが、だが…………見たくなかったなぁ」
「男泣きするのは止めてくれ兄さん!」

 よく分からないが女性陣はニヤニヤし、兄は泣くというカオスな状態が出来上がってしまった。


 根掘り葉掘り聞かれ、ドッと疲れた気がする。ようやく解放されて自室に戻ってきたキアランとトレヴァーは、もう苦笑するしかなかった。

「騒がしくて悪いな、トレヴァー」
「いえ、楽しかったですよ。俺の家族もあんな感じです」
「そうなのか?」
「はい。まぁ、兄は畑仕事で実家に帰ってくる事が稀で、最近顔をみていませんが」

 苦笑したトレヴァーにキアランは頷く。そして思うのだ。雰囲気が似ているなら、挨拶に行くのも少しは気が楽になるのではと。

「素敵な家族ですよね」
「……まぁ、嫌いじゃない」

 素直ではないが、キアランにしたら結構な褒め言葉のつもりだ。そしてトレヴァーもそれを分かってくれている。

 それとなく目が合って、少しドキドキする。それはきっとトレヴァーが男の顔をしたからだろう。
 言葉はいらない。僅かに顔を傾け近づいてくるトレヴァーの意図を察して、キアランも目を瞑る。触れた唇の感触と、ほんの少し触れた舌の感触に心臓がドキッと音を立てて、体が僅かに熱くなる感じがした。
 欲しているのだと認める。この一年でキアランは自分の欲求というものをちゃんと認めてやれた。

「今日はここまでだ」
「分かっていますよ」
「……明日から、旅行にいかないか? 今日のお礼にと、母が貸別荘の鍵を貸してくれたんだ。王都から馬で五時間くらいの場所にある、温泉つきのコテージなんだが」
「いいんですか?」
「まぁ、その……。ここだと、その……できない、から」

 最後は尻すぼみの小さな声でごにょごにょと濁した。言えるけれど、はっきり言うにはまだ恥ずかしさがあるのだ。
 それでも伝わって、トレヴァーも赤い顔をする。そして頷いて、ギュッと抱きしめてくる。その温もりは、なんだかとても久しぶりな気がした。
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きよひ
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無愛想な高一Domヤンキー×Subの自覚がない高三サッカー部員 Normalの諏訪大輝は近頃、謎の体調不良に悩まされていた。 そんな折に出会った金髪の一年生、甘井呂翔。 初めて会った瞬間から甘井呂に惹かれるものがあった諏訪は、Domである彼がPlayする様子を覗き見てしまう。 甘井呂に優しく支配されるSubに自分を重ねて胸を熱くしたことに戸惑う諏訪だが……。 第二性に振り回されながらも、互いだけを求め合うようになる青春の物語。 ※現代ベースのDom/Subユニバースの世界観(独自解釈・オリジナル要素あり) ※不良の喧嘩描写、イジメ描写有り 初日は5話更新、翌日からは2話ずつ更新の予定です。

恋愛騎士物語1~孤独な騎士の婚活日誌~

凪瀬夜霧
BL
「綺麗な息子が欲しい」という実母の無茶な要求で、ランバートは女人禁制、男性結婚可の騎士団に入団する。 そこで出会った騎兵府団長ファウストと、部下より少し深く、けれども恋人ではない微妙な距離感での心地よい関係を築いていく。 友人とも違う、部下としては近い、けれど恋人ほど踏み込めない。そんなもどかしい二人が、沢山の事件を通してゆっくりと信頼と気持ちを育て、やがて恋人になるまでの物語。 メインCP以外にも、個性的で楽しい仲間や上司達の複数CPの物語もあります。活き活きと生きるキャラ達も一緒に楽しんで頂けると嬉しいです。 ー!注意!ー *複数のCPがおります。メインCPだけを追いたい方には不向きな作品かと思います。

あの日、北京の街角で4 大連デイズ

ゆまは なお
BL
『あの日、北京の街角で』続編。 先に『あの日、北京の街角で』をご覧くださいm(__)m https://www.alphapolis.co.jp/novel/28475021/523219176 大連で始まる孝弘と祐樹の駐在員生活。 2人のラブラブな日常をお楽しみください。

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

月は夜に抱かれて

凪瀬夜霧
BL
建国の夜、詩人が語る物語。それは統一王国樹立の裏で愛し合った、二人の王の愛の物語。 タニス王太子ユリエルは不遇の王太子だった。王は聡明なユリエルを嫌ったのだ。そうして王都を追われた直後、タニス王都は戦火に包まれる。 敵国ルルエに落ちた王都を詩人に扮して訪れたユリエルの前に、黒衣の旅人が現れる。 二人はどこか引かれ合うものを感じ、言葉を交わし、徐々に思い合うようになっていく。 まさか相手が、敵国の王であるとも知らずに。 敵国の王同士、知らず愛した二人が目指したのは争いの終結と統一王国の樹立。それは困難極まりない道のりであった。 魔法なしの異世界戦記をベースとした長編BL作品です。

騎士が花嫁

Kyrie
BL
めでたい結婚式。 花婿は俺。 花嫁は敵国の騎士様。 どうなる、俺? * 他サイトにも掲載。

普通の男の子がヤンデレや変態に愛されるだけの短編集、はじめました。

山田ハメ太郎
BL
タイトル通りです。 お話ごとに章分けしており、ひとつの章が大体1万文字以下のショート詰め合わせです。 サクッと読めますので、お好きなお話からどうぞ。

恋愛騎士物語3~最強騎士に愛されて~

凪瀬夜霧
BL
「綺麗な息子が欲しいわ」という母の無茶ブリから騎士団に入ったランバート。 現在騎兵府団長ファウストとしっかり愛を育みつつ、団長補佐として新たなステージに立った。 隣国ジェームダルとの戦が視野に入り、ますますの活躍とその中で深まっていく愛情の行く末はいかに。 勿論他のカップル達も健在! 既に結婚した人達、現在秒読みな人達、まだまだこれからな人達、片思いな人達も。 みんなそれぞれの恋愛と生活、騎士としての道を進んでおります。 こちらの楽しんでいただければ幸いです。

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